好き。
お風呂から出て、何気なく彼の隣に腰掛ける。一瞬まるで驚いたような顔をして瞬きをするから何かと思ったけれど、その後ぐ、と息を飲む音を僕は聞き逃さなかった。キスしたいんだろう、と思って目を閉じたがいつまでも来ないので、半目で見てやると何故か固まっている。目だけがキョロキョロと所在無さげに動いていたが、僕に睨まれていると知るとぴょこんと肩が跳ねた。
「え、ええと……」
「……しないの?」
「いやあ……あの、さっきの話の後だと、お前も嫌かなあって思って……」
ぽりぽりと頬を引っ掻いて、曖昧に笑う。さっきは神がかったように察しが良かったのに、急にその勘が駄目になったらしい。はあ、と一度溜息をつくと、少し慄いた彼がそっと距離を取る。だがその距離は一瞬で無かったことになる。彼の太腿に手を置いて、ぐっと顔を近づけたからである。途端彼はぎょっと変な顔をする。失礼な人だ。
「なんで、漣さんまでいやってことになるんですか……」
「……いやじゃないの?」
「だって、いやなことしないでしょ」
「……したくないけど、するかもしれない」
「そしたら、ちゃんといやだって言える。僕はもう、ちゃんと言える。だから、」
もう一度、目を瞑る。密やかな彼の呼吸音がして、それから唇が重ねられた。一秒、二秒、と数えて、瞼を開いていく。あおい睫毛が震えて、泣きそうなほど優しい獣の瞳が現れる。角度を変えて下唇を食むと、仕返しのように上唇を食まれた。彼の両肩に腕を伸ばし、抱き寄せた。彼も僕の脇から腰にかけて腕を伸ばし、上半身が密着する。大雑把に纏めておいた髪が解かれていくのを、僕は静かな心地で受け入れていた。もう一度目が合って、キスをする。頬から耳にかけてを緩く撫でられ、くすぐったさに身を捩った瞬間に、舌が割り込んできた。舌先と舌先が互いにままらない様子で重なったり、滑らせたり。ふわふわと心地の良い感覚に、抱き締める力が強くなる。が、不意に目が合ったのを合図に唇は離れた。糸を引いて垂れていく唾液を二人で無言のまま笑った後、僕はささやいた。
「……ベッド、いく?」
「……はは、珍しい。お前も街の雰囲気に当てられた? カップルばっかりだったもんなあ」
「そうかも……だけど、なんだか、その」
なぜか、言い淀む。何が言いたいのか自分の中でも分からなかった。だが彼は、そんな覚束ない言葉を微笑みながら肩を撫で、待っていてくれた。
「……その、さっきの話をしたら……抱かれたくなった……」
「……」
「あなたに。……漣さんに。っなに、」
「うー、それは反則……かわいい……」
突然、ぎゅっと音をつけたくなるように、絵のように抱き締められる。これから夜じゅう抱き合おうというよりも、どちらかというと大きなくまのぬいぐるみでも抱き締めるような、これじゃあハグだ。そういう扱いも別に嫌ではないけれど、今の僕の欲求とは異なる。仕方ない。少しだけ、昔よくしていたあざといことをしてあげた。この位なら、神様もきっと怒らないだろう。耳元に唇を寄せて、吐息を鼓膜に直接響かせる。
(抱いて。)
震えた彼の瞳が一気に燃え上がる。深く静かな色の裏、熱く蕩けるようで、ぞくぞくした。はめたな、という表情を作りながらも焦燥するような動作に、僕はにっこりと笑って擦り寄ると彼の首に手を回した。こうして抱っこのおねだりは成功し、無事に柔らかいベッドで覆い被さってくる彼に口付けたのだった。
兎角、セックスとは不可思議なものである。
彼も僕も、今日なんか一日中何のやましさもなく一緒にいて、帰り道は呑気に手を繋いで歩いた。彼の胸はずっと服の下にあったし、何も今突然現れたものではない。僕も同じだ。裸体は生まれてこの方消えたことはないし、服の中に包まれながらもそこに存在し続けているものだ。それが何故、ベッドの上になるとその意味が変貌するのだろう。彼は僕の首筋から耳の裏に口付ける。擽ったさに身を捩ると、彼は小さくほくそ笑んだ。首なんて珍しいものでもない、むしろ人体の中では割と露出度の高い場所だろうに。それを気に入って唇を滑らせるこの人も、不思議だ。
それから、不可思議なことはまだある。耳朶を柔らかく口に含まれたとき、無意識だった。小さく肩がこわばって、吐息混じりの声が出た。漣さんはいつもそれを喜ぶ。確かに喘ぎ声は誰でも喜ぶのを見てきたし、そういうふりもたくさんしてきたけれど、そもそも何故こんな自分の声で喜ばれるのかが分からない。ただ、彼の声は好きだった。片手は僕の胸元に滑り込みながら、耳元を舌で遊ばれる。ちゅ、と音がして唇が離れると、そのまま低く、鼓膜が痺れるような声で囁かれる。好きな声だ。ふわりと熱いものが頬に溜まるのを感じた。
「ちゃんと気持ちい……?」
「ん……うん」
「良かった……ねえ、俺のことも触って? お前に触られるの、好き」
「そう……?」
口内で舌を合わせて擽りながら背中に手を伸ばすと、彼も僕の横に寝転がった。その分弛緩した体を、口づけはそのままに優しく撫で回してゆく。肩甲骨から背骨を軽く指先で触れると、彼の上半身が波打つように揺れて、瞳が甘くなった。もう片方の手は脇から胸を撫でる。彼の胸は厚くて、好きだ。安心する。首筋から徐々に下げていったくちびるを、胸へと這わす。くすぐったいのか恥ずかしいのか、彼は僕の肩を撫でていた手を口元に移し、あはっ、と笑う。そうも誤魔化されると対抗心が沸くもので、咥えては不規則に舌で転がす。んんっ、と低く響く男の喘ぎ声がした。彼の鼻にかかった前髪のひと束の色めきに、恍惚を感じる。僕も、だいぶ熱に浮かされているようだ。
「ゆ……づき、おまえーっ……」
「してほしい、って言ったのはそっちでしょ」
「そうだけど……っ、俺がなんにもできない……」
「そう? じゃあ、ちょっと優しくしてあげる」
彼の首の裏に手を伸ばすと指先に髪を絡め、鼻にかかっていた前髪を直してあげる。誘うようにその鼻頭に口付けると、彼は悔しげに唇を尖らせ首筋に吸い付いてくる。今度は僕がうめく番だった。吐息を漏らし首を仰け反ると、喉仏を舌で舐められる。脇から腰のあいだを何度も撫でられ、唇は鎖骨から胸へと滑っていく。さっきの仕返しのように乳首を舐められていると、不明瞭だった柔らかくまるい輪郭の神経がかたちを持ってくる。口のなかに火照った白い息が溜まっていて、押さえた手の指の隙間から漏らしていた。吸い付いていた彼の頭がふと離れ、舌先を伸ばして舐められる。一瞬の冷気と対比するような熱に、その白い息が「んう」と声になった。風邪を引いたように鼻がかった、濡れた声だった。はっと漣さんと目が合うと、途端嬉しそうな顔になる。僕が右を向くと、あらわれた左耳に息を吹き込まれた。
「ね、声聞かせて」
「やだ……」
「そのやだは、ほんとうにいやなときのじゃないでしょ」
「……ばか」
「な?」
口元を押さえていた手の腕を奪うと、指を絡め取られる。傍に縫い付けられて、無防備になったくちびるを奪われる。ふたつの体温が文字通り溶け合って、自我も蕩けそうになる。あつい瞼の淵にキスした後、彼は腹部から下へとさらに口付けで僕のからだに熱をまぶしていく。太腿を少しだけ持ち上げ、内腿にキスをされていると、自分の変な格好が可笑しかった。が、その可笑しささえも恍惚と快楽の中に呑み込まれていくのが、また不思議だった。
そうだ。きもちいい、のだ。彼との、行為は。
気づいた瞬間、靄んでいた頭のなかがぱっと晴れるようだった。きもちいい、のだ。痛くもなく、辛くもなく、いやじゃない。それだけじゃ、ない。これがきっと、快楽なのだ。きもちいい、という感情なのだ。なんて擽ったくて、だらしのない感情だろう。人はこれをあんなに尊んで求めて、愛おしんでいたのか。ぷっ、と吹き出しそうな可笑しさに包まれる。けれど、分からないわけではなかった。彼の与える快楽は、温かかった。幸福感に満ちた、からだが沈むような、浮かぶような安寧だった。彼は僕の様子に気付いたらしい、どうした? と僕の様子を伺っている。が、彼の手が徐に下着越しの性器に触れると、そんな視界や思考さえものまれてしまう。開いた口から、声が漏れた。撫でられるうちに屹立してきたものに下着の締め付けが苦しかった。その頃合いを見計らってか、彼が指を滑り込ませ脱がしていく。直に触れられると、とうとう理性が飛び始める。全身が熱く、むっとするような空気を纏っていた。きもちいい、とは、こんなにもおかしなものであったか。掠れた声で、彼の名を呼んだ。呼吸に合わせて動く肩に手を添えて、彼は額を合わせて笑った。彼も僕と同じような、熱い空気をもっていた。その首に腕を回して、ささやく。
「れんさ……ん、あの、」
「んっ……?」
「……ちで、して、いいから」
「……?」
「くちで、……いいから、……」
自分で言ったにも関わらず、自分の声にしてようやく意味を理解した。なので、漣さんと同じタイミングで、びっくりしてしまった。彼は少し目をぱちぱちとさせた後、ほくそ笑むように頬にキスをする。そしてそのまま僕の頭の横に落ちて、脱力したように笑った。けれど、すぐに少しだけ真面目な口調で尋ねてきた。
「……いやじゃないの?」
「たぶん、それに、れんさんがすきでしょ……」
「……おまえが、きもちよさそうなのは好きだよ」
「うん、だから……れんさんが、好きなことが、僕も、好き……」
「祐月、」
「だか……あ、きもちよくして、あっ、んう」
優しくあやすようだった彼の手の動きが性急になり、塞ぐひまもなく声が溢れた。腰から口へ神経が繋がっていて、なすすべもなく喘いでいた。漣さんは肘をついて僕の股の間を前にすると、何の躊躇いもなく咥え込んだ。手とは比べ物にならない感触と温度に、既にあちらへと持って行かれそうになる。舌先が生物のように動き回り始めると、ほんとうに何が何だかわからなくなるような錯覚を覚えた。これがきもちいい、という感覚。なんて、おそろしい。我を失い、こんなにも醜くなっていく。けれど、不思議と幸福だった。漣さんはそんなだらしのない状態の僕を見て一度口を離すと、額に前髪を張り付かせながらニカリと笑った。とても嬉しいのだ、と思った。やっぱり、そうだ。好きな人が、好きなことをしているのは、やっぱり好きなのだ。蕩けた脳みそでそう思って、僕は目を閉じた。好きだ。たぶん、すごく、好きだ。
束の間に僕は彼の指を受け入れていた。慣れた手つきで、穴を広げられていく。その間も至る所にキスされて、僕もしがみつくように彼に手を伸ばし、キスをした。彼のものが最後まで入った時、彼と僕は抱き合ってひとつの鞠のようになっていた。苦しげに顰まった眉、上気した頬、半開きで熱い息を漏らす唇、潤んで大きくなった瞳。彼のパーツの全てから、彼は今僕と全く同じように興奮しているのだ、きっと心拍の数さえ同じだ、と思った。耳元に唇を寄せられる。彼の髪を覚束ない手つきで撫でていると、擽ったそうに笑っていた。だが徐々に腰が揺れ始めると、その余裕すら飛ばされていく。
これはほんとう、だ。だって、この人以外に、素面で、こんなに気持ちを奪われたことはないのだ。ずっと頭のどこかで如何に相手に尽くすか、喜ばせるかを考えていたし、変に僕は大人びていた。彼は、その思考さえも僕から取り上げてしまう。それはとても不安なことだが、彼なら大丈夫だ、彼は僕を悲しませない。そう思ってしまうから、きっとこんなに無防備でいられるのだ。けれど、きっと彼はそのことを知らない。知らないまま、僕に微笑むのだ。汗の滲んだ表情で額に口付けるのだ。知らないままで、いてほしい。動物のような荒い呼吸が彼と重なって、いとしくて、目を伏せる。
突かれて、喘ぐ。セックスという不思議な空間にも徐々に慣れて、なさけない声や態勢にも違和感が無くなっていく。というより、違和感を覚える隙間を奪われていった。甘く重い動きがはやくなる。なんだかよくわからない気持ちになって、手の甲で口元を抑えていたが、ついに首を仰け反らせる。彼は曲線を描いた僕の首筋にぢゅうっと吸い付いた。そして程無くして、一枚膜越しにぬくい液が放たれるのを感じた。
呼吸が落ち着かないまま、どれだけ見つめあっただろう。まだ余韻のように、呼吸と共に声が混じっていた。だが、先に視線を逸らしたのは漣さんのほうだった。僕の首筋に手を伸ばし、親指でなぞる。達する直前に、彼がつけた赤い鬱血痕だ。僕も彼も、こういった証をつけるのは稀だ。物珍しさに、つい自分でも見つめてしまう。彼は不意に笑って、ごろんと僕の隣に寝転がった。そして、もう一度同じ場所に口付けた。今度は、そのやわらかい唇で触れるだけで。
「祐月、あのさあ……」
「んっ……?」
「めりー、くりすます……」
照れ笑いしながら、彼は頬を引っ掻いた。そういえば、そうだった。今日はクリスマスイブ、家族や恋人が共に過ごす日。快楽に負けてしまって、すっかり忘れてしまっていた。彼は恋人とも家族とも言い難い何かだが、こういう特別な日に一緒にいたい人なんて彼以外思い当たらない。というか、僕が一緒にいたいのだろう。僕は少し微笑んで、同じ言葉を返した。
「めりー、くりすます……?」
「あのさ、プレゼントなんだけど、これって言ったら怒る?」
これ、と言って触れたのは首筋の跡だった。なんという色気のない、いやありすぎるのかもしれないが、安上がりすぎる即興のプレゼントだろうか。思わず二人で笑い出す。
「ほら、一輪の花〜、みたいな? な?」
「あははっ、だっさい」
「その通りすぎて何も言えねえ!」
「じゃあ、僕もあげる。おとなしくして」
肩に手を添えると、少し顔を傾けて首筋に口付け
る。まだ敏感な肌はかすかに震えたけれど、無視して強く吸い付く。ちょうど僕のと反転した位置についた跡を、彼はまるで勲章のように得意げに撫でていた。それから視線が絡まって、キスをした。軽く体を拭いてから、布団を被る。さすがに何も着ないのは寒いので、自然にもぞもぞと体が引っ付く。そんなことさえ可笑しくて、毛布の中、裸で額を合わせた頬の赤い男たちが、くすくすと密やかに笑っていた。
「祐月、ほんとはな、プレゼントちゃんとあるよ」
「……なに?」
「ねこの、」
「……!」
「ぬいぐるみ」
「……ははっ、たのしみ」
「本物はまたゆっくり、考えような」
「僕もね、プレゼント、あるんですよ」
「え? ……まじ? なに?」
「ひみつ」
「えー、俺言ったのにずるくない?」
「朝のおたのしみなので。楽しみにしてて」
ふたりの姿が、徐々に遠くなっていく。宇宙に浮かんだ惑星のように、具象性をうしなって、ちいさく、ちいさくなっていく。蕩けた僕らは、やがて目を伏せる。意識がまどろんで、彼の触れる手の感覚だけが頼りになる。声だって、もう朦朧としていて、夢なのかうつつなのかわからない。宇宙に響くその声は、安らかで、いとしい。
あのな、祐月、寝る前に聞いて?
……なあに。
好きだよ。
……好き、
うん、好きだよ。
すき、かあ……。
俺が好きなのは、おまえだよ。
うん……。
……おやすみ。
すき……。
うん……。
れんさん。すき……。
……おれも、すき……。
それだけ。それだけの、ぼくの、好ききらいのはなし。
prev | next