始まり

「私と契約して刀剣男士になりませんか?」

最初は頭が湧いてるのかと思った。一度目を閉じ深呼吸をしてからもう一度目を開ける。それでも五条国永の目の前に広がる光景は、先程と一ミリも変わった様子はない。妙ちくりんな狐がその可愛い前足を地面につけて、ちょこんと座っていた。己の自宅、玄関のその前に。狐はつぶらな瞳をクリクリさせて見上げたまま、微動だにしない。どちらも動かない状態が2分程、いや体感にして10分は続いた。動かない国永を見て、狐が首を傾げる。

「国永殿、私の声は聞こえてますか?」

「あぁ、聞こえている」

狐が喋っている。どうやら夢ではないらしい。

***

五条国永は飽いていた。この世界というか己の辿って来た道や、これから辿るであろう道に。何も代わり映えのしない日常はずっとずっと続いている。毎日仕事に追われ、面倒な人間関係を構築し、その関係に波風立てぬように行動し、時間と働きにあった給料をもらう。ただそれだけの毎日だ。恋愛だの生き甲斐だの、心が躍るような出会いは微塵もないが、顔がいいからか女に困ったことはない。困ることといえば女を抱いた後の人間関係だった。やれ恋人にしろ、あの女は誰だの、結婚するのは私でしょだの不愉快極まりないことが多過ぎるので、最近では女に手を出すことも止めていた。今日も今日とてコンビニで夕飯を調達し、がらんどうの世界から鉄の扉一枚隔てた、これまたがらんどうの自宅へと帰って来たのだが、家の前に蹲る小さな影を見つけて、足を止めた。

最初は猫か何かだと思ったのだ。だから足音を少し大きくしてやればすぐに逃げていくだろうと、国永はそう思っていた。一歩また一歩と、アルファルトを踏みし丸音を大きくしていくのだが、家の前の影は逃げるどころかその身を起こすと耳を震わせてじっと音のする先、つまりは己へと向けて視線を飛ばしたのである。そうして互いの姿がはっきりと確認できるまで近づいた頃、その生き物は喋った。はっきりと、狐が解るはずのない人間の言語を。それを理解した瞬間、国永は今日のデザートであるプリンが潰れる音を聞いた。

「俺が刀剣男士、ねぇ?」

「はい。ご理解が早くて助かります」

「いや、理解したわけではないんだが…」

あのまま玄関で固まっていても埒があかず、取り敢えずその摩訶不思議な狐を家へ招けば、これまた礼儀正しくお邪魔しますと言うではないか。極め付けは、何か足を拭くものを貸してくださいというのだ。土足で人様の家に上がれないと、至極真っ当な理由をあげるものだから益々頭が混乱した。シューズボックスの上にあった置き忘れのハンカチを差し出すと、狐はお礼を言ったのち器用に口でくわえて足を拭いてからリビングへ繋がる廊下に飛び乗る。動かない国永の表情を窺うように見上げてくるので、狐に化かされるというのはこういうことかと思いつつリビングへと向かった。そして無重力を味わった夕飯を食べながら、狐がここへ来た理由と目的を聞く。狐が話す内容は何ともまあ、お伽話も吃驚な内容で、3度ほど自身の頬を抓る事になった。

かつて時間遡行が出来るほど発展した世の中で、歴史改変を目論む人間と、正史を保護する人間とがぶつかり合った。何十年にも渡る激しい戦いの末、結局勝ったのは歴史修正主義者側。正史を守ろうと奮闘した政府と審神者は呆気なくその存在を消されるに至った。そして、審神者とともに前線で戦っていた刀剣男士も、刀剣に宿る付喪神としての神格を剥奪され下界に落とされる。国永もそのとき戦っていた刀剣の一振りで、白き衣を纏い敵の朱で鶴のようにその身を染めながら存分にその持てる力を振るっていたものの、驚きのない人の世に叩き落とされた。止めるものがいなくなった歴史修正主義者は思うがままに歴史を改変し、無かったものが存在し、存在していたものが無くなってしまった世界が作られる事になった、らしい。

「今俺がいるこの歴史は正史ではないし、そもそも俺も本当は人間の器に入るべきものではないと」

「はい。貴方様は元々は刀剣の付喪神であらせられました。我らの不手際により、現在は人間として生きておられます」

「俄かには信じがたい話だな」

「ええ、ええ、そうでしょうとも。ですがこれが誠なのです。私は再び貴方様のお力を請うべく、こうして参った所存です。貴方様の付喪神としての名は、鶴丸国永、三条宗近の弟子として名を馳せた五条が作りし刀剣なのです」

狐は首に巻いていた風呂敷から絵巻物のようなものを取り出し、そこに書かれたものを小さな肉球でなぞりながら国永に語って聞かせた。五条国永はかつては名刀 鶴丸国永の付喪神であったことを包み隠さず述べたのだが、それを聞いた国永の眉間には皺がよる。それもそうだろう。疲れて帰って来た上に夕食を台無しにされ、挙げ句の果てにはお前は人間ではないと得体の知れない狐に言われたのだ。胸糞悪いと思われても仕方がないのである。

「大体は分かったが、君の話を認めちゃいない」

「ええ、それは理解しております。一度で理解せよと言うほうが無理でございましょう」

「そんなことより君は何者なんだ?見た目は狐にしか見えないが、俺が知ってる狐には、そんな能のような柄は入っていない」

「はい。私は古来の政府が使用しておりました式神、こんのすけと申します!」

国永の問いかけに、再びピシッと姿勢を正した狐は誇らしげに己の存在を説明する。かつては審神者と政府の架け橋として奔走し、汚れ役を買って出たこともある、それなりに有能だと褒められたかつて式神であったこんのすけである。

「…へえ?」

「ややっ!その顔は疑っておいでですね?!このこんのすけ、その気になれば闘える、それはそれは有能な式神です!」

「本当に有能な奴は自分で有能だと言わないんだがなあ」

「う…っ」

あわあわするこんのすけは、それなりに愛くるしさと何処か懐かしさが感じられた。疲れている身体にはやはり甘いものと可愛いものがいいらしい。パタパタと振っている尻尾を撫でつければ、随分とだらしない表情をするものだから思わず笑ってしまった。式神といえどやはり動物であるらしい。そうして一頻り戯れた後、最初に言われた言葉、契約というものを聞いてみる事にした。

「それで、君が最初に言った契約ってのはどういう意味だい?」

「そのままの意味にございます」

「そのままの意味ってのがいまいち分からん。具体的に教えちゃくれないか?」

刀剣男士になろうにも、そもそも刀剣男士というものがいまいち理解できていない国永にその意味が分かるはずもない。ただ、契約とは双方が理解し納得した上で行われるべきものであり、甘い部分だけ聞いて飛びつくと後悔する事になりかねない事くらいは知っていた。自分が背負うであろうデメリットを知っておかねば選択のしようがない。

「…刀剣男士になる、ということは即ち、人から付喪神へ戻ることを指します」

「…つまり人ではなくなると」

「端的に言えばそうです。ですが元々貴方様は付喪神。その身体、今まで生きて来た中で違和感を覚えたことはありませんでしたか?」

「…」

「元々神であった魂が人の体に収まるはずがないのです。第六感が異様に働いたり、人に怖がられたり、身の回りにあり得ない事象が起こり得る…その髪、毎日染めているのでは?」

つっと向けられた黒々とした瞳。国永は知らず知らずのうちに首筋に手をやる。視界に入る毛先は、既に元の銀色に戻ってきている。こんのすけの言った通りであった。この髪はすぐに本来の色へ戻ろうとするのだ。美容院で染めても3日もすれば、染めたはずの色は落ちてしまう。かなり強い染料を使用しているが肌が荒れるばかりで効果は薄い。今では市販の染料を使い毎日自身で染めるようにしていた。

「貴方様の色は鶴丸国永本来の色。魂に刻まれた神気が溢れる事によって本来の姿に戻ろうとしているのです」

「じゃあ何だ、契約すればこの色は無くなるのか?」

「いいえ。在るべき本来の姿に戻る、それだけです。人としての生活、今貴方様が体験されている忙殺の日々は無くなり、人前に出る必要もありません。そもそも人の目には映らないのですから。さすれば人であると浮いてしまうその髪色も気にならなくなりましょう」

「答えになってないんじゃないか、こんのすけ」

「…契約を結んだ場合、人としての五条国永は死にます。契約し本来の姿を取り戻したその時に、五条国永は無かったものになる。魂が在るべき場所に還り、貴方様は鶴丸国永となれば、髪色など誰も気にしないのです」

「…刀剣男士になった後は?」

「歴史のために、歴史修正主義者率いる時間遡行軍と戦っていただきます」

こんのすけの声音には同情も躊躇いも一切ない。ただ契約を結べば人としての生を終えるという、その事実だけを無表情で述べている。だから髪色など気にするなと、そういうことらしい。国永がどれだけこの髪色に悩まされて来たか、こんのすけは知らない。知らないからこんなに簡単に言えるのだ。小さい頃は髪色のせいで人攫いに遭いそうになった、ずっとずっと揶揄われてきた、人と異なるどうしようもないこの髪色にどんなに悩んだことか。それを抑えて笑顔や驚きに変えて躱し、ここまできたのだ。それをこの狐は、そんな事、という。最初にこんのすけが現れた時は、何か驚きに満ちたことが起きるのではと、つまらない生活が終わりを告げるのではと胸が高鳴った。だけど今はどうだ。本来の姿に戻って得体の知れない遡行軍とやらと戦えという。事務的な物言いに興醒めすら感じる。

「…悪いがごめんだ。君のそんな妄言に付き合っていられるほど暇でもなければ、俺は今の生活が結構気に入っているんでな。それに死ぬなどと言われて了承するはずもない」

「…ですか」

「今ある歴史が俺にとっちゃ正史さ。歴史のためと君は言っているが、本当にそうか?俺には君のエゴのためだと聞こえる」

「…それは」

「俺にとっちゃどちらでもいいがな。さあ、話は終わりだ。君は君の家へ帰るといい」

急に態度を冷たいものに変えた国永に、こんのすけはおろおろするばかりである。そんな姿でさえ、今の国永をイラつかせるには十分であった。

「…何か、気に障ることを申し上げてしまいましたか?」

「いいや?君は実に人の中にずかずかと入って行くのが得意だな。流石は動物だ」

「…」

「会うのはこれきりだ。じゃあな、こんのすけ」

がちゃりと、リビングの扉が開かれる。帰れ、とそういうことらしい。降り注ぐ冷たい眼差しにこんのすけはここへきてようやく己の失態に気がついた。彼には刀剣男士であった頃の記憶はない。それ故に、人と違う何かで思い悩むことも多かったであろう。人の世では何か人と違うものを持っているだけで悪目立ちするし、それがいい方にも悪い方にも転がったりする。国永の場合は後者だったのだろう。快活であった鶴丸国永と重ねてみてしまった結果、国永が傷つく羽目になったのだ。

「…明後日、また伺います。お気に障る物言い、申し訳ございません」

しゅん、と項垂れたこんのすけ。また来るのいう言葉を残し、その場から逃げるようにしてドロンと姿を消した。




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