別に彼の1番になりたいわけでもないし、あの戯れが気まぐれだってことも十分に分かっている。だけど立て続けにああも優しく、うっとりとした瞳を向けられては私の紙よりも薄い虚勢なんてひとたまりもなかった。一夜の相手になら誰にだって向けられるものなのに、あの時だけは特別になったような気さえする。合わせられた唇の熱さや柔らかさを思い出す度顔が熱くなる上、五条先生の顔をまともに見ることができなくなった。それを知って尚、これ幸いとばかりに執拗に声をかけてくれるあの人を誰かどうにかしてほしい。

つまり何が言いたいかというと、忘れるはずだった五条先生への恋慕は日増しに強くなっているということだ。流れのままに身を任せることができたらどんなに楽か。けれどそれは、蟻よりも小さな理性というか意地が、痛い目を見たいのかとこの場に踏み止まらせ今の私を保っていた。

「はああぁ」

「おっきい溜息だなぁ。何、そんなに辛いのか?鶯丸の下は」

暖かい昼下がり、小児科病棟の子供の燥ぐ声を聞きながら、ぷくーっとガム風船を膨らませた獅子王先生が、ぐたる私を慰めるようにポンポンと頭を撫でてくれる。まじ癒し。あの緑頭のお茶野郎とは全然違う。こんな上司が欲しかった。

「仕事はまあ辛くないんですよ、鶯丸先生の扱いにも慣れましたし。ただ最近、ちょっと別の問題が…」

「へえ…鶴丸か?」

「いつにもましてエスパー全開ですね、獅子王先生」

「噂は結構流れて来てるからな」

腹括ったほうがいいんじゃねぇの?と最もな意見を頂いてしまった。腹を括る、それが1番手っ取り早い事は重々承知している。抱かせろという言葉に1つ頷けばいいのだ。それが最短最速で私に平穏が訪れる道であることもしっている。けれども踏ん切りがつかない。出来ることなら傷付くことなく終わらせたいと思うのは贅沢だろうか。

「記念にって抱かれる奴も多いしな」

「明け透けですね。嫌ですよ、私は。捨てられるって分かってるのに何で抱かれようと思うんですかねえ…五条マジック?」

「さぁなー。俺も女じゃねえからわっかんねえわ」

ですよねーっと2人で空を仰ぎ見て、もう一度溜息を吐く。普段自分からあまりアプローチをしないが、寄ってくるものは拒まないスタイルの五条先生が、事あるごとに病理解剖室を訪れている、そんな噂が立ったのはつい最近。測定室でキスされた日辺りからだった。あまり人がいなかった病理解剖室の前には噂の真意を確かめるべく訪れる看護師が多くなったし、何よりご本人も態々結果を受け取りに来るようになった。検査項目を確認するだけなのに、態々隣に来て机に手を付き、囲うような格好で一緒にカルテを覗き込む。見上げればサラサラな銀髪の隙間から綺麗な鎖骨とか喉ぼとけがこんにちはしてきて目のやり場に困るし、その度に意味深な視線を送られて私の心臓はもう軽く10年分の鼓動を打ち終えたと思う。動きにくいのは分かるけどせめて白衣のボタンくらい留めて。そして鶯丸先生、何で私にばっかり内科の検体回すんですか。あんな事があったのにドキドキしないわけないじゃないか。殺す気ですか。そんな日がかれこれずっと続いている。検査結果を持って帰る際、誰にも聞こえないくらい小さな声で、今夜は空いているか?なんて囁いてくるのだ。そろそろ耳がつらいし精神衛生上よろしくない。

「抱かれるべきだと思います?」

「お前が嫌だと思うなら断り続けた方がいいと思うぜ?まぁ、どっちにしろ自分を安売りすんなよ」

小さい子にするみたいに、わしゃわしゃと髪の毛を掻き回した彼は、仕事戻るわ、とこれまた飴ちゃんを私の手に握らせてその場を立った。ほんとイケメン。なんで私、獅子王先生を好きにならなかったんだろう。本当に不思議。

「ししおーせんせい、やっさしー!結婚して」

「気持ちだけ貰っとくわ。あんま無理すんなよー」

「はーい」

にかっと笑った太陽のような彼は後ろ手にひらひら手を振りながら、窓からひらりと病棟へ戻っていった。清掃のおばちゃんに見つかったら怒られそうだなぁと思ったところで、獅子王先生!とおばちゃん独特の声が響いた。おばちゃんとひたすら謝る獅子王先生の声を聞きながら、貰ったばかりの飴を口の中で転がす。時計を見れば、昼休憩が終わるまであと30分もあるし、部屋に戻れば周りの視線も煩いのでこのままここで過ごすことにした。あれだけ私に色々言われてるのに、なんで五条先生はそれでも構おうとするのだろう。そんな事を考えていると急に訪れた影に見ていた空を遮られ、代わりに2つの逆さ満月と目があった。ふわりを鼻腔をくすぐる沈香の香り。

「よう。獅子王との逢い引きは楽しかったかい?」

「ひっ…!」

思わず悲鳴をあげて仰け反ってしまった私は悪くないと思う。後ろへと引いた身体は、丁度それを予想していたのか真後ろに立った五条先生の長い足に阻まれ、彼の襟足から覗く白い髪が一筋、頬を撫でた。細められた瞳は不満そうだ。物凄く。

「ご、御機嫌よう」

「俺は全く待ってご機嫌ではないが、そうだなあ…小腹も空いたしその飴を貰おうか」

「へ?」

「動くなよ?」

突然の事に体も思考も付いて行けず、ガッと顎を固定され、その暖かく湿った何かが唇を割り開き、口内へと侵入する。飴をもらうってそういうことかと気づいた頃にはもう遅い。今更口を閉じるわけにも行かないしそもそも固定されて口が閉じれない上、背後を取られて仕舞えば逃げ場はない。大人しく取りやすいようにと自分の舌の上に置いておいたのだけれど、彼の舌は受け取るどころか態とらしく歯列をなぞり舌を擦り合わせ、自分と私の舌を満遍なく使って飴玉を溶かすという暴挙に出たのだ。信じられない。

「んぅ…!んんん!!」

「っは…んっ……ご馳走さま。中々上手いじゃないか。恋人に仕込まれているようだな」

態とらしく音を立てて唇が離される。飴玉はもう何処にもない。ベトベトになった口元を手の甲で拭ったが、熱さも彼の感触も無くなってはくれなかった。睨んでも肩を竦めて笑うだけの彼には、何を言っても無駄だろう。それでもこんな人の往来がある場所で手を出すとは何事だ。何とか看護師のお姉様方に特定されていないのに、バレたらどうしてくれるんだ。

「…いい加減にしてください」

「俺がいるのに獅子王と会う君が悪い。浮気は身を滅ぼすってこと、知らないわけじゃないだろう?」

「恋人でもないのにそういうこと言わないでください。それを言うなら恋人がいる私に手を出してる五条先生の方が、よっぽど浮気対象なんじゃないですか?」

「君が早くその御仁と別れてくれれば何ら問題はないさ」

「知ってますか?そういうの、世間では略奪って言うんですよ」

「略奪なら俺も少しは心得があるぜ」

嬉しそうにニヤリと笑うが褒めてない。断じて褒めてない。どうせ奪った後は興味が無くなって結局捨てるんでしょうと、喉まで出かかって止めた。五条先生が私に構うのは、人のものだからだ。どうやって自分の方に転がすかそれが楽しいのかもしれない。すとんとその事に気付いて妙に納得した。だったら一層の事、恋人がいるのは嘘だと言ってしまえば興味が無くなるのではないか。そんな事を考えているとまた影が差して、ご尊顔が近づいてきたので慌てて間に手を入れた。

「…手を退けてくれ。口吸いができない」

「出来なくて良いです。二度も同じ手には引っかかりません。それでご用件は?」

戯れは終わりだと言外に告げれば、その柳眉を歪ませた五条先生はどかりと乱暴に、私の隣は腰を下ろした。一体なんだと言うのだろうか。そうして無言のまま、何処からか出した焼きそばパンをもそもそと齧り始めた。本当に何だと言うのだろう。

「…なあ」

「何ですか」

「今日はないのか?卵焼き」

「もう食べちゃいましたよ。捨てる癖によく言いますね」

「…あれなら食べれる。実際、君に食わされた後も吐かなかったしな」

「…はあ、そうですか。看護師の誰かに頼んでみては?私よりも美味しいものを作ってくれますよ」

「君は馬鹿なのか?君の卵焼きなら吐かずに食べられると言ったんだ。他の女が作ったものじゃあ意味がない」

拗ねたような口調に思わずその横顔を凝視してしまう。もしかして卵焼き欲しさに私を探してここまで来たとか?いや、無いな。忙しい五条先生がそんな事をするはずがない。思い込みも甚だしい。けれどやっぱり昼食が焼きそばパンだけと言うのはどうにも気になって仕方がない。いつか倒れるのでは無いだろうかと嫌でも心配になる。

「捨てないと約束するなら、明日から余分に作って来ますよ」

「本当か?!」

「うわっ、びっくりした…!」

「君は作ると言ったな?!今更無しとは言わせないぜ」

「え、あ、はい」

味付けはどんなのが良いですか、と聞けば出汁巻がいいと言われた。これまた結構面倒くさいものをチョイスしましたね。それでもあれだけ不満そうだった横顔が卵焼き1つで子供みたいに無邪気になって、何だかギャップに笑ってしまった。色魔の五条先生にも少年みたいな面があるらしい。きっとだぞ、とよく分からない約束をさせられた。その後は何を言うわけでもなくただ無言が流れる中、五条先生が焼きそばパンを食べ終えたところでそれぞれの職場へと戻る。彼は午後の診療へ、私はいつも通り検体測定へ。別れる時に言葉はなく、ただ何事もなかったかのように、別の道へ足を踏み出すのだ。

外科から頼まれた検査結果を届けに行くとき、中庭を歩く五条先生を見かけた。その隣にはとても綺麗な看護師さんがいて、五条先生の手は彼女の腰に回されている。2人に漂う雰囲気は恋人さながらである。そうして暫く歩き回った後、看護師さんの手に引かれるまま死角となる木陰へと入って行った。まあ残念ながら、上からは丸見えなんだよね。そうして首に回された腕に誘われるまま、彼も彼女の腰に両手を回したまま身を屈めた。お昼に私に落としたものと同じ唇で、同じ声で他人へ愛を囁く。それが五条国永という人間である。何処までいってもこれが現実だ。不毛過ぎて涙も出ない。だからこそ、彼の好きにさせてたまるかと変な意地を張っているのだ。今のところ、すべて突破されているけれど。嫌だと思う反面、心の何処かできっと彼に触れられる事を望む自分がいるのも許せない。

「丸見えですよーセンセ」

誰にともなく呟いて、気を取り直してその場から離れた。今日のお相手はあの看護師さんだろうから、今やお決まりとなった検査項目での呼び出しはされないだろう。というかしないでほしい。今日は流されてしまった反省会をしなければ。そう思っていたのだけれど、現実はそんなに甘くはなかった。



「…」

いざ来たはいいが、ノックしようとした手がピタリと止まって5分。そそくさと扉の前から離れて3分。どうしてこんなことになっているのかというと、部屋の中からは絶賛お楽しみ中の声が聞こえるから。耳を塞いでしまいたくなるようなそれに、逃げるように扉から離れた。人の情事に居合わせてしまったという恥ずかしさと虚しさに、バクバクと心臓が煩い。何でこの数分で女連れ込んでるの。五条マジックすぎて困る。せめて扉がちゃんと閉まってるか確認してから始めてほかった。何も言わず、音も立てず扉を閉めてあげた私の行為は賞賛に値するのではないだろうか。閉める直前、ふいに流された視線はきっちりと私を捉えたはずだ。彼の薄く綺麗に象られた唇が、三日月を描いたんだから。つまりは私がここにいる事を知っていながら、行為に及んでいるのである。本当にどうしようもない。

帰りに寄れと言われたものの大した用事でもないと踏んだ私は、定時ダッシュを決め込んだのだが、それを見越したように内線が鳴った。地獄からの呼び出しである。明日の朝一では駄目かと交渉したものの、今日がいいとごねられ泣く泣く内科棟へ行くことになった。すぐ来いって言ったのは五条先生の方なのに、女性との逢引で待たされるとはこれいかに。しかし彼の用向きに答えなければ私の仕事は終わらない。これ以上待ってても仕方ないので、強引に切り込むことにした。私は一刻も早く帰りたいのである。

「……五条先生、お取り込み中なら明日出直します。私は戻りますね」

ノックをして声をかければ、ガタガタと音がして、まずは看護師さんが出てきた。着衣の乱れはないものの口紅が変な感じに擦れている。お楽しみ中にごめんなさい、でも呼んだのは五条先生なんで、何て思っていたら、すれ違い様、邪魔すんなとばかりに凄い凍てつく目で睨まれた。あの、次の予約とかじゃないんで、勘弁してください。バタバタと走って行く後ろ姿を見送っていたら再び扉が開いて、今度は疲れたような、それでも少しだけ頬を紅潮させた五条先生が顔を出した。

「待ちくたびれた。随分遅かったな」

入れと言われ、体を横にずらしてスペースを空けてくれた横を通る。その時香った香りはさっきすれ違った看護師さんと同じもの。何だかマーキングみたいだ。一瞬色んなものが押し寄せたけど無視することにした。ガラガラと後ろ手に扉が閉まる音がして、促されるまま五条先生の向かいに設けられた椅子に座り、渡されたカルテに目を通す。五条先生と二人きり。いつもはなんてことないけれど、あんなことがあったし不可抗力とはいえ情事を見聞きしてしまった身としては酷く落ち着かなかった。

「…大分前に来ていたんですけどね。先約があったようですし」

「ああ、知っているさ。扉の前で迷っていただろう?入って来たら良かったのに」

「…悪趣味ですね。楽しまれているのに他人はお邪魔かと思いまして」

「楽しむ?ははっ!あれで楽しんでいたとは、トンチキなことを言う。折角君との時間を作ったのに、頼んでもない別の女が部屋に来て迫られるこちらの身にもなってくれ。君が尻込みせず入って来てくれたらもっと早く解放されたんだがなあ。何のために扉を少し開けておいたと思っているんだ」

「…態とですか」

「君が入って来ると思った。もしくは声をかけるだろうと。それなのに態々閉めて密室を作ってくれちまったからなあ。相手も乗り気になったんだ」

「…」

「本当に分からないか?君がいた事に気付いていたのは何も俺ばかりではないってことさ。彼女だって気付いていたし、それでも続けたのは違う女への牽制をしたかったんだろう。俺はああいう女が一番嫌いだ」

「成る程勉強になります。ですが私を当て馬に使うのやめて下さい。他人のあれこれを見る趣味はないです」

ケラケラと笑いながら相手を貶し、さらには事も投げに嫌いと言い切る五条先生のクズさ加減よ。乗り気ではないうえ、別の女がいても気にせずお相手するんですね。流石愛の安売り伝道師。近づかないで下さい。相手の女性の趣味など聞きたくないので、はいはいと聞き流していると、それが不満だったのだろうか。椅子のキャスターが床を転がる音がして、視界の端にさらりと流れる銀糸が見えた。同時に肩にのし掛かる重み。チラッと視線を向ければ、五条先生は私の肩に頭を乗せながら頬を膨らませ、カルテにジト目を向けていた。子供か。いや待て、何だこの状況は。休日のカップルか何か。

「重いです」

「疲れているんだ、肩くらい安いもんだろう…それにこうしていると落ち着く」

「私は五条先生のリラックス用品じゃないです。割り増し料金取りますよ」

「金が欲しいなら払ってやるさ。いくらだ?」

「…へ?」

「いくら払えば抱かれてくれる?」

縛っていた髪をほどかれる。肩口に落ちたそれをひと房救い上げた五条先生は、嘘とも本気ともとれない瞳を向けて問うてきた。冷や水を浴びせられたかのように一瞬で冷える心臓。そもそもお金の問題でもないし、娼婦さながらの扱いをされたことに酷くショックを受けた。お高くとまっているとでも思われていたのだろうか。お金を払ってまで体を手に入れたいんだろうか。こんな貧相な体を?あれだけ豊満ボディに囲まれているのに貧弱をご所望なの?もし本当にそうならへそで茶が湧いてしまう。まさかこんな流れになるとは思っておらず、何も言えず動けないでいると、ふっと目を細めて笑った彼。からかわれたと気づいたのはそのすぐ後だ。滲みそうになった涙は何とか堪えた。

「冗談だ。そんなに悲しそうにしないでくれ。君を娼婦だなんて思っちゃいないさ。それに金何て払わずとも抱かせてくれる女は山ほどいるしな」

「…金輪際そういうことは言わないでください」

「ショックだったか?まあ、抱きたいと思っているのは本心だ。その気になったらいつでも言ってくれ」

「なりませんし、五条先生とそういう関係になるつもりもありません」

「そりゃ残念だ。俺は君なら大歓迎だってのに」

どの口が言いますか、と思ったがもう完全に無視することにした。五条先生は何が気に入ったのか、サラサラだな、なんて言いつつ私の髪の毛で遊び出す。どうして娼婦と同類の扱いをするこの先生が女性に人気があるのかてんで意味が分からないし、こんなひどい男なのに嫌いになれない自分がいるのも悔しい。いや、考えるのは止めよう。今はそれよりも仕事だ。

「君は酷いなあ」

「先生の方が酷いと思いますけど。仕事させてください」

「君に振られて傷心している俺がいるっていうのに、君の興味は仕事にしか向けられない。ここまで頑なだと流石の俺も堪えるなあ。今はあまり乗り気じゃないが、口吸いくらい強請ってくれてもいいんだぜ?」

耳を掠めるのは言葉か吐息か。下から上へ、ぞわりと何かが這い上がる。急に漂い始めた色気は相手が私だというのに留まることを知らないらしい。文句を言う間もなく項を吸われてたので、慌てて持っていたカルテを五条先生に押し付けて逃げるように立ち上がった。無理だ。色んな意味で。

「数値に問題は見られませんので、帰ります。お疲れ様でした」

「待て待て待て!はあー…分かった。きちんと仕事の話をしよう。当初はそのつもりだったしな」

私の腕を引いて再び椅子に座らせた五条先生。これ以上もてあそばれてなるものかと少し距離を離して睨めば肩を竦めたものの、それ以上近づいては来なかった。そしておもむろに立ち上がったかと思えば部屋の奥に置かれた小型の冷蔵庫から某コンビニオリジナルのカフェラテを取り出し、これまた別のカルテとともに渡された。媚薬でも仕込まれているのではと勘ぐってしまった私は悪くない。五条先生はそんな私を見て、野良猫でも拾った気分だと笑う。

「そう邪険にしないでくれ。君に不快な思いをさせた詫びだ」

「…有難く頂きます。それで、こっちのカルテは?」

「ああ、聞きたかったのはこっちの患者のことだったんだ。すまんな、ついうっかりしていた」

そういって笑っているけど絶対嘘だと思う。まあ、これで本題に入れるし良しとしよう。付箋がついている部分を捲れば蛍光色のマーカーが引かれている数値があり、その横に“?”が書かれていた。検査項目としても数値としても特に問題はないように思える。それよりも驚いたのは事細かに書かれたその内容だ。こんなに綿密に書かれたカルテはそうそうみられるものではない。きちんとこの先生が目の前の患者に向き合っている証拠でもあった。やっぱり普段の人間性はどうであれ、医師としての五条先生は非の打ちどころがないのだと思う。

「…特に違和感はないですけど」

「いや、まあ確かにそうなんだが…疑っている疾患と断定するにはどうにも数値が低い気がしてな」

「炎症マーカーの数値ですね。免疫系の疾患であれば人にもよるので低いとは言い切れません。もしくは抗アレルギー薬でも服用していたのではないですか?今は1日に1回服用のものも多数ありますし、半日以上空けても採血時に薬効が消失しているとは限りませんし」

「やはりそうか。後日もう一度検体を送るから、これとこっち、あとこの項目の検査を頼む」

「分かりました。でしたら最低1日以上は市販薬も含め、抗アレルギー薬の服用は控えるよう、ご本人様にお伝えください」

「正確な値を望むなら2日は投薬を中止した方がいいな。分かった、明日診察があるから伝えておこう」

真剣な目でカルテを見据えじっと考え込む姿は、久しぶりに見た私が焦がれているほうの五条先生の姿で、やっぱりこっちの方が断然いいなあと思ってしまう。スイッチを切り替えるだけでこんなに人が変わるとは、本人の自覚はあるのだろうか。陶器のような白い肌はどれだけ徹夜をしようとも滑らかだし、ペンを握る右手は少し骨が浮いているけれど、そうして骨と筋で浮かび上がる陰影が、細くも男らしさを強調していた。この手で触れられるのだ。さっきの看護師さんが夢中になるのも分からなくはない。一途な人だったrどんなにいいか。見ながらぼーっとしていたらしく、低い声に呼びかけられてハッとする。

「…見惚れたか?もう少し待っててくれたら抱いてやれるが」

「見惚れていません。どうして五条先生は二の次には誘い文句しか出てこないんですか」

「さぁ。これが俺だから、としか言いようがない」

「…たらしじゃなければ興味が湧いたのに、残念ですね」

「へえ?君は俺をそんな風に見てるのか」

「さて、お話は終わりました。お疲れ様でした」

「にべもないなあ」

だが助かった、と言われて心なしか頬が緩んでしまう。自分の仕事ぶりが損壊している人に認められるのはとてつもなく嬉しい事でもあるし、今後の自信にもなる。例え目の前の男が色魔だとしても普段はあこがれの一等地、五条先生なのだから面と向かって褒められれば効果は倍増である。そんな私を少し驚いたように見つめた先生は、ふむと顎に指を添えて一言。

「そちらの方が好ましいな。どれ、もう一度俺に向かって笑ってくれないか?」

「無理です。お疲れ様でした、さようなら」

「ああ、気を付けて帰れよ」

今度は引き止めるわけでもなく、ひらひらと片手を振られた。ちらっとスマホを見ていたし次の予約があるのかもしれない。ずずっと残ったカフェラテを吸い、空になった容器を近くのゴミ箱へ捨てた。誰もいない廊下に音だけが響く。そうしてもう一度彼がいる部屋を振り返ると、女性が一人中へと消えていくところだった。寂しくなんてないし悲しくなんてない。これが日常なんだから。それよりもどうしたら彼の興味は尽きるだろうか。本気で獅子王先生に嫁に貰ってって泣き付こうかな。

「あ〜…本当に不毛」