歪な手に縋る

彼女には左腕が無かった。

無かった、というのはただの比喩で、確かに彼女の左肩からは左腕がきちんと生えている。けれどもそれは腕の形を成したただの飾りで、腕という機能を存分に果たしているとは言えなかった。

「起きや、遥」
「ひか……おはよ」

彼女の家の鍵を鞄から取り出し、鍵を開け、彼女が寝ているベッドへと向かう。気持ち良さそうに眠っている彼女の体を少し揺らせば、眠そうに目を擦りながら彼女は体を起こした。

もう少しだけ、音楽の神様に好かれていたら良かったのになぁ、と彼女はよく言う。もう少しだけと言いつつも彼女が望んでいることは、それはもうそれこそ神様でしかどうにもならないことだろうということは、彼女も俺も痛いほど解っていた。

小さなワンルームマンションに、カーテンのついていない窓から燦々と陽光が差す。今日も快晴だ。俺は目の前に広がる青にうんざりして溜め息を吐いた。

冷蔵庫を開けて牛乳を取り出す。賞味期限を確認、あと二日は大丈夫だ。パックの口に直接口をつけて飲みながら、テレビの電源を入れた。朝のニュース番組はどれもこれも似たようなものばかりでつまらない。

天気予報を読み上げるキャスターの顔がそこそこ整った番組にチャンネルにを合わせ、ぼんやりと眺めた。芸能ニュースのコーナーでは、最近有名になり世界で公演をしているピアニストのニュースを流している。

「朝から気分悪ぅ」

後ろからそんな声が聞こえたと同時、テレビの電源を切られた。くたびれたジャージでどかっとソファに座り、遥は苛立つように吐き捨てる。

小さい頃に交通事故に遭い、その時の怪我が原因で遥の左腕は動かなくなってしまった。腕が残っただけ良かったほどの事故だった、なんて周囲から言われたこともあるけれど、彼女にとっては何一つ良いことなんて無い。

利き手でないだけマシと言えばマシ。それでも不便なことは色々とある。中でも遥の中で一大事だったのは、ピアノもギターも弾けなくなってしまったこと。

「遥、今日の髪型と服、どないするん?」
「今日は紺のカーディガン着る。髪は下で二つに結んで」
「はいはい。ほな失礼しますよっと」

遥のジャージを脱がし、後ろを向かせる。普段日の下に出ない彼女の背中は痛いくらいに白い。

下着のホックをつけるのも、服を着せるのも、セーラー服のスカーフを結ぶのも、靴下をはかせるのも、全て俺の役目。彼女の成長していく体を、俺は毎日こうやって眺め続けて来た。

片腕が動かないので、些細なことが遥には困難なのだ。トレーニングをすればそれなりに生活は出来るのだろうけど、事故に遭った当時の遥にそんな気力は無かった。

家族は一緒に住んでいない。遥の父も母も、仕事で海外だ。彼女の音楽的才能を伸ばすために必死だった二人は、遥が腕を失ってから彼女への興味を無くしたらしかった。

最初こそ悲しそうにしていたものの、年月が経つにつれ、音楽に関われない自分の存在意義が次第に解らなくなってきている、と彼女は嘆いた。

「ひかは、私の前からおらんようになったりせんよな」
「……なんやそれ、するわけないやろ」

向き合ってカーディガンのボタンをとめる俺の腕を、遥は弱々しい右手で握った。動かせないのは左手だけなのに、年々彼女の右手すらも力を失っていくようだった。

かくいう俺の手も、彼女に何をしてやれるというのだろう。あの日、差し伸べるべきだった手を差し伸べずにいたから、今こうやって俺と遥はこんな関係を続けているというのに。

(20121202)