黄泉の国中
「…おい。おい、そこな君。」
「へっ…あ、はい!」
「これは一体どういう状況だ…?」
「どういう…って言われると、」
背中を向けたままの理熾さんに声を掛けられたブン太が困ったように視線をさ迷わせた。彼女の目の前には陽炎を揺らめかせ佇む般若の面。
その面から一切目を逸らすことなく、理熾さんは状況の説明を俺達に要求していた。
返答に窮したブン太は俺に視線を投げてきたが、生憎俺もどう答えたらいいものか分からない。
すると後ろからこの恐ろしい状況の中よく通る声が響いた。
「簡潔に述べるのなら、後輩が肝試しで灯籠を倒してしまい、怒りを買ってしまったので謝罪に来たのですが、それさえも逆鱗に触れてしまったというところでしょうか。」
振り向けば赤也の背中を摩りながら柳が口を開いていた。
相変わらず赤也は苦しそうな呼吸音を響かせているが、幾分回復したようでその顔色は血色を取り戻していた。
息を吐く間もなく、目の前にある背中は成る程と一言呟いた。
「これは、拙いな。実に拙い。」
「…何が拙いんじゃ…?」
「よりによって何故荒御霊の社に…」
「理熾さん…?」
仁王と柳生の問いかけにも応えず、理熾さんは何かを呟いていた。どうやら彼女が来た事によって状況が好転したというわけではなさそうだ。
理熾さんと対峙していた影がゆらりと揺らめき、一歩足を踏み出した。
それと同時に理熾さんが右足を一歩引いた。
砂利の滑る音だけが反響した。
何も出来ない俺達はただその遣り取りを見守るしかない。
ごくりと喉が鳴った。
そっと理熾さんの眼差しを覗き見れば、瞬きさえ惜しいというように見開かれた瞳が影を見据えていた。
いや、瞬きが惜しいというよりも、瞬きの間でさえ油断ならないという方が正しいのだろうか。
酷く打ちつける心臓は耳元で音を反響し、脳内では眩暈さえ覚えるほどの警鐘が鳴り響いている。一体どうするべきなのか。分からないまま、それでも目は逸らしてはいけないのではと、理熾さんに習って必死に目の前の影を見据えた。
また一歩、影が近付いた。
理熾さんは動かない。
「…少年達、動けるか。」
場にそぐわない凛とした声だった。
迷いや恐怖は一切ないといった、力強い声だった。
そのせいか、耳が音を拾ってその意味を解釈するのに時間が掛かった。
漸く理解して理熾さんの頼もしいその背中に視線を移した。
俺達の視線を一身に受けているであろう彼女は、軽く右手を上げた。
しゃらり、といつか見た銀細工の腕輪が鳴った。
「立て。」
その一言に俺は思わず赤也を見た。
未だに蹲っている後輩もまた、そっと顔を上げて背中を見ていた。
赤也の傍らにいる真田は眉を顰めた。
そして何事かを言いかけたが、同じように赤也の傍にいた幸村に止められる。
「幸村…」
「今は、理熾さんの言う通りにしないと。赤也には無理をしてもらうかもしれないけど。」
「…そうだな。命の危機に比べれば多少の無理は止むを得ない。」
致し方ないといった様子の幸村に、一つ頷いた真田は赤也に肩を貸して立ち上がらせる。ゆっくりと立ち上がった赤也は、くしゃりと顔を綻ばせて口角を上げた。
ただ、その笑みは無理に作ったと分かるもので、なんともいえない。
「へへ…俺、大丈夫っスよ。」
「少年、走れるか。」
「もちっス。」
理熾さんの言葉にも赤也は簡単に答えているが、未だに呼吸は落ち着いていないし、足元は覚束無い。
今にも倒れそうなその姿を見て誰が走れると思うのだろうか。
俺は思わず赤也の前に座り込んだ。
「ジャッカル先輩…?」
「乗れよ。俺がおぶって走ってやる。」
「は…?何言ってんスか…俺自分で…」
「そんなにフラフラの奴が何言ってんだよ。早く乗れ。」
「で、でも…それじゃジャッカル先輩が遅く、」
「皆、ジャッカルを先頭を走るよ。俺達は後ろからサポートしながら走ろう。」
幸村の一言に、一様に頷きと了解の意が返る。
俺が幸村に薄く笑えば、幸村も微笑を返した。その眼差しは正しく俺達を率いる部長たる由縁だった。
今にも泣きそうな赤也の背を真田が押して、俺の背中に体重が掛かった。
立ち上がればぐっと重量が掛かる。
出来るだけ赤也に負荷が掛からないようにと思っていると、耳元で鼻を啜る音と共に「ありがとうございます」という涙声の何とも情けない声が聞こえた。
小さく笑って「そうだな、髪の毛が首にあたって痒いな」と言えば「…うるさいっス」とこれまた涙声で返された。
ちっとも変わらない髪型と、確実に重くなった後輩を背負い直す。
軽く深呼吸を繰り返すとブン太と目が合った。力強く頷きを返されて、大丈夫だと無意識に思えた。
後ろにゆっくり下がっていく。
皆の背に隠れて理熾さんの姿は見えなくなった。
やがて一番彼女の近くにいるのだろう幸村の声が聞こえた。
「準備、出来ました。」
「なかなか行動が早くて助かるよ。じゃあ神社の境内に入るまで全力で走ってもらっていいかな。」
「それは神社の裏の鳥居を潜るまでって事ですか?」
「そうなるね。」
「…それは、いつですか?」
静まり返った山林に銀細工の音が凛と響いたのを聞いた。
そして天に昇っていた陽炎が轟と唸り、先程見た炎の龍がまるで陽炎を押さえ込むように舞い上がった。
熱風が肌を刺した。そして怒声が俺達を貫いた。
「走れッ!!!」
弾かれたように俺達は走り出した。
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