きらい。
 店を出たときはあらゆる空が眩しく、どこもかしこもイルミネーションで彩られていたが、家に近づき住宅街に入ってからは夜のいろを取り戻していた。痛い程に冴えた闇の空気が、遠く彼方の月を清ませている。オリオン座も見えた。はるか昔に習った歪な砂時計のかたちを辿って、二人で笑ったりした。けれど、不意に無言が訪れる。ぶつかって、手を取られたのがきっかけだった。指の間に、温度が挟まれる。まだ酔っているからか、熱い手だった。だらしなく垂れた酔っ払いの手ふたつが、ゆらゆらと揺れている。それを見て、今なら言えるのかもしれない、と思った。
「漣さん、」
「……ん? なあに」
「聞いてほしい……んですけど」
「え! お前今なんか言ってた!?」
「いや、あの、今から話すから……」
「あ、びっくりした……。いいよ、何だ? なんの話?」
 僕の、いやだったことの、きらいなことの話。
 漣さんは静かな顔持ちで僕を見ると、うん、と頷いて前を見た。その動作に、救われたのだと思う。僕は彼の表情を伺うことなく、ただ染みてくる指先の熱だけを頼りに、暗闇の中を歩いて行けた。
 思い出したのは、ついさっきだった。僕をたくさん飲ませた人との、続きのこと。そもそもどこで知り合った人なのかも覚えていなかった。当時の僕に分かるのは、「僕が今尽くすべきひと」という事実だけだった。黒いタクシーの中その人に肩を抱かれ、行き過ぎた酩酊にぐらぐらと全身を揺さぶられていた。その人の手は冷たかった。自分より体温の低い人は初めてだ、とか、慣れた戯言を口にしていた気がする。そうして、僕は常にサーヴィスをしていないといけなかった。その人に命じられたわけではない。僕が、命じているのだ。そうしないと怖いから。今になって、尽くさないでいい人に出会ってから、初めて知った。僕は怖かった。人間が。他人が。だから、その場その場の付き合いで演技をするのが、一番きちんと生きられた。その人も、怖い人の一人だったのだ。
 次に目が覚めたのは、ベッドの上だった。ホテルなのか、その人の家なのかも記憶がなかった。意識が起きてからそれをどうにか判別しなければならない、と考えたが、それも出来なかった。柔らかいベッドの上、後ろ手に縛られたままで立ち上がるのは困難だった。だがそれよりも、タクシーの中からずっと体が熱かった。きっとその人の手も別に冷たかったわけではなく、僕が熱すぎただけなのだろう。複雑なことを考えられない。この状況をどうにかしようとする気さえ起きない。熱い。ぜえはあと気味の悪い喘ぎ声が自分の口から出ていた。
 だがやがて姿を現したその人に、僕は微笑んでいた。その人は相変わらず僕に甘い口説き文句を浴びせながら、ベッドに沈み込んだ。やがて唇を奪われ、舌を奪われる。うまく力の入らない舌では、ただされるがままになるほか無かった。容赦のない蹂躙に触覚がだめになり、ジュッと舌を吸う音で聴覚がだめになった。性急な愛撫にも関わらず肌は温度差に震えた。何も考えたくなかった。普段の自分の癖を信じて、朧げな意識のまま喘ぎ、腰や肩をくねらせた。快楽なんかこれっぽっちもなかった。冷たすぎる指に弾かれるとただただ痛かったし、舌も何が良いのか全く分かっていなかった。それを快楽だと信じて、これが皆が気持ちの良いものとして悦ぶものだと信じていた。
 興奮しているね。そういう風に見えたのなら、そうなのだろう。この痛覚やぬめりを皆が興奮と呼ぶのなら、そうなのだろう。その人の手は腰から下へと這っていった。太腿の間を指先がなぞり、生理的な震えが生じた。そして萎えたそれを咥内に含んだ。いやだ、と口元を押さえた。が、その人は丸い口のまま唇を横に引いた。その人は頭を上げ下げし始める。ジュクジュクと唾液の音がした。
 あ、あ、あ、と息が上がり、短い悲鳴が何度も上がる。強制的な神経への刺激にゆるく勃ち始めていた。苦しく、頭が沸騰するように熱い。縋るようにシーツを握り締めた手の甲は、その人の手に覆われる。不意にその人が僕の顔を見上げた。その人の細い目に、ふっと気が遠くなりかけた。
 それで一度限界まで上り詰めかけたあと、挿入されて、突かれた。肌がぶつかる度、その人の肉が揺れていた。僕は、あ、あ、あ、と声を上げた。やがて腰を打つ速度は増してゆき、腹のなかにぬめる液体が注ぎ込まれた。その人は動物の唸り声に似た息を吐きながら、はくはくと口を開いていた。その口は、未だ達さずにいる僕のものを含んだ。早く達さなければならないのだ、と察した。不快の中からむりやりに引き出してきた、ほんの僅か一ミリの快感を膨らませる。後になって気付いた、自分の中の過程だった。焦れったくなったらしい、その人の動きが乱雑に激しくなっていく。ジュバジュバという音が集中するのに耳障りだった。ぐっと体が収縮し、腰が震える。無い声を叫ぶ。その人は、無事に恍惚とした表情を浮かべていた。よかった、と思った。人質になった自分に向けられていた刃物が下されるような安堵だった。だがその溜息にその人はもう一度己のものを起ちあがらせ、そして僕の顔の前で跨ると、口の中にそれを突っ込んだ。嗚咽感に噎せたけれど、それすら興奮の材料らしかった。喉の奥の粘膜が抉れそうなほど、重力を乗せて突き刺してくる。痛く、熱かった。口で形を作っても、それを無視する勢いでゴツゴツと刺す。やがてそれは脈動し、喉に直接熱い液体が流し込まれた。種付けをするようにふるふると重い腰を振られる。下を通っていないから、味すら感じられなかった。ただ他人の精液が直接喉を通っていった。その人は突然、ばたりとベッドに沈んだ。僕は、何も動かなかった。その人が眠りについたのを確認すると、僕も目を閉じた。そして、口を開いてみた。
 ――あ、あ、あ。
 多分、何かを言いたかった。叫んでみたかった。でも、出てくるのは発声練習のように、短く乾いた音。僕はそれでも小さく、繰り返した。言葉にならない悲鳴を。悲しい苦痛を。何も潤わない瞳のまま、繰り返していた。
 ――あ、あ、あ。

「漣さん、僕はね」
「……うん」
「それが、すごく、……」
 もう既に僕らの足はマンションの前に着いてしまっていた。エレベーターを待ちながら、彼は僕の言葉も待っていた。繋いだ手が、互いに少しだけ強張って力の入れ方を測りかねていた。エレベーターは降りてくる。二階、一階。扉が開いて、その瞬間にようやく、彼を見た。まなざしが前髪に少し隠れて、微かに揺れていた。
「……その頃は、全てのことが、好きだと思っていた。きらいなものなんて、何もないと思っていた。僕の世界は、幸せだと思ってたんですよ、」
「うん……」
「だけど、ほんとうは、僕は、すごく。……」
「……あのさ、」
 まだ、言葉にならない何かだけが胸のところに溜まっている。あの母音の羅列と同じだ。あ、あ、というだけで、聞こえない声がもどかしく、僕は得体の知れない心の動きを感じていた。だけど、漣さんが不意に、添えるように言葉を発した。
「みんな好き、ってことはさ。きらいなものがなくて、みんな好きってことはさ。祐月、お前、みんなきらい、と同じなんじゃねえの」
「……きらい、」
「だって、全部同列なんだろ。そしたら、好きも、きらいも、ないだろ。なんて言ったって同じだろ」
「……きらい、みんなきらい、」
 口を、動かしてみる。まだ、馴染みのない口の動きだった。みんなきらい。みんなきらい。漣さんは、暗く覚束ない足取りの僕をエレベーターの中へと引き込んだ。その頃になってようやく、言葉がからだの内側に入ってきた。少しだけ背の高い彼を見上げると、彼は少し眉をぴくりとさせていた。それに、眦が悲しそうだ。どうしたの、と聞きかけたけど、多分どうかしているのは僕の方だったのだろう。目の端が震えて、熱かった。
「みんなきらい……そっか、みんなきらい、きらいだ、だいきらいだ……」
「うん……」
「痛いのも、苦しいのも、汚いのも、知らないひとを好きになるのも、きらい、だ」
 エレベーターは音もなく登り続けていた。僕らのやさしい部屋に向かって。いやな現実や汚さから離れた、空に近いところ。いやなものの何一つないあの空間へ。
 僕は向き合った彼の肩に頭を預けてみた。彼は繋いでいないほうの手で、おずおずと僕の後頭部に触れた。不器用な動作だ。僕は内心笑いながらも、顔を上げることをしなかった。できなかった。
 ――きらい。きらい。だいきらいだ。
 声にできなかった声が、確かな形を持っていく。それと同時に、きらきらと霧散していく。報われず、残り続けていた感情が成仏しているのだ、と思った。悲しいことを思い出しているはずなのに、ふしぎと涙が癒されるような、そんな心地を覚えた。
 帰ろう、祐月。その声を、僕はとても、好きだと思った。
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