「まあ、ギリギリ中等症ってところですかね……どうですか」
「いや、もう処置が流石先生、手慣れてらっしゃったので、任せっきりにしてしまい申し訳ございません……」
「あはは、この時期医療スタッフさんも大変でしょうし、大丈夫ですよ。それにしてもまさか身内を倒れさせるとか、俺も失格っつーか……」
 薄らいだ記憶の中、彼に抱きかかえられて室内に移動して、やたらに体を冷やされたことは覚えている。彼の口はとても忙しく動いているのに、声が聞こえないのが不思議だった。声だけじゃない、人々の騒めきも聞こえなかった。彼の腕の中にいる時、多くの人に見られて囁かれていた気がする。だが、それは深い水底の世界のように、遠くぼんやりとした声で、言葉としては聞こえなかった。良くないことを言われているのは分かっていたけれど。聞こえなかったのはもしかしたら、水慣れした彼の加護なのかもしれない、と思った。
 ここのスタッフらしい男性が出ていくと、狭い一畳ほどの部屋に僕と彼がふたりきりだった。彼はベッドに横たわった僕を無言でじっと見つめると、僕の名前を呟いた。普段は優しい眦が、今は苦しげに細まっていた。
「れん、さん……」
「……、今、きこえた?」
「聞こえた……」
 ああ、そうか。僕も彼の言葉が聞こえなくてもどかしかったけれど、それは彼も同じだ。うまく返事のできないままの僕に、彼はずっと喋りかけ続けていたのだ。彼の目元が少しずつ開いて、瞳が大きくなる。彼は枕元にしゃがむと、僕の頬を撫でた。
「……よかった」
「漣さん……その、ごめんなさい、」
「ばあか、俺がお前放っておいたのが悪いんだろ。ごめんな」
 男性らしい無骨な手が、その見た目に合わず優しい手つきで僕を撫でる。親指が瞼を触ると、睫毛が彼の指に当たった。
 自分の状況は、なんとなく理解した。いわゆる熱中症というやつなのだろう。そこまで長時間外にいるのが久しぶりだったから、言葉の響きが懐かしい。思い出せば確かに炎天下だったし、水も飲んでなかったし、当たり前に倒れる条件は揃っていた。彼は悪くない、と思う。単に、不精をした僕のせいだ。なのに彼は、こういうときとことん自分を責めてしまうたちの人だ。微笑みを浮かべてはいたが、そこには不器用な自責の念が滲んでいた。
「お前、もうちょっと寝てな。その間に荷物とか取ってくるから、楽になったら帰ろっか。手首にロッカーの鍵付けてただろ?」
 覚束ない手を持ち上げると、彼が壊れやすい硝子でも触るかのような手つきで、ゴム製の輪っかを取り外す。すぐに戻っていこうとしたその手を追い掛けてしまったのは、何故だったんだろうか。彼の小指に、僕の小指が引っかかっている。僕も彼も、繋がった手に視線を送る。それから彼はにやっといつもの笑い方をすると、どっかりと床に胡座をかいて座り直した。
「どうした? 甘えたい時期?」
「……かも」
「じゃあいっぱい、甘やかしておかないとな」
 一度手を離されるともう一度、包み込むように恋人繋ぎをされる。満開に嬉しそうな表情が僕の顔の隣に倒れ込んできて、無言のうちにひとつだけキスをした。子供がするよりも少しだけ、視線に色香を含んだキスだった。そのまま空いた手で濡れた髪を梳かされる。彼の手に為されるがままに、ウトウトと目を閉じていると、漣さんは甘く低い彼の声でぼんやりと呟いた。
「ほんとにお前、逆らわないのな……というか、甘えられるようになった、ってことか」
「ん……?」
「昔はもっと懐いてなかったし、昔なら今日だって無理して大丈夫って言って、あとで一人でぶっ倒れてただろ? ちゃんと倒れられるようになったの、偉いよ」
 そう言って彼は髪を撫でてくるけど、あまりよく思い出せない。まだ熱中症から抜け切ってないんだろうか。全身は火照ったままだった。というよりも、今のこの状態が心地良くて他のことが上手く考えられないのもあるかもしれない。彼の手には、懐きたくなるような広さと大きさがある。漣さんはその後も何か喋っていたらしいけれど、揺らいだ僕の意識では聞き取れなかった。
 やがては下に落ちていった意識の途中、漣さんはやはり何か言い残していなくなったらしい。扉が閉まったらしい頃には、もう半分夢の中だった。医務室の天井に石を落としたような波紋がゆらゆら揺れて、僕の意識は向こう側へと旅立つ。

 そこは、今の彼の部屋ではない。まだ彼が大学生だった頃の、ベッドとその他の家具を無理矢理押し込んだような狭いワンルームだった。どうやら、僕の脳はさっき朧げだった昔の記憶を辿っているようだ。今思うと、パーソナルスペースもあったものではない、一人暮らすのもやっとの部屋だ。よく彼も僕を拾ったものだ、成人男性の置き物が増えれば、実質彼が動けるスペースなんてほんの僅かだろう。
 僕が拾われたのは彼が大学四年の冬、新社会人になる直前でのことだった。だからその部屋で過ごしたのは本当に数ヶ月で、でも、その数ヶ月にいくつかの出来事が詰まっている。
 ああ。そうだった。思い出した、さっき彼の言っていたこと、倒れられなかった日の僕のこと。彼の部屋に居つくようになってから一ヶ月程経った頃だった。寒い、と思った。当たり前だ。二月なのだから。でも暖房も付いているし、毛布だって被っている。なのに寒い。不思議なのは体の表面だけが寒くて、内側や脳だけが燃え盛るように熱いということだった。
 あの人は、その日も外に出ているらしかった。卒論を提出した後、彼は解放されたようにあちこちに出向いているらしかった。今日は懇談会とか、バイトとか、今日は遊びとか、色々言っていた気がするけどあまり分からなかった。スーツで出掛けていくときもあれば、洒落た私服のときもあった。帰ってくる時も絵に描いたような疲労を表情に浮かべてくるときもあれば、目も当てられない程に酔って帰ってくるときもあった。僕は彼がいないその間、殆どの時間を彼の部屋の角にしゃがみ込んで過ごした。あの人のものに溢れたこの部屋を我が物のように使うのは、嫌だった。だって僕も、あの人の「もの」なのだから。たとえばタンス、あれは彼の服を収納することであの人の「もの」でいる。もっと小さくて、眼鏡でも、あの人の視界を明瞭にすることで彼の「もの」でいる。あの人の役に立つ以外の時はちゃんと大人しく、テーブルの上に鎮座しているだろう。僕が何とかあの人のために役立てると思ったのは、あの人に言われた家事だった。部屋の掃除は、体が動くようになってから真っ先にした。洗濯もした。夕方になると、一人分の料理を作った。それ以外は、自分の場所に鎮座していた。だから、いわばそのスリープ・モードの時に、異変が起こることは想定外だった。
 壁に触れているはずの背中なのに、後ろに何かいるような悪寒がする。それから喉も駄目だ。今朝からじりじりと熱いし、重い咳をする度に焼き潰すようだ。でも、日は暮れてきた。あの人が帰ってくる時間も近いだろう。この前作った時にあの人が美味しいと褒めてくれた、茶碗蒸しを作らなければ。あの人は、美味しいと思ったものを本当に美味しそうに食べる。丁度うんと寒い日だったからか、ほくほくと幸せそうにスプーンを握りしめる姿を見て、僕もちゃんと出来たと、嬉しいと、思えたのだった。だから、また、作らなきゃ。よろめきながら立ち上がって、それから、冷蔵庫を開く。材料を出して、それで、卵液を作って。そうしているうちに、ガチャガチャと鍵が回る音がした。
「あ、おかえりなさ……」
「……お前、どうしたその顔」
「顔?」
 狭いアパートだから、玄関とキッチンは目と鼻の距離だ。彼は鞄も肩にかけたまま、僕の頬を触った。冬の空気にうんと冷やされた彼の手は氷のようにキンとする。頬の熱との温度差に、彼の手は驚いたように手を跳ねさせた。だがその後も僕の額にべたべた触るものだから、僕も少し不快感が湧く。何……と下から睨もうとしたはずが、結局彼に掴まれた肩の揺さぶるままになってしまった。
「お前、寝ろ」
「え?」
「熱やばいぞ、風邪引いてんだよ。だから早くそこ横になって」
「え……でも、ご飯、」
「いいの」
「でも、ちゃわんむし、」
「だーかーら、病人は寝るのが仕事!」
「……でも」
 バグを起こすならともかく、本来の仕事が出来ないのでは、駄目だ。僕はこの人の「もの」じゃなくなる。僕はここに居られなくなる。昨日使えなくなったスポンジを捨てたのと同じだ。僕はこの人のために、とにかく何かしなければならない。しなければ、どうなるのだろう。存在意義が無くなる。また外に放り出されれば、それはそれでいいけれど、あの人がここにいろというのなら何かしなければ、ならない。僕は多分、困っていた。けれど彼も同じように、困った顔をして溜息をついていた。だが、きっと僕を見つめたかと思うと、両手を握られ諭された。
「だから。……いい? あとでいっぱいご飯でも何でも作ってもらうから、病気の時くらい、甘えてもいいんだよ。自分本位になっていいんだよ」
「甘え……る、」
 辞書の言葉上の意味は分かったけれど、実際の文脈上の意味が分からなかった。というより、甘えてもいい、という可能性の提示だけなら、僕はその可能性を取らなければいいだけの話ではないだろうか。でもどうやら、彼はその「甘え」を望んでいるらしかった。
 僕は黙り込むと、おずおずと彼のベッドに寝転がった。ここに入るのは、拾われたばかりの頃歩けなかった時以来だ。安物のマットレスに然程柔らかさは無いが、彼の匂いの染み付いた布団は自然と全身をまどろませた。彼はその枕元にしゃがみ込むと、薬と水を持ってきてくれていた。
 それからは、電源が落ちたようにぐっすりと眠りこけてしまった。次の日にもまだ風邪は長引いていて、彼は友達と遊ぶ予定をキャンセルして僕の看病をしていた。甲斐甲斐しいくらいの世話焼きに、僕はぼんやりする思考の中でも呆れかけていた。そういえば、この人は今度学校の保健の先生になるのだと言っていた。確かにここまで面倒見がいいと、教師や医者なんて適役なのかもしれない。午後になる頃にはだいぶ熱も下がったのか頭も回ってきて、反対に彼が寝落ちていた。そりゃあそうだろう。ここまでずっと、僕の世話に必死だったのだから。
 翌朝目覚めると、彼は先に起きてるらしかった。横向きになって薄らと目を開けかけた僕に気がついていないらしい、マグカップを手に胡座をかいて、僕を見つめている。しんと冴えた冬の朝の空気。カーテンの隙間からグレイの光がぼんやりと差し込んで、輪郭の曖昧な彼の影を作っていた。だがその影が不意にぼんやりと動いた。そして、もう均等になった温度が、僕の頬に降った。柔らかな感触と愛らしい音に、僕はゆっくりと瞼を閉じていった。薄目で見えた自分のまつげの影が、かすかにふるえていた。

 そうだろうな、とは思っていた。たとえば、着替えの時。たとえば、風呂上がりの時。たとえば、水を飲んで喉が動いた時。あの人は、昔僕を見た人のような目の色をした。罪悪感を抱えながら気まずそうに、でも抗えない熱を持った目の色。そういう人に、僕が少し仕掛けてあげると、大概暫くするとお呼びが掛かった。マンションの高層階の時もあった。ホテルのスイートルームの時もあった。なんだ。分からない人だと思ったけれど、結局あの女の人や男の人と同じでいいんじゃないか。僕は安堵した。けれど胸の裏側が、不思議と失意を覚えていた。料理よりも、洗濯よりも、こっちのほうが慣れている。僕はちゃんと生きられる。この人のために生きられる。ねえさんが望んだ僕の生を、叶えることが出来る。
 僕の風邪から一週間くらい経った日だった。暗い雲が空を覆い続ける、冬らしい日だった。あの人は、友達と遊んできたとか何かで、とにかく上機嫌で帰ってきた。朝から聞いていたがご飯を外で食べてきたらしく、帰ってきてすぐベッドに寝転んでスマートフォンを弄っていた。お風呂は、と尋ねると、明日入ると返事をされた。明日は、彼が久しぶりに予定の無い日だった。折角だし、ずっと家にいる僕を引っ張り出して近所の街に連れて行こうとしているらしかった。スマートフォンで調べているのはそのお店で、おいでと言われ傍に寄ると、ああだこうだと多弁に紹介してくれた。僕は頷くふりをしながらも、顔の横に垂れていた髪を耳に掛けた。まただ。そういう、目の色だ。
 まあ、歩きながら考えたらいっか。そろそろ寝ようぜ、悪いけど電気消してくれる? 確か、そんなことを言っていた気がする。僕はその台詞に頷いた。頷いたけれど、電気を消すことはしなかった。彼の隣に座ったまま、ただじっと、あの人の瞳を見つめていた。すぐ触れ合える距離にいるのに、「あの人」と形容したくなるほど、彼と僕の心境は程遠い。キョトンと笑って、まだ分からないという風な彼に、額を合わせることで知らしめた。笑顔が消える。困惑と期待の入り混じったものが瞳の奥に流れて、かなしい。ゆづき、僕の名前を呼び掛けたその唇を塞ぐように僕は一瞬だけ啄んだ。それでもすぐに困惑の声を上げようとした唇を人差し指で止める。ねっとりと視線を絡ませ、無理矢理こちら側に引き摺り込んで、今度は小首を傾げて焦らすように唇を重ねていく。下唇が重なる時は、まだ視線を配す。上唇が重なる時にうっとりと瞼を閉じる。そして彼の肩に腕を乗せ、もう逃すまいと首に絡ませる。
 上唇を挟んで軽く持ち上げる、擽ったいような動作を繰り返していると、頑なに拒んでいた彼の唇もようやく隙を見せた。舌を捻じ込み、逃げる彼の舌を追いかけるうちにいいところに掠ったらしい、彼が小さく息を漏らした。重点的にそこを擽ってあげると、彼の吐息はあっという間に厭らしい色熱を帯びていった。ぐっと肩を掴まれたのを合図に一度唇を離すと、彼は自分の口元を抑えて呼吸を荒くしていた。瞳が潤んで、ほとんどこっちに足を踏み入れた顔をしていた。僕は彼の腰のあたりに跨り座ると、ニコリ微笑んで髪を解いた。白熱灯の明瞭な明かりが、部屋を照らしていた。
「ばっ……お前、な、なに、」
「……え? セックス……」
「は、え? な、なんで、」
「だって、僕のことそういう目で見るでしょう……」
「みっ……見てねえよ! お前男だしっ、」
「でもこの前の朝キスしてきたじゃないですか……」
「はあ!? な、なんでお前起きて……いやしてねーし! してねーから!」
「それに僕、漣さんのこと、すきですよ」
「え……え?」
「だから、いいじゃないですか。勃ってるんだし……」
「あーっ……!?」
 そりゃ、腰に座ってるんだから分からないはずがない。後ろに手を伸ばせば、膨らみはすでにスラックスの生地を引っ張らせているようだった。真っ赤だった顔がさらに赤くなる。生娘みたいな表情に笑ってあげると、彼は唸りながら頭を掻いた。そして僕が顔を近付けた隙に胴体を掴んでくるりと体勢を変え、上下は逆転する。僕に覆い被さった彼の目の余裕の無さに、また笑ってあげた。
「……ごめん」
「なんで漣さんが謝るの……」
「だってそりゃあ……」
「いいんですよ」
 だって、どうせ今晩限りだろうし。内心の呟きは声にしない。彼はその間、部屋の電気を消しに行っていた。時刻は確か、十二時を回る少し前だった。闇に最初は目が慣れなかったけれど、徐々にぼんやりとした彼の輪郭が見えてくる。もう一度同じように覆い被さってきた彼は、僕の首筋に顔を埋め、優しくするから、と耳元で低く囁いた。
 勇気がないのか、彼は唇には触れずうなじにばかりキスをしていた。それはそれで良いから相応の反応はしたが、僕が近くにあった耳朶を舐めてあげるとその動きが震えた。苦虫を噛み潰したような顰め面、でも赤い頬で、彼は僕を見る。誘うようにほくそ笑んであげると、少し怒ったような恥ずかしいような表情で唇に食らいついてきた。唾液の生々しい音が直接骨に響く中、彼は服の上から腰を緩やかに撫でてきて、僕は悶えるように身体をくねらせた。そしてその手は僕の服のボタンを順番に外していく。ひやっとする外気に晒された肌の冷たさを拭うように彼の手が這う。おかげで唇を離した頃には、僕の低体温な身体もむせ返るような熱を帯びていた。彼もトレーナーを脱ぎ捨て上半身を露わにしたので、その熱を返すように密着していった。
 吐息を手の甲で抑えながり、胸元で蠢く彼の頭を眺める。時折あ、と吐息が嬌声になり腰を浮かすと、彼が鋭い目でこちらを見た。意図せず経験豊富になってしまったため、女性ではないけれどある程度感じるようにはなってしまっていた。そこからさらに下へ動き、少しだけ硬さを持ち始めた局部に服越しに触れられた時、僕は彼の名前を呼んだ。我ながら、あざとい声だと思う。自分のどこからこんな声が出ているのか、よく分からなかったけれど、これは相手に良く気に入られた。ここから、さらに相手の脳が浮かれていくことも多かった。
 けれど漣さんは、不意に密着していた上半身を起こした。僕はきょとんとした。彼の眉が悲しげに下がっていた。彼はマットレスに散らばっていた僕の髪をひと束掬い、さらさらと流しながら、最初に戻るように耳元へ唇を寄せた。それで、ささやいた。
「お前、嘘、つくなよ……」
「……?」
「別にそれほど、きもちよくもねえんだろ……」
 そんなはずはない。確かに昔、年寄りのくせに性欲を持て余した名誉会長か社長か何かを相手にした時よりかはずっとゆるやかなセックスだけれど、それとこれとは別だ。まだ、この身体は快楽をちゃんと覚えられる。そのはずだ。
 彼の手が、僕の頭を心拍に合わせて撫でていた。子供をあやすような、優しい手だ。愛人にするような、穢れのある手ではなかった。清らかな、残酷なまでに清らかな手だった。
 僕は一呼吸を置いてから、首を振った。
「お前、たぶんさ、こうして俺みたいな相手に、喜んでほしかったんだろ……だから無意識のうちにさ、喜んでもらえる行動を、取ってたんだよ……。自分のからだも、心もバグらせてさ」
 僕はまた、一瞬間を置いてから、首を振った。まだ、首を振った。
「俺のこと好きって言ったのも、あれも嘘だろ……好きな相手だから、セックスしても傷付かないって、思いたかったんだろ……好きでもないのに、無理矢理好きって思って、それで……それでさ……」
 まだ首を振ろうとした頭を、彼が抱き締めて止めた。僕はもがいた。ぎゅっと目を閉じていた。
「もう、やめてもいいよ。……でも、もし続きするなら、嘘はつくな……お前が消えちゃうぞ、祐月、」
 消えている方がましだった。
 たまたま見て拾った誰かの動作を継ぎ接ぎして、作っている方が、まだ、ましだった。
 彼が僕を解放していくと、重い睫毛と共に瞼が開いていった。自分でも、冷たい顔ををしているんだろうとわかった。何も思っていなかった。こんなに抱き締められて、激しい熱に触れているのに、僕の体はすっかり冷え切っていた。僕はこてんと頭を傾げて、部屋の対角線上の虚空を見ていた。彼の表情は、いや、彼の存在すらも然程大きなものとは思えなかった。不意に目線が動くと、いつの間にか雲の切れ間から月明かりが差していた。僕の顔の半面を映したその明かりが、だんだんと遠くなっていくようだった。沈んでいく。暗い暗い闇の底へ、記憶の底へ、沈んでいく。マットレスを通り越し、自分の体が落ちていく。彼は、何一つ口を開かない。ただその気配は、水面の色は、どれほど深く堕ちていっても僕を離れなかった。僕はカーテンの隙間、雲の隙間から、僅かな光を零す月を見つめながら、そっと呟いた。
「……、やめないで……」

 驚くほどに、声はなかった。透明な一人ぶんの息と、シングルベッドのスプリングが規則的に鳴っていた。突かれるたび、確かに喉は閉まって空気が吐き出されているはずなのに、魔法のように僕の息だけがなかった。ただ一人で、息を荒くしていたあの人は、一体どんな気持ちをしていたのだろう。まるで、ゆうれいでも抱いているみたいじゃないか。魂だけ先に死んでしまって、からっぽのからだだけが残されたゆうれい。彼は、かわいそうな人だ。利用されて、僕と一緒に、沈む羽目になって。果てる直前の朦朧とした意識の中、僕はさかなのことを考えていた。あの月の中を泳ぐさかなだ。気ままにあちこちへ、クレーターをあっという間に乗り越えて、飛び回るさかな。僕は闇の中に沈みながら、閃光のようなそのさかなの光を思う。いいなあ。遠のいていく光。闇に飲まれてくその瞬間、ぎゅっと誰かに抱き締められた。深海に似つかわしくないその暖かさに、僕は全身を熱くして、はっと息を吐き出した。
 そして、あまりにもやさしすぎる波がのぼってくる。彼も僕を抱き締めながら達したようだった。薄い膜越しに、どくどくとぬくい液が放たれていくのを感じる。繋がったまま、彼は僕を見詰めていた。僕は相変わらず、月光を見上げるばかりだった。
 視界が、徐々にぼやける。僕の片方の目に、雫が溜まっているようだった。僕は昔から泣かない子供だった。どのくらい泣かないかと言うと、家族が全員死んでも、家が無くなっても泣かないくらいに、泣かなかった。死のうと思っても、それで死ねなくても、泣かなかった。僕の涙は元から、どこにもないのだ。だから、これは、きっと僕のものではないのだろう。少なくとも、今の僕のものではない。昔流し損ねた涙の一滴か、それとも彼の涙か。その、どちらかなのだろう。ねえさんは、涙は悲しい時に流すものと言っていた。僕は今悲しくない。悲しみさえわからない。だから、やはり、そうだ。
 彼は、静かにはにかんだ。青髪のシルエットが月に照らされて、不思議な色をしていた。
 涙はやがて粒になると、眦から音もなく零れ落ちた。彼はそれを拭うことなく、マットレスに落ちて染みになるまでを、ただ見守り続けてくれていた。

 僕は次の日の朝、彼の家を出るつもりだった。今までもそうだった。一度愛されると、愛しかけると、どうしたらいいのか分からなくなって、逃げ出したくなってしまうのだった。だから、今回もそうだと思っていた。目覚めてみると、彼の腕の中だった。シングルベッドに成人男性二人が横たわるのは相当無理があった。僕はその腕の中から逃げ出すはずだった。スプリングを軋ませないように気を配りながら、そっと消えるつもりだった。なのに、僕はその腕から、逃げる気持ちになれなかった。むしろ、もう少しだけ。もう少しだけなら、許されるだろうか。そう願いながら、僕はもう一度彼の腕の中で目を閉じた。裸のまま絡み合って、彼の胸に縋った。
 そうして、今も惰性で、ここにいる。


 そんな懐かしい記憶を、夢現で辿っていたのは、あの日のシングルベッドではなくもう少し大きくなったツインベッドでのことだ。どうやらあれから車に乗って帰ってきて、漣さんが寝かせてくれたらしい。時計は午後の六時を指し、なかなか良い時間だ。漣さんも隣で寝こけてしまったらしく、ごろんと寝返りを打つとすぐ目の前に横向きで寝る彼がいた。けれどそんな物音で起きたのか、彼はうとうとと目を開けて、柔らかく笑った。
「ん……おはよ、もう大丈夫か……?」
 頭を撫でる仕草は相変わらず変わらない。僕は頷く代わりに、その手に頬を擦り寄せてみせた。眠気の許す精一杯だ。彼は苦笑しながらも、仕方ないなあとばかりに甘やかしてくれる。ごろごろと顎下を撫でられながら、僕はのんびりと目を閉じる。
「ほんとに甘え上手になったなあ……いいこといいこと、えらいえらい」
 覚えてっか、昔の話。一回お前が風邪でぶっ倒れた時にさ、寝てても寝言でちゃわんむしー、ちゃわんむしー、ってうなされてんだぜ。どんだけ義務感背負ってんだよ、ってさ。少し馬鹿にされてむかついたので、二の腕の肉をつねってやった。すぐに降参してくるこの人は、相変わらず僕に弱い。だからその弱さを利用して、僕は小さく彼の懐に入り込むと、ささやいた。
「じゃあ、ご褒美に、もうひとつ甘えさせて……」
「んー、なんだ?」
 僕がその願いをささやくと、彼はにやーっと音がしそうなくらいにゆっくり、やわらかい唇を横にふやけさせた。良い返事をくれたお礼にと無言のまま口付けると、そのまま頬を捉えられて長いキスが始まった。やがてはセックスに満たないようなおさない戯れを繰り返し、彼の腹が鳴るまでふたりで遊んでいた。

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