02

五条国永は走っていた。汗でシャツが張り付きこの上なく気持ちが悪い。ただ今は、それを気にしている暇などなかった。

「うわっ…!」

空を切り裂く音がして、パラパラと小枝や砕かれたコンクリートが降り注ぐ。身をかがめて居なければ恐らく体の上と下を切り離されていただろう。
全く今日は実についていない。がしゃがしゃと音を立てながら、赤く目を光らせた見たことのない異形が、自分を追ってきていた。人混みを掻き分け走る国永を人々は不思議そうに見ているだけだ。どうやらあの異形は、自分以外の目には映っていないらしい。それでも敵が大きな刀を振れば、それは突風になって国永以外にも襲いかかり、所々で悲鳴が上がる。
そんなものを見せられれば、人気のない方へと足が動いてしまうのは仕方のないことであった。

「っはは…何だって言うんだ…」

解体中のビルの中に潜み、乾いた笑いと共に荒れた呼吸を整える。耳を澄まし周囲を警戒しながらこれからどうやって自宅に戻ろうか考えたが、今は焦りと疲労で何も考えられない。恐らくあれがこんのすけが言っていた遡行軍なんだろう。
戦うのか、あれと。戦っていたのか、あれと。そう考えれば考えるほど、カッと身体が熱くなる。
血が騒いでいるとでも言えばいいのか。恐怖とは別の何かが身体を巡っててた。あんな純粋な殺意を見せられて、まさかそんな。
そこまで考えて首を振る。自分は人間であり、刀剣男士ではない。斬られれば痛いし、血も流れる。今頬から流れているのがいい例だろう。今の時点で為すすべもないのに、あんな異形相手にどうやって対応すると言うのか。無茶振りにも程がある。また乾いた笑いが溢れた。

「全く…驚きにも程がある」

片手で額を抑えながら考える。
件の狐は結局あれ以来姿を現さなかった。また代わり映えのしない日々が戻って来たかと思いながら、スクランブル交差点を歩いていた時だ。その中に何処か見覚えのある男が、あり得ないものを抜いて立っているのを見た。
ネオンの光を反射するそれは、資料館などでしか見たことがない抜き身の刀であった。遠目から見ても刀身の所々に赤黒いものが付着している。男の肩に乗っているのは、いつぞやのこんのすけだろう。
何かに頷いた男は、刀を構えると人混みを縫うように走り出す。人々は刀を持つ男が見えないのか、顔色一つ変えずにそれぞれの時間を歩んでいた。
何故大騒ぎにならない。その光景が国永にはどうにも滑稽に見えて、思わず凝視してしまう。そして不思議な男を目で追っている内、人々の中にギラつく赤い光を見た。その光は刀を振るう男ではなく、しっかりと国永を映している。
まずい、と本能的に察した。このままでは斬られると、何故か確信し踵を返して今に至る。

あの狐は厄介ごとしか持ってこないのでは、と疑いたくなった。
そうして長々と深い溜息を吐いた時だ。急に空気の温度が下がり、ぞわりと身の毛がよだつ。暗闇の先に、今度は青白い稲妻を見た。それに気づいた時には既に、光る刃先が己の首に迫っており、今から動いてどうにかなる程時間的余裕はない。
流石の国永も死を覚悟した。

「国永殿!」

目が絡むような閃光と薄いガラスが割れるような音。国永と異形の前に躍り出たこんのすけがくるりと尻尾を回す。途端にこんのすけと国永の周りに、簡素な結界が張り巡らされた。息を吐く国永に、地面に降り立ったこんのすけの気遣うような目が向けられる。

「遅くなり申し訳ありません。途中で何体かの足止めを食らいまして…お怪我は?」

「今のところ大きなものはない。しかしありゃ何だ?」

「あれは検非違使。遡行軍や我らを狙う第三の勢力です。今目の前で私の結界に阻まれているのが彼の軍勢の薙刀。攻撃範囲が広く一番厄介な相手です。ですがその分機動は遅いため、不意を突けば逃げられる可能性もあります」

「可能性、ね…んで、この結界とやらはどれくらい持つんだ。まさか数分じゃあ無いよな?」

「時間よりも衝撃数ですね。既に3回程阻みましたので、あと2回程攻撃されれば突破されます。その前に国永殿だけでも、ここから離れて下さい」

これを、と差し出されたのは小さなお守りである。何でもこんのすけの霊力が込められており、2回までなら攻撃を無力化出来るらしい。そんなんで足りるか、と国永は内心罵倒する。
そうこうしている間にも大太刀が振るわれ、攻撃を受けた結界には目に見えて亀裂が入った。このままここに居ては、あと一振りで結界諸共粉々に砕けそうだ。
そう判断するや否や、国永はこんのすけを抱え走り出した。腕の中の狐はあわあわと口を開く。

「国永殿!私をお離しください!お一人でお逃げください!」

「煩い狐だな!君1人で何とかなる相手じゃ無いだろ!俺1人でもごめんだ!」

「お渡ししたお守りが守ってくれます!」

「たった2回だろ!このビルから出る前に効果は切れちまう!」

言い合う2人に向かって、今度は大太刀を持った異形がその獲物を振り上げる。こんのすけも負けじと結界を張るも、やはり限界はあるらしい。今度ばかりは一度で砕けてしまった。後ろからは先ほどの薙刀、前には大太刀、絶体絶命のピンチであることは火を見るよりも明らかだった。

「ここが俺の墓場だってわけか」

「そんな事はありません。国永殿のことは、このこんのすけが命を張ってでもお守りします」

「狐に命を張られても嬉しくも何とも無いんだが…こいつらの目的くらい教えてくれたっていいんじゃないか?ここまで巻き込んで置いて知らぬ存ぜぬは聞かないぜ」

「……貴方様を狙って居ます。すみません、私が国永殿と接触したばかりに目を付けられてしまったようで。申し訳ありません」

「謝罪は聞き飽きた。先ずはこんのすけ、此処を突破することを考えないか?謝罪はそのあとに聞いてやるさっ!」

落ちて居た鉄パイプで応戦しようとする国永を、無謀ですぅぅと必死に止めるこんのすけ。
だが流石は元付喪神。身体能力は人のそれより高いらしい。太刀筋を見極め、果敢に敵の懐に飛び込む姿はかつての鶴丸国永を彷彿とさせた。
しかしやはり身体は人である。気持ちばかりが急いて肝心な身体がついていかないようであった。がくんとバランスを崩した国永に敵の凶刃が迫る。
こんのすけに蓄えられた霊力は殆ど尽きている。それ故に結界を発動させるにもそれなりの時間がいるのだが、敵はこちらの事情など知るはずもない。ならばと、こんのすけが取った行動は、己の身を以って相手の軌道をずらす事だった。

ぎゃんっと動物特有の叫び声を上げたこんのすけは、勢いを殺す事なく壁に叩きつけられた。その隙に国永は目の前の薙刀に一撃をお見舞いするが、所詮は鉄パイプ。図体ばかりがでかいそれには、虫に刺された程度なのか全くもってダメージになっていない。思わず舌打ちを零せばギロリと青い瞳が国永を捉える。
頼れる仲間もおらず、手持ちの鉄パイプでは次の薙刀の一撃に耐えられるはずもない。相手の刀が振り上げられた瞬間を、国永は生唾を飲み込んでじっと睨み付けるしかなかった。

「やれ、こんなものか。実に興醒めだ」

静かな怒りを湛える声。言い終わるよりも先に目の前の薙刀が、納刀の音がするよりも先に後ろの大太刀が膝をつき、サラサラと黒い塵となってそこから消えた。まるで最初から何もなかったかのように、何一つ残ってはいない。
ただそこにいるのは、古代の戦闘装束に身を包んだ男が、藍色の髪をなびかせて立っているだけであった。






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