きんようび
 遅いな、とは思っていた。今日は金曜日、彼が一週間で一番機嫌良く帰ってくる日だ。いつだかのようにまた何か余計なものを買って来たり、はたまた教師仲間に飲みに誘われたりしたのだろうか。それなら、早く連絡してほしいものだ……と、冷めてしまったご飯にラップをしたとき、はっと思い出した。平日朝十時くらいの主婦向けの番組の特集、旦那への愚痴ランキング第1位、連絡が遅い。……嫁になったつもりは毛頭無い。だが、彼が帰ってきた時は、どちらかというと世の母親の気持ちになってしまった。
「悪い、祐月。猫拾った」
「……え」
「なあ、里親見つかるまでうちで飼っちゃダメかな。病院連れてってワクチン打ってもらったりしたけど、まだだいぶ弱ってるから……」
 少年の目をしながら彼が僕の表情を伺っている。段ボールの中の子猫は、随分と窶れた毛並みで僕を見上げ、にゃあん、と鳴いた。まあるい瞳は、ターコイズブルーの澄んだ光彩をしていた。それはちょうど、今段ボールを抱きながら僕を見つめる男と同じ色をしていた。同じように、キュルルンと甘えたような目をして、一人と一匹、にくらしいことこの上ない。


 子猫は衰弱もせず案外育っているようで、僕の想定していたほど手間もかからなかった。ただ、警戒はしているようだ。絶対に段ボールの外から出ようとせず、出る時は彼が――漣さんが抱き上げた時だけだった。猫の扱いに長けているらしい彼は、親指でくりくりと猫の顎を撫でている。そうすると子猫も気持ち良さそうにゴロゴロと喉を鳴らす。それにしても、猫が本当にゴロゴロと鳴くことを初めて知った。人間の比喩だと思っていた。生命の神秘だ。ソファに座った彼の膝の上で転がる子猫に、隣に座っていた僕もつい、目を奪われる。
「案外人慣れしてるな。良かった、酷い目に合わされたわけじゃなくて……な?」
 ひょいっと両手で子猫を抱き上げると、嬉しそうにそのまま頬ずりをする。にゃんにゃんゴロゴロと子猫も気持ちよさそうだが、それよりも僕はその鋭い爪が気になって仕方ない。さっき病院で切ってもらったとは言っていたが、その先端はまだ十分鋭利だ。それに、口を開いた時見えたあの歯はどうだ。あんなので噛みつかれたら、所詮人間は一たまりもないだろう。今はこうして彼に懐いているようだけど、いつ牙を剥くのか分からない。子猫が不意に僕を見た。ひ、と背中に寒気が走った。可愛いことには、可愛いのだけれど。
「お、祐月も抱っこする?」
「え、抱っこって……」
「普通にしてたらいんだよ。でも、じゃあまずは膝に乗るだけでもいっか? ほーらにゃんこ、こいつが祐月な」
 漣さんは何を勘違いしたのか分からない、子猫を僕の膝の上にヒョイと乗せた。途端、上体が震えた。茶色っぽい毛並みの生き物、高熱の塊が自分の膝の上にいるのだ。ドクドクと異常にはやい小動物の心拍の音が膝に響く。子猫はさっきまでのご機嫌はどこへやら、おっかなびっくりに辺りを見回して震えている。こちらを見ようともしない。まず、僕が一応生き物であることも知らないのではないだろうか。目を離せず、でも手も出せないでいると、彼がクスクス笑っていた。
「……祐月、お前もしかして、猫怖い?」
「……。怖くは……ないんですけど」
「あはは、体が引けてんぞ? 普通に背中撫でるだけでもしてやれよ」
 背中、背中なら確かに無難だ。せめて僕が置物じゃなくて人間であること、敵意がないこと、それから出来たら噛んだり引っ掻いたりしないでほしいことを伝えておきたい。恐る恐る、黄色がかったその毛並みに手を伸ばす。そーっと、毛の表面に触れて、またそーっと撫でようとしたときだった。
「……んにゃあ」
「ひっ……!?」
 瞬時に手が引っ込む。確実に威嚇されている声だ。猫なんてよく知らない僕でも分かる。敵意剥き出しの、攻撃対象に対する声だ。思わず漣さんの腕を掴むと、よっぽど可笑しかったらしい。ツボに入ったように笑い続けている。人が真剣なのに、酷い人である。子猫がピクンと耳を立てた。同時に、ぎゅっと腕を掴む力が増す。不可抗力である。
「っはは! 祐月、お前びびりすぎ……っ!」
「……っ、だって、猫とか触ったことないですし、いつ噛むかわかんないじゃないですか、」
「そう思ってんのが伝わってるから、こいつも警戒しちゃうんだよ。ほらにゃんこ、俺んとこ来るか? あはは、かんわいい」
 彼の腕の中にぴょんと跳ねて戻ると、子猫はまたゴロゴロと甘えた声をあげている。……なかなかあざとい猫らしい。不意にまた猫と目があってしまった。にゃあん、とゆっくり鳴いたその声は、まるで宣戦布告のようだ。漣さんにゴロゴロ操られているようだが、その実、操っているのはおそらく。
「……漣さん、」
「ん?」
「この子猫……性別は、」
「ああ、病院で見てもらったよ。女の子だってよ。雌猫。かわいいもんな!」
 ……。

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