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 初めて人を殺したときのことはよく覚えている。
 熱い返り血が顔にかかって、髪から滴っていった。無我夢中だった。肩で息をする姿は、側から見ればまるで混乱状態にあるひとのようにも見えただろう。だが実際の私の心境は至って冷静であった。寧ろ無であった。それこそが後にとある人物から人殺しに向いていると言われる要因のひとつであった。
 ピチャン、ピチャンと、滴る雫の音だけが、その時間その空間を定義する唯一の現象であった。そこにもう一つ、私は振り向くという現象を加える。私は彼を見た。私の主人たる少年を見た。彼と視線がかち合う。光のない鳶色の瞳は、不意に緩まる。
「ウルガモス」
 それは、今までにされたことのない呼ばれ方だった。彼は、いつも私の名前を呼んでくれた。彼がくれた名前。私には不相応なほど愛らしい名前。その名前の持ち主は、あの瞬間に死んだのだろう。のちに、そう思った。
 初めて人を殺したときのことはよく覚えている。
「ウルガモス。ごめん」
「……イチイ?」
「ごめん。僕が悪いんだ、ウルガモス」
 よく、覚えている。初めて人を殺したときの、彼の表情を。彼も、きっと死んだのだ。清純たるうら若き私の少年は、名前を持った私と共に死んだのだ。
 残ったのは、主従のみ。私と彼に絆はない。ただ、長い時間の作り上げた何か得体の知れないものだけが、私と彼を繋いでいた。
 この廃屋を白い彼女が訪ねてくるまで、彼は譫言のように私への謝罪を呟き続けていた。私は彼を抱き締めることも出来ず、ただ毛先から落ちる赤い雫の音を聞いていた。
 初めて人を殺したときのことはよく覚えている。

 そして、これで何回目。
 あの時握っていたのは当たり障りのないただのナイフだったが、今はピストル。彼はいない。その代わり無線での声が私を支える。死角から飛び出してくる何かに思考より先に感覚が捉え、撃つ。人だったようだ。軽い悲鳴を上げ脳天を撃ち抜かれた男を避け奥へ進むと、無線から彼の声がする。
『僕の指示が遅れたせいだが、さすがだよ。ウルガモス』
「お褒めに預かり光栄です」
『今、キュウコンとブースターも到着する。シャンデラは後方に、リザードンは空中に待機済みだ』
『ちょっとイチイ、着いたわよ! あたしのこと放っておくとかしんじらんないっ』
『煩いねえ、そんな大声で敵さんに気付かれたら大失敗だよ。……ま、そんときはあんたの役割はあたしがやるから、安心して死にな』
『黙りなさいよババア! まだ生きる気とか往生際わるすぎっ』
『うん、そろそろいいかい。作戦は伝えた通りだから、その通りにね』
 作戦内容。
 殺害予定は一人と一匹。人間の男が一人と、その手持ちのマフォクシーの女が一匹。まずはブースターが原型へと戻り、二人のいる部屋へと迷い込む。イチイが招待したこの男、ポケモンのブリーディングとその取引・売買が生業という典型的なこちら側の人間である。そこに、本人曰く目と鼻を結んだ三角形の美しさは誰にも負けない……つまり原型は相当整ったブースターを原型状態で投入する。
 イチイから小さく出撃許可を得ると、地点Bの物陰がコソリと動く気配がする。廊下にいる彼のボディガードの人間・ポケモンは既に処理済みだ。ブースターはそれらを穢らわしそうに一瞥しつつ、チョコチョコとバレリーナのように気取って歩く。扉の前に辿り着くと、彼女は勢い良くジャンプしてドアノブを回す。わざと何度か失敗し物音を立てた後、ようやく扉の中に入り、締める。ブースターに装着された無線装置から、ブースターの鳴き声及び敵の歓喜の声が聞こえてくる。
「おお、なんと見事な造形!」
「可愛らしいこと。今回の商談相手はなかなか粋ではありませんか、マスター。本人の登場前にこんなプレゼントを贈ってくるなんて」
「そうだなマフォクシー、心配りは人間の基礎だからな、ああ、なんと素晴らしい」
「ぶぅ!」
『あんな鳴き声上げといてぶー子って言うと怒るんだよお、あっはっは』
「ぶぅ!?」
「どうしたブースター、突然暴れて……」
「ぶぅっ、ぶぶー!」
 キュウコンの茶々が聞こえていたらしい。ブースターは反射的に暴れそうになったが、作戦を思い出しまた猫被りを実行したようだ。敵の声が再び和らぎはじめる。
「おや、このブースター、私の膝の上が随分気に入ったらしいよ、マフォクシー。気持ち良さそうだ」
「ひどいひと。私の前で浮気だなんて」
「あはは、誤解だよ。それにしても客人は遅いね。ブースターが来たということはもう側にいるはずなのだが」
 その言葉こそが合図である。キュウコンは即扉の前に移動するとノックをする。背中に忍ばせたものに手を掛けながら。
「ああ、ようやく来たようだ。……いや、君は下がってくれ。君にはこのブースターを任せるよ。私が出よう」
 無線越しに、カーペットの上の微かな足音がカウントダウンのように響く。息は飲まない。慣れたことだから。足音が止まり、彼が扉に手を掛けたであろうその一瞬。事は、一瞬。
「……失礼致しまーす? あら、挨拶もなしに死んじまったのねえ、仕方ないねえ」
 作戦内容。マフォクシーが出たなら拘束せよ。男が出たなら扉ごと斬り倒せ。状況は後者であった。綺麗な二つの細い長方形に割れた扉をキュウコンが手前に倒すと、奥には同じく二つに割れた男が一人。丁度身体の中心線を通った刃は脳も鼻筋も唇も股もぴったり二等分である。キュウコンが気怠げな息を漏らすとそれを合図に、一つだけ立ったドミノに似た速度で部屋側へ倒れる。そこに血飛沫は飛ばない。完璧な二等分はひとの形を保ったまま割れ死んでいる。
 ただ唯一血の汚れを纏ったのは彼女の持つ大太刀のみである。彼女がそれを一振りすると、重い空気を裂く音と同時に僅かな血痕が赤いカーペットに少量飛び散り、染み込んだ。
「……あら、死んじゃったの、私のご主人」
「淡白ねえ、ご主人が死んだっていうのに」
「だって、もうそろそろ私が殺そうと思ってた頃だったのよ。こいつの気色悪い性癖に付き合うのも疲れちゃったんだもの」
「ならあたしたちに感謝って感じ? やだぁ、全然うれしくなーい」
「あはは、感謝したところで私もすぐ殺されるんでしょう?」
 そう呟く喉元には、あの瞬間即擬人化したブースターがダガーを這わせている。敵が苦笑するときの喉の動きに合わせて角度を変えたナイフが丁度ヒヤリと光った時、イチイから一言連絡が入った。『そろそろ頃合だ』。
 私は足を進める。踵を叩いてヒールを出し、万全の準備を整えてから。
「そうねえ、そこはあんた次第かねえ」
「……もしかして、私が最初から狙いなのかしら?」
「そうです、マフォクシー。私達の目的はあなただ。ひとつ、聞きたいことがあります」
 ブースターが背後から敵の膝を折らせ、私は正面に立ち、銃口で顎を持ち上げる。キュウコンは私の傍で太刀を背負い、退屈そうにフラフラとしている。
「……色々とやってきた自覚はあるけどね。何だい、言ってごらん、可愛いお嬢さん」
「十二年前。貴女は、何をしていた」
「……今とさして変わらないさ。その場その場でご主人を見つけては、お供をしたり、人を騙したり、殺したり」
「ならば。十二年前の、冬。貴女は、ある邸を燃やしたか」
「……邸?」
「そこで、夫婦を手にかけたか」
「……」
「綺麗な、庭園のある邸だった。優しい旦那様と御夫人だった」
「……」
 敵は一度は首を捻ったが、それからはただ私を見上げて柔和に微笑むのみ。対照的に私の身体には僅かな電流のような緊張が絶え間無く走り続ける。この女が、そうなのだろうか。この女が、彼の幸福を奪った、彼の人格を壊した、取り返しのつかない彼の傷を作った女なのだろうか。無言の間思考が四方八方に飛び散り始め、微かに銃口が震え始める。それを察知してか、敵がようやく喉を震わす。乾いた笑い声だ。
「あはは、お嬢さん、何かと思えばそんな安い復讐がしたいの」
「安い……?」
「ええ安いわ。お嬢さんたちがどれ位この世界にいるのかは知らないけれど、愛する人を殺されたなんてそんな話、石ころみたいなもんじゃない。その程度の覚悟も無しにあなた、よく生きてこられたねえ、余程運が良かったのか、それとも宰相に恵まれたのかしら?」
 まーね、あたしたちのマスターが最高ってとこは当たってるわよ! ブースターの茶々をキュウコンがんなわけあるかいと笑い飛ばしているが、私の耳には上手く入らない。私の――彼の目的を知られた者に馬鹿にされるのも、嘲笑されるのも、良くあることだ。私自身も思う。彼の語る「復讐」は、まるで虚言だ。政治家の語るマニフェストのように、教育の標語のように、遠く、嘘臭く、美し過ぎる。両親を殺されたこと。それは、ここまで執念深く犯人を追い回すほどの目的になりうるのだろうか。まるで他に目的がありながらにして私達には語っていないよう、いや、実際それが正解だろう。彼は、私達のトレーナーは、手持ちであり駒である私達に嘘をついている。明白に、確実に。
 黙り込んだ私を、女が嘲笑う。
「お嬢さん。殺すんなら、早く殺しなさいな」
『……。キュウコンとブースター、聞こえているかい』
「殺さないのなら。その覚悟がないのなら、その程度で折れる願いなら、」
 はと気が付けば、空間が歪んでいた。座標のように張り巡らされた正方形が壁や床や全てを埋め尽くしている。それがマジックルームだと気がつくのに秒も掛からなかったが、それより先に拳銃は手から離れていた。ブースターもキュウコンも同じ瞬間にそれぞれ愛用の凶器を落とし、敵は拘束を外れ一飛びに間合いを取ると即座に杖を生成する。どうぐの使用を一切禁止するマジックルーム状態でも、その先端に炎を宿した敵の杖は自身の魔力で生成されたもの、どうぐ扱いとはならず使用可能なのだろう。一方私やキュウコンたちは道具を使い人殺し一筋に鍛錬を積み重ねたポケモン、通常のポケモンのような技を使った戦闘には適応していない。
 武器を失い、丸腰と化した私達に、女は笑う。
「あなたが殺せないなら、私が殺してあげる。お嬢さん、そっちのほうが幸せそうよ」
「……」
「あら。構えないの? そんな玩具がなくても擬人化を解けば少しは戦えるんじゃない? ……ああそう、あなたたち、特化しちゃったの。残念」
 マフォクシーが溜息をつく。いくら特化しているとはいえ、私達はポケモンで、更に炎タイプだ。耐えられるほうとはいえ、敵もただ競い合うポケモンバトルの火力で向かってくるとは想定できない。唯一拳や脚を武器として使用できるブースターも専門は近接戦闘だ。間合いが開いた今、距離を縮める内に敵の術に嵌るのが末路だろう。
 踏みしめた足先から電子の波紋が広がる。マジックルームが解けるまで、まだかかる。敵が杖を振るい、実体化した小さな念力の塊に炎を宿し宙に並べていく。ただの炎ならまだしも、念力を主体としたものなら肉体より先に精神がやられる可能性がある。それが敵の狙いだろう。
「……イチイ、」
『なんだい?』
「詰問を続けるべきか否か、判断しかねたので」
『大丈夫だ。キュウコンたちは後方へ、きみはそのままターゲットとの対話を継続してくれ。状況は、』
『フフフ! そうですよお、わたくしにお任せくださいな! 魔法使いキャラはわたくしひとりで十分なんですう、ええーいっ』
 瞬間、敵の背後から巨大な黒い魔力の塊が壁をすり抜けその背中を殴る。予測外だったのだろう、敵は正面へ倒れ、そこに技の撃ち手本人も壁をすり抜け現れる。マスカレードのような豪奢な目元の仮面やドレスは相変わらずその場の空気を浮世離れた異世界へと誘うようだ。シャンデラはひとつ私へ軽く会釈をすると、太い針のようなヒールの踵を敵の首筋に当てがう。マジックルームが解けない以上、私がとどめを刺すことはできないが、彼女のおかげでイチイに下された詰問という仕事はこなせる。
「マフォクシー。12年前の冬、貴女はある邸を燃やしたか」
「……お嬢さん、演技が上手いのね。まるで動揺してるみたいだった、すっかり騙されたわ」
「いいや、この娘は天然さ。銃口が震えたのも本当、あんたの言葉に思考を巡らせたのも本当。この娘の態度に、あんたを油断させる意図なんてなんにもなかったんだよ」
 不意に肩を抱いてきたキュウコンがのらくらとした口調で語るが、それには反応しないことにした。敵から意識を逸らすべきではないからだ。
「あんたの言葉は確かにこの娘を動揺させたよ。あんたの作戦はばっちり成功しているさ、だけどなあ、この娘はその思考をサブに置いてた。意識や感情を切り離していた。この娘の思考のメインに置かれてたあいつからの指令ってのが、この娘の中の幹だったんだよ。あんたは葉っぱを揺らすことはできたけど、幹まで揺らす台風にはなれなかったってことだねえ。今だってそうさ、あっしじゃあ、葉っぱも揺らせないんだね、あっしのことは完全に思考から切り捨てられてる」
「……そんなの機械じゃない、」
「そうだよお、この娘はねえ、人間である前に虫なんだよ、本能という愚直な単一機能に抗えない機械なんだよ。ねえ、可愛くて可哀想で自慢のあっしの愛しい娘。ねえ、ウルガモス」
 踏みつけられながらもどこか余裕と嘲笑に満ちていた敵の表情が、徐々に歪んでゆき、最終的には化物を前にしたような恐怖の表情を揺らめかせている。どちらかというと化物や怨霊の類なのはシャンデラだと思うのだが、恐らくキュウコンが余計なことを喋ったのだろう。
「質問を繰り返します。12年前の冬、貴女はある邸を燃やしたか」
「……さっきの言葉、訂正するわ。お嬢さんが生きてきたのは運じゃないのね」
 ヒールの踵で床を叩く。電子の波紋はさっきよりも弱っているが、まだ解除まで掛かるようだ。だが、もう一手。一手、この女を追い詰める要素が欲しい。その思考をイチイも察したのか、彼の微かに微笑む声がした。
『ウルガモス。手札は二枚ある。二枚目は最終手段だ。一枚目のタイミングは、きみに任せよう』
「……しかし、」
 二枚目――『彼女』を使うのは、初めてだった。数度前から控えてはいたが、彼女という最後の切り札・ジョーカーが出る前に事が済んでしまうのだ。その破壊力が如何様のものなのか、まだシュミレーションだけでしか認知できていない。その未知数を独断せよというのは、私自身の技量が足りない。
『……大丈夫だよ、ウルガモス』
 踏みとどまった瞬間に、嗚呼。如何してなのだろう。途端に甘くなった声が、私の張り詰めた脳髄を侵食しかたちを崩していく。
『僕は、きみを信じているからね。ウルガモス』
 嗚呼、嫌い。私が全てを委ねるひと。私の全てを委ねるひと。全てを捧ぐと決めたひと。
 私は、このひとが、大嫌い。
「……聞いていましたか、リザードン」
『はい、目標座標確定済。無線を切り十秒後にそちらへ着弾します。準備を』
「十秒ってアンタっ、それで何しろって言うのよ!」
「そういう無駄口を叩くなってことじゃないかい」
「フフフ、ではわたくしもその間にもう一枚の準備を」
 彼女の連絡があってから丁度十秒後、私達が身を隠しシャンデラが壁をすり抜け消えた瞬間、それは轟音と共にビルを破壊し一つの災害の如く墜ちてくる。砕けたコンクリートの瓦礫や埃が徐々に晴れると、眩しい翼の橙色が目を刺す。天井の大穴から射し込む月の光が埃をきらきらと粉雪のように見せる中、翼の生えた女はそこに居る。その長い爪を持つ手で敵の首を確かに掴み、爛々と殺意と虚無を称えた青い眼で敵を威圧する。敵も、瓦礫の数個に足や頭を砕かれた苦痛と目の前の女の存在の恐怖とによる絶叫をあげ、その様子は悲痛とも言うべきものなのだろうと感じた。
 軽く地を蹴り飛び跳ね、重なった瓦礫の頂点へ着地すると、カカン、とヒールが小気味好い音を鳴らす。リザードンが振り向き、頷く。「あとは頼みました」。
「質問を繰り返します。12年前の冬、貴女はある邸を燃やしたか」
 返事はない。ただ眼球を突き出した絶叫しか返ってこない。ならば、もうこの女の恐怖も、苦痛も、消すしかない。その為の最後の一手は、準備が出来ただろうか。
「はぁい、準備できましたよお。ほら、ラスボスは飄々キャラって、かっこいいじゃないですかぁ」
 不意に背後から影から現れ敵の元にしゃがみ込んだシャンデラが、相変わらずな口調でそう唱える。その手には、紫色の思念の塊。最後の一手だ。
「マフォクシーのおねぇさん、わたくし達の大先輩なんでしょうねえ。だって、いっぱい情報が出てきたんですもの。きっと見た目以上に歳食っちゃってますよお、かわいそぅ、あっそういえばぁ、このリザードンの子最年少なんですよお、最年少に殺られるおばさまなんて、フフフ、調子乗ってたんですねえ……ところでこれ、なんだか分かりますう?」
 そう言うとシャンデラはふわりと思念体から手を離し、仰向けの女の顔の前に浮かせる。その中身が見えたのだろう、女の顔が歪んでゆく。それが歓喜かそれとも悲哀によるものなのかは分からなかったが、女は声にならない母音を並べる。残った僅かな力でそれに触れようと手を伸ばす。だがそれは見えない糸に引っ張られるように持ち上がってしまい、決して届くことはない手であった。
「そうですよぉ、あなたの、最初のご主人さま。ハジメテって、だれでもだいじですよねぇ。あなた、このひとを助ける為に、自ら人質? 交渉アイテム? になったんでしょぉ、あやしい組織に渡せるお金なんてただの新米トレーナーの坊やにはありませんからねぇ、御三家ポケモンは能力値も高いし、売れますからねぇ! それでこっちの世界に来て、吹っ切れたみたいに汚い仕事いっぱいして、おねぇさん大変でしたねぇ」
「そうよ、そうよだから私はこの人の為に、この人が幸福なら私は何だっていいって、どうなったっていいって、だってこの人は初めて私を選んでくれたとくべつ、」
「そうですよねぇ。御三家のひとって、よくそういう運命信じますよねぇ、たかが三分の一の確率のくせにばっかみたい。でもおねぇさん、その人、このわたくしが! さっき殺しちゃいましたー!」
 仮面の奥から覗く彼女の金色の瞳が欄と輝く。敵の瞳は反面、色を失っていく。
「だからこうして思念体にして持ち歩けるんです、おかげでおねぇさんも感動の再会を果たせたわけですねぇ。ちなみに知ってます? わたくしの炎は燃やした人の魂を抜き取るんです、逆に肉体は燃やせないので不便なんですけどぉ……わたくしの抜き取った魂はね、行き場を無くして永遠に彷徨うことになるんです、あっ大丈夫ですよ、おねぇさんももうすぐおんなじ永遠の迷子さんです。巡り会える日が来るかもですよぉ、ミラクル、奇跡、あり得ない話じゃないですからねぇ! ま、幾千幾万分の一の確率ですけど、言っちゃえばゼロですけどぉ」
「……ゆるさない、彼にまで、手を出す必要なかったじゃない、なんだってあの人にまで、関係ないじゃない、あの人は!」
「えぇ、でも、愛しい人を殺されたくらい石ころレベルの話なんでしょ? フフフ、おねぇさんの一生なんて石ころ、石ころ。あの娘と同じ! 結局は同属嫌悪なんじゃないですかぁ、よくあるお話。それよりばかみたいに融通きかないあの娘のほうがたぶん、レベル上ですよぉ」
 押さえ込まれた首を震わせ必死に争っていた女は、徐々に抵抗力を無くしていく。やがてはまだ魂を抜かれているわけではないのに、その目は光を失い、惚けたような顔で横たわっている。シャンデラもそれを確認し溜息をついた後、私へひとつ微笑みを贈るとふわりとその場から姿を消す。代わりに、女の元にしゃがみ込んだのは私であった。
「質問を繰り返します。12年前の冬、貴女はある邸を燃やしたか」
「しらない、私、そんなのに関わってない、情報もなにもない……だからもう、はやく、あの人のところへ逝かせて、わたし、億が一でも賭けるから、」
 女の頬に涙が伝う。シャンデラなら、きっと安い涙と呼ぶのだろうと、不意に思った。
「……イチイ、虚偽はないと考えて良いでしょうか」
『ああ。心身共に限界値に達した目標が嘘をつける状態とは判断しかねる。後は、いつも通りに』
 無線を切り、リザードンによる拘束を解かすが、女はそれにも気付かない風であった。私も立ち上がり、踵を踏む。電子の波紋が流れなかったのは、それほどの時間が経ったからか、本人の精神力が尽きたからか。
 キュウコンやブースターは長話に飽きたのか、遠巻きに瓦礫に腰掛け退屈そうにこちらを眺めている。シャンデラも実体化こそしていないが恐らくはそのような態度だろう。リザードンだけが、真っ直ぐに私と女を見続けていた。初めてとは思えない仕事ぶりだった彼女だが、初めてなことに変わりは無いのだ。目を逸らさない度胸に彼が彼女を選んだ理由を確かに感じながら、私はスカートを捲し上げホルスターから拳銃を取り出し、銃口を女の脳天へと差し向ける。それを見て察したのか、女は薄く笑う。
「あっちの炎で燃やしてくれるっていうのも嘘なのね、可能性すらくれないのね、そんな汚れた銃器で死ぬのね」
「……」
「そんなものよね。あなたたちも、きっとそうよ。そんなものよ、私た」
 破裂音がして、弾丸は女の頭を貫通する。一撃死。耐久力の高いポケモンを殺すには、生半可な私のポケモンとしての技よりも、汚い銃器の方が確実だ。私の弾丸はその為のもの。ポケモンを捨て、ポケモン殺しに『特化』したポケモン。
 弾丸は貫通したものの空気中には飛ばず床に埋まったのだろう。血痕が殆ど出なかったのが幸いだった。リザードンのことを考えると、初陣から酷いものを見せたくはなかった。

 あとは、いつも通り。
 最初に火を点けるのは、私だ。指先に灯した青白い炎を女の死体に乗せ、燃え広がるのを待つ。人の姿とはいえ炎に耐性のある炎タイプは、なかなか燃えず人臭い嫌な匂いだけが長く続いた。その速度に耐えかねたのかブースターが原型に戻り、部屋中に炎を吐いて回る。キュウコンは面倒臭がったのか、大太刀を拾うとリザードンが堕ちてきた穴からヒョイと屋根に上がって崩落を他人事のように眺めている。シャンデラは魔力で出来た杖に腰掛け、リザードンは己の翼で宙に浮き、二人とも思い思いに炎を放つ。やがては部屋全体が轟々と燃え盛り始めた頃、壊していなかった下の階の火災報知器が鳴り始め、他のビルから人間たちが顔を出す。その前に他の四人は闇へと消えただろうが、私はただ一人、ゆらめく陽炎の中残っていた。目標が、骨まで燃え尽きるのを見届ける為だ。流石に酸欠で朦朧としそうだが、仕事なのだから、意識はきちんと持たなければならない。いつも通り、人間の大声とサイレンと、炎の轟々と燃える音をどこか遠くに感じながら炎を見守っていた時、不意に耳元で掠れた声がする。無線の声だ。
『……ウルガモス、お疲れ様。もう十分だ、帰還してくれ』
「しかし、まだ完全に隠滅を確認していません。私が後ほど報告しますから、イチイこそ通信を切ってください」
『頭領が休むわけにはいかないよ』
「それでも、あなたに無理はさせられません。今だって、この光景を目にするのは、」
 辛いでしょう、と言いかけて、息を飲む。思い出させたくないのに、思い出させようとしたのは私だった。咄嗟に謝ろうにも、タイミングを見誤ったのかどこかぎこちなく、歪な空気がその場に流れてしまう。ああ、失敗だ。彼は死んだのに、彼と私は死んだのに。私は戻ってはいけない、もう戻れないのに。他は全て切り捨てられるのに、どうして、彼についての心はこんなにも上手くいかない。
 暫くの沈黙があってから、彼が口を開く。
『ウルガモス。さっきのことは、聞かなかったことにしよう』
「……はい」
『モニターと音声は切らないで。そのまま、全て燃やしてくれるかい。そこの全生命体の骨までの燃焼を確認次第、帰還してくれ』
「……はい。原型に、戻ります」
『いい子だ』
 それから、無線越しの声は一切聞こえなくなった。
 炎の海。逃げ場のない、生命の匂いのない、ただ炎という生き物のような何かが蠢き回る空間。ユラユラと歪む陽炎の中を私は飛ぶ。『特化』の所為で弱体化した私の炎に威力があるのかは分からないが、それでも彼の言葉に従い、炎の勢いを強めていく。まずは骨に成りかけていたあの女が灰になった。それから男が灰になり、下の階の男たちも灰になっていった。

 いつも通り。いつも通りの、光景。
 彼という魔物を生んだこの光景。彼にとっては心傷と化したはずのこの光景。それなのに彼はそのトラウマに自ら触れてゆく。自らその炎の中に足を運んでいく。苦痛に燃やし尽くされることを知りながら。それでも彼は歩みを止めない。その目的すら、明確に言葉にすることはないのに。
 愚かだ、と人は言う。私も、彼自身も、そう思っている。それでも私は一生、その愚かな彼に着いてゆくのだろう。
 どれほど暗い灯りだったとしても、私には彼が、唯一の光なのだから。
 私たちは儚き花、そして葛。
 彼という暗い灯火に縋り、蔦を絡ませ、彩りを添えながらやがては己の炎に燃え散る阿呆な花。
 その一生に、悔いはない。
残炎と花葛
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