禊上


直ぐ真横を風が擦り抜ける。
轟音と共に呻き声が聞こえて、慌てて振り向いた。
そこには本殿を囲む木の塀に背中を強か打ち付けて座り込む理熾さんがいた。
俯いたその顔は艶やかな黒髪に覆われて確認する事は出来ない。

一瞬停止した俺達だったが、真っ先に走り出した幸村と参謀に触発される様にして足を動かした。

「理熾さん!!理熾さん!!」

「幸村、落ち着け。あまり激しく揺すると余計に痛めるかもしれない!」

「っ…!理熾さん!」

何度も名前を呼ぶ幸村の、理熾さんを挟んで向かいに座り込む。
俯きながら「いってぇ…」と呟く彼女の口の端からは血が垂れていた。

打ち付けた痛みによって動けないのだろう彼女に触れようとして、はっとした。

2年前に会った時と変わらないその服装は、ところどころ汚れていて、その白い筋肉質の肌には火傷のような、血の滲んだ傷があった。

「これ、…この傷…おまんさん…」

「…俺達を逃がす為に火の粉をもろに浴びていてね。」

「何度も火に当たっているようだったから、離れる様に言ったんだが、一切聞いてくれなくてな。」

「…ったりめぇだろうが。てめぇらは火傷で済まねぇんだぞ。」

口を引き結ぶ俺達を気にする素振りを見せず、彼女は血の滲んだ右腕を抑えて、ふ、と軽く笑った。
何も出来ない俺はぐっと歯を食いしばり、鳥居を振り向いた。

そこには先程までいた面の影はなく、鳥居を潜り抜けた時と変わりない木々の風景が広がっていた。

「理熾さ…ッ俺の、俺のせいで…!!」

脇腹を押えた赤也が赤くなった眼から涙をぼろぼろと零しながら、辛そうな表情で頽れた。
地面に手を着いた赤也は、座り込んだ理熾さんよりも頭が下になるように、地面に額を擦り付けた。

「ほんっとに、すんませんでした!!!俺の我儘に先輩達まで付き合って貰って!!」

「赤也…、」

「おい、柳の反対とか押し切って神社行こうっつったの俺だぞ!それだったら俺だって、」

「いや!丸井先輩は落ち込んでる俺を見て言ってくれたんス!!…俺、まさかこんな事になるなんて思ってなくて…!!やっちゃいけない事だって分かってたのに、肝試しなんかして、自業自得なのに傷付いて…そんで、そんで、先輩達にこんな、迷惑、かけて…っ理熾さん、も…っすげぇ…怪我させちまったし、なのに!俺だけジャッカル先輩にしがみ付いてるだけでっ…めちゃくちゃ楽して…ッ!!」

嗚咽の合間から悲鳴のような謝罪が聞こえる。
全員が息を呑んで、必死で頭を地面に擦り付ける後輩を見ていた。

気にする事じゃない、と。
簡単に言い切ってしまえる事ではなかった。

実際に俺達は命の危機を味わって、死に物狂いで逃げてきた。
火の粉を浴びて、喉が焼けるような熱さを体感して、非現実的な超常現象を目の当たりにして、今到底考えられない様な疲労感と、恐怖を味わっている。

更に言ってしまえば、もし理熾さんが来てくれなかったなら、俺達は恐らく誰ひとりとして無事では済まされなかっただろう。

それを痛感しているからこそ、赤也はした事もない土下座を、今必死になってしているのだ。
痛むだろう、自分の脇腹を無視してまで。

「赤也、顔あげな。」

「幸村部長!…でもっ俺ッ!!」

「赤也。落ち着け。」

「ひっぐ…俺、俺ッ」

「赤也。確かにお前がやった事は浅はかも知れん。肝試しに行って、神社の灯篭を壊すなど言語道断だ。それによって俺達が危険に陥ったのも、確かな事実だ。」

真田の言葉に赤也の嗚咽が大きくなる。
じゃりっと、砂を掴む音が聞こえた。

「だがな、赤也。お前は俺達よりもっと恐怖を体験しただろう。」

「……え、」

「お前はあの恐ろしい面と対峙して、頭を下げた。そして、お前は息が出来なくなって、ここにいる誰よりも危険な目にあって、死にかけた。そのせいでまともに歩けなくなって、ジャッカルがお前に手を貸したんだ。自分の過ちをちゃんと反省し、後悔し、これ以上ない程の罰を受けたお前を、責める奴はここにはおらん。」

力強い真田の言葉に、顔を上げた赤也は呆けた顔を晒して、そしてぐしゃりと顔を歪めた。
恐らく、赤也を見つめる俺達全員が笑っていたからだろう。

「あり、がとうございまず…ッ!!」

「酷い顔じゃのう…」

「取り敢えず鼻水拭けよ。」

後輩を茶化しながら笑う俺達の傍で、微動だにしなかった理熾さんの唇が小さく動いた。それは聞き取れるほどの声量ではなくて、何を言ったのかまではわからなかった。
ただ、その時の理熾さんの細められた瞳が、酷く切なさを思わせた。

一度会っただけの俺達の為に、命を張ってくれた彼女は今何を思っているのだろう。

「理熾さん…来てくれて、本当にありがとうございました。」

彼女を唯一呼ぶ事の出来たブンちゃんが真剣な面持ちで頭を下げた。
すっと、彼女の細められた瞳が目の前で首を垂れるブンちゃんに向く。
その唇が震えるより先に、部員全員がゆっくりと頭を下げた。

「ありがとうございました。」

「理熾さんが来てくれなかったら、今頃どうなっていたか…」

「浅はかな私達の為にありがとうございます…」

「怪我までさせてしまって、本当に申し訳ない。」

「…女子なのに、すまんの。」

呆っと、その様を見ていた理熾さんはハッとしたように目を見開き、困ったように笑った。口の端で固まった血が、その表情とは不釣り合いで痛々しかった。

「約束は守る質なんだ。気にするな。」

緩慢な動きで手を振る彼女に、俺達は何とも言えず、ただ彼女が気にするなと言わんばかりに微笑むから、俺達もまた緊張が解けた頬で何とか笑みを象った。

ジャッカルは息を吐いて座り込み、赤也はその傍でしきりに礼を言い、幸村と参謀は理熾さんの体を案じ、傷の具合を見ている。
ブンちゃんはジャッカルと赤也の体調を気に掛け、真田と柳生は理熾さんの怪我の具合を見つつ、ジャッカルと赤也の様子も捉えているようだった。

俺はというと、未だに拭い切れていない不安を口にした。

「のぅ、」

「ん?どうした。」

「さっきのは神様なんか?」

「あぁ。そうだよ。」

やはりという感情と、夢現にいるような複雑な感情が入り混じる。
それは皆同じようで、強張った顔を各々見合わせていた。
緊張を落ち着かせるように細く息を吐いて、俺は質問に唯一答える事の出来る理熾さんを見つめた。

「神様は、まだ赤也に怒っとった。許されたとは到底思えん。…これからも、何か報復があるんじゃなか?」

俺の言葉にピリッとした空気が走った。
ごくりと、生唾を飲む音が響く。
俺は柄にもなく震える手をぎゅっと握りしめ、救いを求める一心で色素の薄い眼を見つめた。

黒く長い睫毛に縁取られた瞳がひとつ瞬く。

「許されてはいないだろうな…。まぁこの社で誠心誠意謝れば、許されるんじゃないか。」

許されていない、その言葉に血の気が引いたが、続いた言に眉を寄せた。
“この社”…?

「この社というのは、この大きなお社の事ですか…?」

「そうだ。」

「え…あの、さっきの神様とここの神様って関係あるんですか?」

「…は。」

参謀と幸村の困惑したような問いに眉根を寄せていた理熾さんは間の抜けた声と共に目を見開く。
そして軽く指で頬を掻いた後、じっと参謀を見つめた。

「君なら分かるんじゃないか。荒魂と和魂の違いを。」

「…確か、神様に人間と違い魂が複数あり、気性の荒い魂を荒魂、穏やかな魂を和魂というと、聞いた事があります。」

「そう。そしてここは荒魂と和魂をお祀りする社を分けている。君達がさっき詣でたのは荒魂をお祀りする社。そしてこの社は和魂をお祀りしている。」

ふ、と息を吐いた理熾さんは乱れた艶やかな黒髪を、無造作に掻き上げた。
そして俺達を見渡し苦々しい表情を零した。

「最初から和魂に謝りに来ていたら、こんな目に遭う事もなかったんだから、もうちょっと調べてから行動したまえよ、少年諸君。」

『す、すみません…』

思わず零れた謝罪は全員の呟きと重なった。
落ち込む俺達を見渡して、理熾さんは「はは」と軽く笑った。

そして腕に力を込めてゆっくりと立ち上がる。
慌てて幸村と一緒に両腕を掴んで支える。
立ち上がり詰めていた息を吐いた彼女は、少し微笑んだ。

「もう一度、許しを請いに行こうか。」

真っ直ぐに射抜かれた赤也は脇腹を抑えながらも、ぐっと口を引き結んで力強く頷いた。



今度こそ、気持ちが届きますように。

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