「そうだよ。俺、元水泳部。大学時代までやってた」
 その台詞を聞いたのは車の中。あれ、言ってなかったっけ? と何でもなさそうに開いた窓の向こうに呟きながら、彼は器用にハンドルを切っている。ピピーッ、ピピーッ、と繰り返すバックの音と、左手でサイドレバーを弄る音とが交互に鳴る。無防備に露わにされている彼の胸や首筋を、見慣れたはずなのに思わず僕はまばたきをする。
「けっこういいところまで行ってたんだよ、これでも。まあ、これから見せつけてやれるけど……」
 カチ、とバッテリーを落とすと、一気に車全体がエネルギーを失う。彼が扉を開けると、むっとする真夏の湿度が車内に侵入ってくる。きょとんと助手席に座ったままの僕を置いて、彼は後部座席から何やらゴチャゴチャとしたビニールのかばんを取り出している。それでもまだ唖然としていた僕だったが、不意に助手席側のドアが開く。ん、としゃがんで、彼は無邪気に笑う。ターコイズブルーの髪が、高い太陽に照らされ宝石のようだった。
「ほら、行くぞ。お前が行きたいって言ったんだろ、屋外プール」
 むわっ、と再び這入ってきた熱気に思わず顔を顰めると、水入れば大丈夫だよ、と手を引かれた。


 そもそも別に、僕から行きたいと言ったわけではない。高校も夏休みに入り彼の仕事が落ち着き、僕の仕事も少しずつは入るものの相変わらず大体は休みといった、いわば二人して割とゆっくりとした生活を送っていた、とある日曜日のことであった。何となしに付けたニュース番組が、都内のプール特集をし始めた。むくむくと育てられた子供たちが彩り豊かな水着を着てはしゃぎ回り、その中で大人も男女問わず童心に帰ってふざけている。正直、あまり得意ではない光景だ。浮き輪に乗ってニュースキャスターも沢山の人間に揉まれながら流されていくのも、奇想奇天烈というか、どうしてあの有象無象の中に埋もれて不快でないのか分からない。人前で下着同然になる開放感からだろうか。
「お、プールか……いいな」
 いつの間にかシャワーから戻ってきたらしい、タオルを首に下げた漣さんがソファーの背もたれにのし掛かってくる。ついでに僕の頭を捕まえて、後ろから頬を突っついたりして遊んでくる。面倒臭い。
 テレビはプールサイドの美味しい食べ物を映したり、迷子の子供の密着取材をしたりと、プールWあるあるWなのだという物事を次々に映していく。知らない世界だと思った。けれど、最後に移った波打ち際のプール、これだけは、わかる。後ろからちょっかいをかけてくる手を追い払うと、僕は画面に食い入った。人工の波は抑揚をつけながら、ワイワイと人々を騒がせている。カメラが徐々に波の中へ、水中へと入っていくと、また、知らない世界。水が幾筋にもうねっていて、低い音がごぽごぽと聞こえる。水は深くなればなるほど濃度を増して澄んだ色になり、光射す水面は逆に輝いて見えた。
 本物の海はだめでも、ここなら、僕でも。無意識から湧き出た思考は、どうやら表情によく描かれていたらしい。後ろでクスクスと笑い声がしたかと思えば、わ、と突然視界にさかさまの彼の顔。髪の毛をひっくり返して、彼はニッと笑ったのだった。
「そんなに行きたいなら、行こうぜ」
「……え、でも」
「大丈夫だよ。よし、そうと決まれば準備しなきゃだな、お前何時に出れる?」
「待って漣さん、今日なんですか……?」
「鉄は熱いうちに打たなきゃな。お前が外のものに興味を持つの珍しいんだから」
「でも、その、腕が……」
「……あー、俺のパーカー貸してやるよ。これ、濡れても大丈夫なやつだから、あの波打ち際くらいだったら許してもらえるだろ。それよりほら、行くぞ」
「わ……」
 と、あっという間に連れてこられて、現在に至る。
 あちこち振り向いては躊躇う僕とは正反対に、彼はやはりこういう場所に慣れているらしい。ロッカーの鍵は手首につけるんだとか、プールの前にはシャワーを浴びるんだとか、僕の手を引いて漣さんは次々に試練をこなしていく。プールサイドに着いてからも、影にレジャーシートを広げ端っこにペットボトルを置いたり、隣のお父さんが顔を真っ赤にして浮き輪を膨らます中ポンプのようなものであっさり膨らませてしまったり。彼は日焼け止めにも詳しかった。「お前、からだが売り物なんだからちゃんとしないと」そう言って顔や脚や、肌が出ているところはほとんど全部、甲斐甲斐しく塗ってくれる。悪いなあ、と思いながらも彼に任せていると、足先に日焼け止めを塗っていてくれた彼は不意にこちらの顔を見た。
「……お前、俺に逆らわなくなったよな、無防備っつーか」
「……? そう?」
「いやまあ、お前がいいならいいんだけど」
 言っている意味がよく分からないが、意味深な笑みを浮かべる彼が何となく憎たらしくて、えい、と顎の下を軽く蹴ってやった。痛そうだ。
「……っいて! はい、これでお前終わりな。俺の分もやって」
 そして、彼の言ったことの意味はよく分かることとなった。ぺたぺたと背中や首筋や腕や、胸や腹にまでクリームを塗っていくのは、その、触り方が分からない。さっきまでの彼の手つきのいやらしさの無さがどれほど凄いのかを思い知った。変に気を配ると逆に擽るようになって、「えっち」と小声で囁かれる始末だ。脚に塗ろうと一旦体を離そうとした時、腰に彼の手が回った。
「……あはは。ここじゃなかったらキスしてた」
「突然盛らないで……」
「だってお前、可愛いんだもん、不器用に触ってくれて。あと水着似合うよ、髪もお団子にしてるとうなじ見えてラッキー、って感じ。正直女の子に見える、お前見てる男何人もいて妬く」
 女性に間違われるのも不服だが、それよりこの人だって、ここまでの道のりで何人もの女性の視線を奪っている男である。よく言うものだ。そんな僕の心は露とも知らず、彼は額をあてて囁く。
「なあ、キスだけなら許されるかな。誰も見てないだろうしさ、なあ……、」
「おかあさーん!! あの人たち引っ付いて何してるのー!?」
「シッ! 見ないの!」
 …………。
 少年とその母親の背中を見送りながら、僕は居た堪れなさにフードを被った。漣さんはしばらくクスクスと笑いながら、自分で日焼け止めを塗り始めた。

 念願の波打ち際は、予想よりも随分と人が多かった。ちょうどお昼を終えた人たちが殺到して混雑する時間帯なのもあるだろう。もう少ししたら人も減るだろうから、それまで別のところ行こう、と手を引かれたはいいが、あの有象無象のプール(流れるプールと言うらしい)、あれはまず却下だ。あの中に入る自身は更々ない。それから、水の滑り台(ウォータースライダーと言うらしい)、あれも出来ない。怖い。一般的で平凡なプール(ファミリープールと言うらしい)にも人が多いし、それならと最後に連れて行かれたのは、膝頭くらいの深さのプール。いわゆる子供のプールという奴だ。これは、流石に僕でも分かる。
「ほら噴水とかあるぞ、あれならお前でも大丈夫だろっ……おまえ〜!」
 僕が思わず顔面に水をかけたのを合図に、バシャバシャと水の掛け合いが始まる。駆けゆく子供たちに怪訝な目をされながらも本気で水のかけっこをしたら、思ったより疲れてしまった。丁度休憩の笛が鳴ったのもあり、レジャーシートに戻って休んでいたが、もう一度笛が鳴ると彼は一人でどっか泳いでくると人混みの中に消えてしまった。残された僕は、とりあえず大人しく、彼を待つことにした。待つのは、得意だ。彼が出していた小さな折りたたみ式の椅子に背中を預け、人々を眺める。
 顔がたくさんあると、その区別がつかなくなる。スクランブル交差点ですれ違った人が群衆としか捉えられないように。夜空にまたたく有象無象の星たちのように。その顔のない人々は、皆チカチカと笑いながら僕の前を通り過ぎていく。水に濡れた肌を晒して、ぺたぺたと歩いていく。眠気からか、意識が少しふわりと浮くと、それらはとてもまぶしいものに見えた。僕には、遠い世界だからだろうか。誰かと笑い合いながら出掛けた記憶は、あんまりない。微笑みかけながら引きこもった記憶なら、数えきれない。彼といるとよく分かる、僕の居場所は、思ったよりもずっと限られている。それ以外では、僕はあっという間に爪弾き者だ。
 それを寂しいと思うことはあまりない。僕は僕なりの幸福の形があり、ここの人々には人々なりの幸福の形がある、それだけだ。だけど、こうして人々の幸福に紛れようとすると、僕はどうしてもぎこちない。有象無象の星たちの中で、どこか浮いてしまう。それが幸い仕事の上では役立っているらしいが、いわゆるプライベートでは少し考えものである。
 ふと気が付けば、隣にいたはずの家族連れの荷物がさっぱりなくなっていた。見回すと、どうやら後ろに下がっていったらしかった。そういえば、真上にあった太陽が徐々に傾いて、影の場所が変わっている。だからなのだろうか。反対隣のレジャーシートも後ろに下がっていて、僕だけ飛び出たように前にいる。けれどまあ、一人で動かすのも面倒だし、何よりなぜか、身体が鉛のように重いのだ。立ち上がろうにも、力が出ないほどに、重い。それに、熱い。燦々と肌を照らし続ける太陽が、体内の血液を沸騰させていく。ふ……と気を抜けば、意識が飛んでいきそうだ。行き交う人が、僕を訝しげに一瞥していく。まあ、目立ってしまっているのは分かるけれど、そんな眉を顰めてひそひそ話までしなくていいんじゃないだろうか。深めに帽子も被っているし、正体がばれることはないだろうけれど。
 笛がもう一度鳴った時、太陽は僕たちが来た時よりもかなり傾き、僕のからだの殆どが日に照らされることになっていた。眠いのか、視覚も聴覚もぼやけているところに、突然彼は飛び込んで来た。眩しい青色。深い海底の色。それから、彼の声が何か言っている。その声の内容はよく聞こえないけれど、ただ待ち人が来てくれたことが嬉しくて、僕はゆっくり微笑んだ。彼が僕の頬や手や首筋に触れている。水から帰って来たばかりの彼は冷たくて、さかなのようだ。心地良さに身を委ねていると、染みるような安寧がやって来る。つい、目を閉じてしまうと、開かなかった。ぐっと海底から足を引っ張られるように、暗闇の中へと意識が沈んでいく。辿り着いたそこは、とても、静かなところだった。
 泡の溢れる音の中、あのひとの遠い声が聞こえる。あのひとの、声だけが聞こえる。

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