03

敵がいた場所を一瞥した男は、つかつかと国永の方へ歩み寄ってきた。男の顔が見える位置まできた時、三日月、と知らないはずの名が国永の口からこぼれる。知らないけれど何処かで知っている、そんな感覚だ。柳眉を押し上げたその人は、一度足を止めて国永を見、直ぐに遠くに横たわるこんのすけを見た。そして何を言うわけでもなく直ぐにまた歩き出し、至極労りを持った手で動かぬ狐を抱き上げる。その様子をじっと見ていた国永もまた、言葉を発することはなかった。こんのすけの無事を確認した三日月は、小さく息を吐くと漸く国永の方へ興味を向ける。その国永の、何ともまあ頼りないことか。

「鶴よ、随分な様だな。五条の名が聞いて呆れる」

その言い方は蔑んでいるようにも、残念がっているようにも聞こえる。国永の悔しげに歪められた眉を見る限り、言われずとも自身の力量の無さは分かっているようだと、三日月は1人納得した。しかしこんのを危険に晒したことも事実であるため、そう易々と許す気は無いのだが。

「その狐の怪我は…」

「お主よりも酷い、とだけ言っておこう。これは特殊でな、人の治療など役に立たぬ。それとな、鶴よ…覚悟がないなら俺たちに関わらぬことだ」

「…その狐が勝手に接触してきただけだ。俺からではない」

「そうだろうな。ならば何故、俺を見かけた時に無視しなかった?あそこに止まれば異色のお前が奴らの目に止まる事くらい、考えずとも分かったはずだ」

「…」

三日月の言う通りである。昨夜髪を染められなかった国永の髪は、今日の夕方には色が戻り始めていた。今ではほぼ本来の色を放っている。光を反射する鶴色は夕闇の中ではさぞ目立った事だろう。

「あれを見て、血でも疼いたか?」

「…」

「だがお前は人であることを選んだ。それがこの結果よ。これと会った時、契約を結んでおればこんのすけが怪我をする事もなかったろうに」

腕の中の狐を撫でる手はひどく優しい。けれども国永に向けられる言葉は酷く冷たかった。三日月も恐らく自分と同じような存在であろうことは、今の国永でも分かる。ただ一点違うことといえば、狐の提案に是と答えたか否か。三日月は是としたのだろう。彼の纏う雰囲気には人にはない畏怖があった。言葉一つ一つに威圧という重しが乗っている。

「君は…契約したってのか?あんな根も葉もない話を信じて」

「それが道理であったからな」

「…だがっ…!」

「俺は人間でいることに何の未練も無かった。それが答えだ」

「…」

「お陰であれと戦えるし、自分が何者かもはっきりした。今の俺は人であった時よりも充実している。さて、鶴や。お前は一体何者であろうな」

「…俺は…」

ぐるぐると言葉が巡る。三日月の問いかけに対し国永の答えは出なかった。2人の間に沈黙が降りた時、何処からか獣のような咆哮が響く。それが何であるかを知っている三日月はその方向を見つめ、仕方なさそうに溜息を吐いた。

「鶴、立て」

「は?」

「此処に居ても先に見つかる。無関係を選んだお前を捨て置いても良いが、それだとこんのが泣くのでな」

付いて来い。そう言った三日月は国永の返事を待たずに歩き出す。色んなことがありすぎて暫し呆然として居た国永だったが、急かすような視線に我に帰ると軋む体に鞭打ってさっさと前を行く男の背中を追った。



三日月の運転する車で訪れたのは、一等地に建てられた高層マンションである。国永自身もそれなりに高給取りと言われる位置にいたものの、三日月の経済力とは比べ物にならない。業界の人間ならその名を知らぬ者はいないと言われる三条グループの総裁が、よもや人間を止めているなど誰が想像できようか。

「適当に座れ。俺はこんのを休ませてくる」

「こんの?」

「この狐の名前だ。それも知らなんだか」

三日月は心底呆れたとでも言うように国永を見た。全くこんのすけは何を話しに態々夜中に赴いたのだろうか。身体を張ってまで護った癖に、国永に肝心なことを話していないではないか。そう、文句を言いたいが腕の中のこんのは眼を覚ます様子はない。か細い呼吸で腹が動くたび、ひゅうひゅうと変な音が溢れている。肺近くの骨が砕けていると見て良さそうだ。力の抜けた狐の身体を優しく撫で、彼女が回復するための籠に1秒でも早く入れてやろうとしたその時だ。丁度良いタイミング、三日月にとっては最悪のタイミングでカウンターに放置されていた携帯用の端末が鳴る。無視して寝室へ向かおうとしたが鳴り止む気配はない。

「…出ないのか?」

「何処ぞの馬鹿が面倒を起こしたか…やれ、鶴や。こんのを頼む」

「え、あぁ…どうするんだ?」

「俺の部屋に運べ。そこに籠があるのでな、寝かせてやれ」

「…分かった」

「あぁ、出来るだけ丁寧にな。見てくれは狐だが、一応それも女子よ」

「はあ?!」

呉々も手は出すなよ、そう言って別の部屋へと消えた三日月。後には気を失ったままのこんのすけと、驚きで固まる国永が残される。暫く腕の中に押し付けられたこんのすけを見ていた国永だったが、もぞりとそれが動いたことで漸く様々な感覚が戻ってきた。

「う…ここ、は…」

「起きたかい?何でも三日月の自宅の一つだそうだ。あいつに君を籠に入れるよう言われたんだが、その籠は何処にある?俺が運んでやる」



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