そのさん

皆さまおはようございます、今日もいい天気ですね。昨日のことさっぱり忘れようと努力したものの、忘れるどころがなかったことにすらできず、リップを塗る際に柔らかさだったりを思い出して羞恥に耐えきれず、朝っぱら机に頭を打ち付つける奇行を犯したのは私です。仕事場であんなことがあったのは痛い。これから測定室に入るたび、あの羞恥とか光景とか思い出すのかと思うと、キリキリと胃が痛んだ。そんな私を他所に、珍しく自分で内線を取った上司が、受話器を下げた後その鶯色の瞳を私に向けた。

「鶴丸が呼んでいる」

「は?」

コーヒーでも飲むか、的な軽いノリで言われて、口からリアルの"は?"が出てしまった。一応言ってきたのは上司であったため、慌てて咳払いをして誤魔化す。これが大包平先生とか長谷部先生だったら、上司に向かって何たる無礼云々かんぬん説教が始まりそうだけど、大らかさを絵に描いたような鶯丸先生は可笑しそうに笑っただけだった。

「ちょっとなに言ってるか分からないです」

「五条が君を呼んでいる。さっき届けた結果に質問があるらしいんだが生憎俺は別件で予定があってな。代わりに君が行ってくれないか?」

「私、まだ検体の処理があるので別の人に頼んでください」

誰が好き好んで野獣の根城に行くか。そう言外に告げれば、やはり喉を震わせて笑う鶯丸先生。最近この人、私を使って遊んでいると思う。特に五条先生が絡む案件には、必ずと言っていいほど私を参加させたがる。本当にやめて。私は全くもって望んでいないし、出来ることなら内科棟の反対にある外科棟に行きたい。

「そうか。実は先方には既に君が行くことを伝えてしまってな。もし別の人間を行かせるなら、内線で連絡を入れてやってほしい」

「何で私?!頼まれたの鶯丸先生ですよね?」

「評価されているのはいいことじゃないか。俺も君になら安心して任せられる」

「煽てても何も出ませんよ」

「駄目か」

「駄目ですね」

警戒心丸出しで行きたくないと噛み付けば、鶯丸先生はやっぱり笑いながら受話器を耳に当てた。ずっと内線が繋がっていたっぽい。まじか。頼りにしているとか言いつつ、私が五条先生に怒られるようにそういうことしちゃうんだ。

「…だ、そうだ。別の者を向かわせることも出来るがどうする?…あぁ、それは構わないが…分かった。伝えておこう」

二言、三言交わした後、受話器が置かれる。意味深な笑み。聞かなくても何となく、どういう対応になるのか分かるやつ。後で来いってなるやつな。

「今日の業務終了後に寄ってほしいそうだ」

「え、別の人に頼むとか…」

「無いな」

「…最近、五条先生に協力的すぎやしませんか?」

「そうでもないさ」

笑って否定しているけれど、全くもって信用はできない。何故ならその手に握られているのは新しい高級茶葉だから。鶯丸先生は既に私の抗議は耳に入ぬていないのか、ラベルを穴が空くほど読んで香りを楽しんでいる。一体誰から貰ったんですかと非難するような視線を向けて見たが、やはり笑われただけであった。


「…」

いざ来たはいいが、ノックしようとした手がピタリと止まって5分。そそくさと扉の前から離れて3分。どうしてこんなことになっているのかというと、部屋の中からは絶賛お楽しみ中の声が聞こえるからだ。何でこの数分で女連れ込んでるの。五条マジックすぎて困る。せめて扉がちゃんと閉まってるか確認してから始めてほしい。何も言わず、音も立てず扉を閉めてあげた私の行為は賞賛に値すると思っていい。閉める直前、ふいに流された視線はきっちりと私を捉えたはずだ。彼の薄く綺麗に象られた唇が、三日月を描いたんだから。つまりは私がここにいる事を知っていながら、待たせているのである。本当にどうしようもない。

帰りに寄れと言われたものの大した用事でもないと踏んだ私は、定時ダッシュを決め込んだのだが、それを見越したように内線が鳴った。地獄からの呼び出しである。明日の朝一では駄目かと交渉したものの、今日がいいとごねられ泣く泣く内科棟へ行くことになった。すぐ来いって言ったのは五条先生の方なのに、女性との逢引で待たされるとはこれいかに。しかし彼の用向きに答えなければ私の仕事は終わらない。これ以上待ってても仕方ないので、強引に切り込むことにした。私は一刻も早く帰りたいのである。

「…五条先生、お取り込み中なら明日出直します。私は戻りますね」

ノックをして声をかければ、ガタガタと音がして、まずは看護師さんが出てきた。着衣の乱れはないものの口紅が変な感じに擦れている。お楽しみ中にごめんなさい、でも呼んだのは五条先生なんで、何て思っていたら、すれ違い様、邪魔すんなとばかりに凄い凍てつく目で睨まれた。あの、次の予約とかじゃないんで、勘弁してください。バタバタと走って行く後ろ姿を見送っていたら再び扉が開いて、今度は疲れたような、それでも少しだけ頬を紅潮させた五条先生が顔を出す。

「待ちくたびれた。随分遅かったな」

入れと言われ、体を横にずらしてスペースを空けてくれた横を通る。ガラガラと後ろ手に扉が閉まる音がした。待たせたのはそちらですが何か。促されるまま五条先生の向かいに設けられた椅子に座り、渡されたカルテに目を通す。

「…大分前に来ていたんですけどねえ。入るには入れなくて」

「ああ、知っているさ。扉の前で迷っていただろう?入って来ても良かったのに」

「気付いていたんですか、悪趣味ですね。ですが楽しまれているのにお邪魔かと思いまして」

「楽しむ?ははっ!あれで楽しんでいたとは、トンチキなことを言う。乗り気でもないのに迫られても煩わしいだけだろう。そもそも捕まっていたのは俺の方さ。君が尻込みせず入って来てくれたらもっと早く解放されたんだがな」

「…へえ?」

「本当に分からないか?君がいた事に気付いていたのは何も俺ばかりではないってことさ。彼女だって気付いていたし、それでも続けたのは違う女への牽制をしたかったんだろう。俺はああいう女が一番嫌いだ」

「成る程勉強になります。ですが私を当て馬に使うのやめて下さい。他人のあれこれを見る趣味はないです」

ケラケラと笑いながら相手を貶し、さらには事も投げに嫌いと言い切る五条先生のクズさ加減よ。それなのにお相手するんですね。流石愛の安売り伝道師。近づかないで下さい。相手の女性の趣味など聞きたくないので、はいはいと聞き流していると、それが不満だったのだろうか。椅子のキャスターが床を転がる音がして、視界の端にさらりと流れる銀糸が見えた。同時に肩にのし掛かる重み。チラッと視線を向ければ、五条先生は私の肩に頭を乗せながら頬を膨らませ、カルテにジト目を向けていた。何だこの状況は。休日のカップルか何か。

「重いです」

「疲れているんだ、肩くらい安いもんだろう…それにこうしていると落ち着く」

「私は五条先生のリラックス用品じゃないです。割り増し料金取りますよ」

「君は酷いなあ」

「はあ?」

「傷心している俺がいるっていうのに、君の興味はちっとも俺に向きやしない。今はあまり乗り気じゃないが、口吸いくらい強請ってくれてもいいんだぜ?」

耳を掠めるのは言葉か吐息か。下から上へ、ぞわりと何かが這い上がる。急に漂い始めた色気は相手が私だというのに留まることを知らないらしい。後ろから回って来た手に握っていたペンを取られそうになった挙句密着されたので、持っていたカルテを五条先生に押し付けて逃げるように立ち上がった。無理だ。色んな意味で。

「数値に問題は見られませんので、帰ります。お疲れ様でした」

「待て待て待て!はあー…分かった。きちんと仕事の話をしよう。当初はそのつもりだったしな」

私の腕を引いて再び椅子に座らせた五条先生。これ以上もてあそばれてなるものかと少し距離を離して睨めば肩を竦めたものの、それ以上近づいては来なかった。そしておもむろに立ち上がったかと思えば部屋の奥に置かれた小型の冷蔵庫から某コンビニオリジナルのカフェラテを取り出し、これまた別のカルテとともに渡された。媚薬でも仕込まれているのではと勘ぐってしまった私は悪くない。五条先生はそんな私を見て、野良猫でも拾った気分だと笑う。

「そう邪険にしないでくれ。君に不快な思いをさせた詫びだ」

「…有難く頂きます。それで、こっちのカルテは?」

「ああ、聞きたかったのはこっちの患者のことだったんだ。すまんな、ついうっかりしていた」

そういって笑っているけど絶対嘘だと思う。まあ、これで本題に入れるし良しとしよう。付箋がついている部分を捲れば蛍光色のマーカーが引かれている数値があり、その横に“?”が書かれていた。検査項目としても数値としても特に問題はないように思える。それよりも驚いたのは事細かに書かれたその内容だ。こんなに綿密に書かれたカルテはそうそうみられるものではない。きちんとこの先生が目の前の患者に向き合っている証拠でもあった。やっぱり普段の人間性はどうであれ、医師としての五条先生は非の打ちどころがないのだと思う。

「…特に違和感はないですけど」

「いや、まあ確かにそうなんだが…疑っている疾患と断定するにはどうにも数値が低い気がしてな」

「炎症マーカーの数値ですね。免疫系の疾患であれば人にもよるので低いとは言い切れません。もしくは抗アレルギー薬でも服用していたのではないですか?今は1日に1回服用のものも多数ありますし、半日以上空けても採血時に薬効が消失しているとは限りませんし」

「やはりそうか。後日もう一度検体を送るから、これとこっち、あとこの項目の検査を頼む」

「分かりました。でしたら最低1日以上は市販薬も含め、抗アレルギー薬の服用は控えるよう、ご本人様にお伝えください」

「分かった。明日診察があるから伝えておこう」

真剣な目でカルテを見据えじっと考え込む姿は、久しぶりに見た私が焦がれているほうの五条先生の姿で、やっぱりこっちの方が断然いいなあと思ってしまう。陶器のような白い肌はどれだけ徹夜をしようとも滑らかだし、ペンを握る右手は少し骨が浮いているけれど、そうして骨と筋で浮かび上がる陰影が、細くも男らしさを強調していた。この手で触れられるのだ。さっきの看護師さんが夢中になるのも分からなくはない。見ながらぼーっとしていたらしく、低い声に呼びかけられてハッとする。

「…見惚れたか?もう少し待っててくれたら抱いてやれるが」

「見惚れていません。どうして五条先生は二の次には誘い文句しか出てこないんですか」

「さぁ。これが俺だから、としか言いようがない」

「…黙っていればもっとかっこいいのに勿体無いですね」

「へえ?君は俺をそんな風に見てるのか」

「さて、お話は終わりましたね、お疲れ様でした」

「にべもないなあ」

だが助かった、と言われて心なしか頬が緩んでしまう。自分の仕事ぶりが損壊している人に認められるのはとてつもなく嬉しい事でもあるし、今後の自信にもなる。例え目の前の男が色魔だとしても普段はあこがれの一等地、五条先生なのだから面と言われれば効果は倍増である。そんな私を少し驚いたように見つめた先生は、ふむと顎に指を添えて一言。

「そちらの方が好ましいな。どれ、もう一度俺に向かって笑ってくれないか?」

「無理です。お疲れ様でした、さようなら」

「ああ、気を付けて帰れよ」

今度は引き止めるわけでもなく、ひらひらと片手を振られた。ちらっとスマホを見ていたし次の予約があるのかもしれない。ずずっと残ったカフェラテを吸い、空になった容器を近くのゴミ箱へ捨てた。誰もいない廊下に音だけが響く。そうしてもう一度彼がいる部屋を振り返ると、女性が一人中へと消えていくところだった。寂しくなんてないし悲しくなんてない。これが日常なんだから。それよりもどうしたら彼の興味は尽きるだろうか。不毛な恋を終わらせるにはやっぱり手っ取り早く向こうに諦めてもらった方がいいだろう。

「良し、やっぱり持つべきものは友達だよね」

五条先生の嫌がらせと言う名の攻めに対抗するため、私も頭を使うことにした。まず1つは、勢いで言ってしまった恋人(嘘)について、誰かそれらしい人を頼めばいいのではないかと閃いたのだ。所謂レンタル彼氏的な。そうして電話帳から話の分かる異性の友人を探した。この際、仲の良い獅子王先生に一芝居打って貰おうとも考えたけど、出来れば五条先生と顔見知りでない人の方が成功率が高い。というわけで私が選んだのは、大倶利伽羅である。

「お願い!この通り!!」

「断る。面倒ごとに巻き込まれるつもりはない」

土下座の勢いで頼んで見たけれど答えは否。何となく分かっていたよ、君とは長い付き合いだからね。

「今度の飲み会の時だけでいいの!さり気なく迎えにきてくれればいいから!」

そう、何を血迷ったか普段はお茶しか飲まない鶯丸先生がお茶会ならぬお酒会を開くというのだ。まあ確かに、年に一回の病院全体の休みらしいので羽目を外したくなるのは分かる。そしてそういう宴会事の幹事は比較的時間に余裕がある病理解剖室に回ってくるのだけれど、当然そんなめんどくさいことを上司がやるはずはない。つまり下に投げられるわけだよ、私にな!お膳立てして参加可否のメールを出してもらって、その集計と場所の確保は私の仕事。業務外手当くらい貰いたいものだ。今年はイケメン医師の殆どが参加予定だそうで、それを狙った女性スタッフの参加数が増える増える。ちょっと、いやだいぶ怖い。人数が人数なので、某ホテルの広間を貸し切って立食パーティーと相成った。勿論五条先生も参加するらしい。彼は大人気だからここでも絡まれる可能性は低いけれど、念には念を。恋人の存在をちらつかせれば平穏が訪れること間違いなしだ。

「俺を当て馬にするな」

「後生だから!報酬は弾むよ!数量限定、らんぶ屋のずんだ餅5個でどう?」

「…」

「朔日餅もつける!」

「はあ。今回だけだからな」

「有難う!場所と時間は後でメールするね!」

大倶利伽羅が和菓子好きで本当に良かった。和菓子の老舗であるらんぶ屋のずんだ餅となれば、それなりの出費だが背に腹はかえられぬ。それにずんだ餅で平穏が取り戻せるならば安いものだ。和菓子は正義。らんぶ屋で働いている友達にも連絡しておかねば。これで準備は整った。あとはさっぱりすっぱり興味をなくしてもらおう。そして待ちに待った飲み会当日。朝からルンルンな私は鼻歌歌交じりで検体測定をしていた。

「ふふふ!」

「…ご機嫌だな。そんなに飲み会が楽しみなのか?」

「これで平穏が取り戻せると思うと、もう嬉しくて」

鴬丸先生が訝しげな顔をしたが、私は意味深に笑うだけ。こうして難なく飲み会は終わり、彼の興味も尽きる。筈だった。


「ん…」

微睡んでいた意識がゆっくりと浮上する。身体を包み込むのは羽根のような柔らかさと暖かさを持った何かだ。布団から出ていた肩が冷たくなっていて暖かさを求めるように包まり直す。ふわふわのふっかふか。おまけに安心するようないい匂いがする。こんな掛け布団、私の家にあっただろうか。誰かに頭を優しく撫でられるのが気持ちよくて、微睡みから抜け出せない。擦り寄るように身を縮めれば、笑い声が落ちてくる。笑い声?

「寝ている君は無防備だなあ。どれ、寒いか?温めてやろうな」

聞こえるはずのない声が聞こえて、ぱちっと目を開いた。視界を埋め尽くさんとする白。その中に混ざる人の肌としての白。条件反射で逃げようとした私の腰をその人は難なく掴んで引き寄せた。いつのまにか押し倒されて、腕を突っ張る暇もない。更にはなんかこう、いつもより人肌を感じるというかなんというか。上から覗く金色は楽しそうに揺れている。視線を巡らせれば相手は服を着ていない。いや、語弊があるかも知らないから上半身だけと言っておこう。ちらっと自分の身体を見る。勿論私も下着姿だった。これは、まさか。

「ひいっ!!!」

「はは!驚いたか!」

「な、え、は…ここっ…」

「ほら、ベッドから落ちるだろう。落ち着け落ち着け。昨日のことは覚えているかい?」

ゆったりと頭を撫でられるけれどそれどころじゃないのだ。ぐるぐると記憶を辿るが朧げなものしか出でこない。確か昨日は立食パーティーで、お酒もたくさん出ていた。あんまり飲めない私はちゃんとセーブして飲んでいたはずだ。ソフトドリンクと間違えてお酒を飲んでしまったのだろうか。駄目だ、鶯丸先生に女避けに使われて、ドリンクのお世話していたところまでしか思い出せなかった。

「その様子じゃ覚えてないようだ。さて、取り敢えず互いに身支度を整えるってのはどうだい?話はそれからだ」

「あ、あの…私、酔った勢いで何か間違いをしませんでしたか?」

「さあ、どうだろうな。是非ともその間違いってやつを具体的に知りたいもんだ」

「……その………致しません、でしたか?」

「君の想像に任せよう」

五条先生は答える気がないのか、綺麗に笑って部屋を出で行く。パタンと扉が閉まり、色々キャパオーバーになった私は布団に突っ伏した。待って待って、状況を整理しよう。ここは五条先生の家で、五条先生のベッドで、目が覚めたら五条先生が隣に寝ていたと。やばい。病院のスタッフが知ったら私に明日はない事案なのではないだろうか。そもそも大倶利伽羅に恋人役を頼んでいたはずなのにどうしてこうなった。頭まで被った布団をぎゅっと握る。

「…布団、五条先生の匂いがする」

自分で言って更に恥ずかしくなった。当たり前だ、これは五条先生のベッドなんだから彼の匂いが付いてるのが常識であって、他の女性的な匂いがしないことが意外だったとかそんな事は今はどうでもいいのだ。ちょっと、いや、だいぶ落ち着け、私。

「君、何か食べるかい?」

「ぎゃああああ!!ノック!!ノックしてください!」

「恥ずかしいのか?昨日散々見られたんだ、今更隠したところでどうなるわけでもないだろう」

「それでも!女性の着替えを見る趣味はないでしょう!」

「脱がせる方になら興味はある」

「へんたい!!」

投げた枕は、笑いながら閉じられた扉にあたって落ちた。人様の家で行儀の悪いことをしている自覚はあるけれど、そんなことよりも恥ずかしさの方が優った。だってこんな貧相な体を、女性の体なんて見慣れてます、を貼り付けて生きているような五条先生に見られたのだ。そんな気はなかった私の下着はそれはもう、楽さを追求した代物だし豊満でもなければ引き締まっているわけでもない。普通体型だ。お目汚し失礼しましたと言いたくなる。流石にこの下着はない。いやいや、何落ち込んでいるの。これで決定的な亀裂が入るかもしれないなら喜ばしいことじゃないか。近くに置いてあった、恐らく彼が畳んだでくれたあろう服を着て、おずおずと部屋を出る。寝室を出るとモノトーンで彩られた広いリビングダイニングが広がり、そこに置かれたテーブルの上にはコンビニの袋が置かれている。シックな部屋には似合わないそのビニール袋が何となく寂しく映った。

「お、漸く天の岩戸から出てきたか。さっきコンビニで買ってきたんだが、君の好みが分からないんだ。好きなものを選んでくれ」

「いえ、お気遣いなく。それよりもとんだご迷惑をおかけしてすみませんでした」

「急にしおらしくなっちまってどうした。まあ俺にとっても役得だったし、あのまま帰らせるにも危なかった」

「すみません。それでですね、昨日私が帰るとき誰か迎えにきてなかったですか?」

「いや、覚えはないな。俺が見つけたのはタクシーを一向に拾えず、ヘラヘラ笑っていた君とそれを白い目で見る通行人くらいだ」

「まじか。穴があったら入りたい…」

顔を覆えば笑われた。あまりにも少年みたいに笑うから、思わず指の間から凝視してしまう。その顔は女を貪る色気がある訳でも、患者に慕われている五条先生の顔でもなく、ただの五条国永に見える。仕事とプライベートでこれだけ表情や人間性が変わる人も珍しい。ぽかんと開いたままの口は、五条先生にの指によって閉じられた。すりすりと耳の輪郭を撫でられる。その手つきのいやらしいこと。一瞬だけでもドキッとした自分を殴りたい。

「間抜け顔もいいが、どうせなら君の欲に塗れた顔が見たい」

「あ、いつも通りの五条先生だったわ」

「さて…まだ日も高いわけだが俺も君も暇だ。これから2人でお楽しみと洒落込むってのはどうだ?昨日お持ち帰りされたぐらいだ。準備はできているだろう?」

「何にも準備できてないし、私恋人いますってば!いたたたた!ここデーブル!背中痛い!」

「ベッドならいいのか?」

「言い訳あるか!あのですね!私はクズ男に差し出す体もなければ心もないんです!本気で欲しかったら一途になって出直してください!!」

彼はキョトンと目を丸くする。満月が落ちそうだと思いつつ、そそくさと距離をとった。言ってやった!言ってやったぞ!五条先生をクズ男呼ばわりすることに、一片の心も痛まないけれどこれは大きな進歩では無いだろうか。ふむ、と顎に手をやって考えている五条先生は、じりじりと距離を詰める。直ぐに壁に背中が付いた。後ろなんて気にしてなかった私の、短い逃亡生活は終わりを告げる。それを自覚させるように、ダンッと、五条先生の両手が顔の横に置かれた。所謂壁ドンというやつである。甘さよりも威圧感の方が強い。

「なら付き合ってくれ」

「いやあのですね、付き合ったとしても抱かれるかはまた別の話で……って、はあ?!」

「はは!君は百面相で忙しそうだな」

「え、は?付き合う?誰かに縛られたくないとかほざいてた五条先生が?!てか私恋人が…」

「大倶利伽羅は恋人役なんだろう?なら何の問題もないじゃないか。酷いなぁ、嘘を吐くほど嫌われていたとは」

「いえ、そういうわけじゃ…!てか何で大倶利伽羅のこと…」

「酔っ払った君が言っていたのさ。この人が恋人役の大倶利伽羅です〜ってな」

何だそれは。私の声真似か。全然似てないし、てか昨日の自分を殴りたい。何で自分でバラしちゃってんの。その上、さっきの迎えがいなかった云々のやり取りは嘘だったのかよ。五条先生は逃がさないと言わんばかりの、やや瞳孔が開いた目を細め、あわあわと目を白黒させる私を楽しそうに見下ろす。詰んだ。これは詰んでいる。助けて獅子王先生。白く長い指を携えた手が頬に触れ、ぐにっと挟まれる。

「それから…残念ながら大倶利伽羅は俺の知り合いだ。あいつの交友関係も知ってる。詰めが甘かったな」

「んうぅ?!いや、でもなんで…私と付き合うとか…」

「君を他人にくれてやるのが惜しくなった。安心しろ、無理矢理抱こうとは思わんし、溜まるようなら別の女で処理する。君はただ、そこにいてくれればいい。焦らずともその内惚れさせる自信はあるしな」

「…はあ?」

いや、それって根本的に何も解決してない。つまりは何か。セフレでもないけどとりあえず側にいて欲しい的な?え、恋人の定義って何だったかな、誰か教えてくれ。いつもの揶揄いかと思ったけれど、それにしては大分表情が真剣味を帯びているし側にいるくらいなら安いものだろと言われ、その剣幕に首を縦に振ってしまったことも事実。

「押してだめなら倒れるまで押してやるさ。まあ君の了承も得たことだしな。まずは朝食を食べようじゃないか、恋人さん?」

「……?!」

獲物を仕留めるような剣呑さが消える。頬にあった手が解かれ、するりと自然な流れで私の手を取った。駄目かい?と首をかしげる五条先生のあざとい事。困ったように下がる眉、それでいてアンニュイな表情。慎ましく優しげに細められた瞳がそこにある。朝日に反射した髪がキラキラと輝き、本の中から出てきた王子様そのものに見えるくらいのエフェクトがかかっている。さっきまでは影を背負った魔王だったのに、色気というかチャラい雰囲気は綺麗さっぱり何処かへ霧散していた。これで惚れない女がいたら、そいつはもうゴリラである。認めよう、今この瞬間、私は絆された。完敗である。こうなったら、彼の興味が無くなるまでの間、夢を見ようと思う。

「…コンビニのパンとか味気ないですね。立派なキッチンがあるんだから使えばいいのに」

「ははっ!痛いところを突くなあ…何なら君が作ってくれてもいいんだぜ?」

「卵焼きなら作りますよ。それなら食べれるんですよね?」

「あぁ。君のそれは一等美味いからなあ」

私の口からは可愛い言葉は出てこない。それなのに彼は楽しそうに笑うのだ。君の、俺に媚びないそういうところが好ましいと、よく分からない評価も貰ってしまった。つまり物珍しいって事ですよね。知ってます。勝手に冷蔵庫を開けて卵を3つ、拝借。思ったよりも調味料は充実してたので、だし巻き卵は簡単に作ることができたけど、出汁が違うためか五条先生は味が違うと不満げである。何だかんだで一緒に食べることになったコンビニのパンはジャムパンだったから想像通り甘かったけれど、何だかいつも以上に甘く感じた。





「はあ…飲み会といえど疲れるな」

ドリンクを取りに行くふりをして、漸く女たちの輪から抜け出した国永は、同じく避難してきたであろう鶯丸の隣を陣取った。死角になっているテラスに早々に引き上げたであろう同僚は、涼しげな顔で杯を傾けている。

「モテる男はつらいな」

「よく言うぜ。彼女を使って自分だけのらりくらりと躱しやがって…」

「羨ましいなら鶴丸も部下を使ったらどうだ?最も、勘違いしない女がいればの話だが」

「嫌味にしか聞こえないな」

くくっと喉で笑った鶯丸に向けて大きなため息を出す。この男、自分の部下が勘違いしない女であることをいいことに、散々女避けに使っていたのだ。お陰で倍以上の女の相手をすることになった。それが面白くもないし、漸く抜けて目的の人物にちょっかいを出せると思いきや、その本人はいないと来た。完全に国永の機嫌は急降下である。

「そんな鶴丸に朗報だ。彼女ならあそこで絡まれている」

指を刺された方向を見ると、グラスを2つ持った彼女が複数人の男性スタッフに囲まれていた。1つはここにいる鶯丸の分なのだろう。この飲み会のことを聞かれているのかと思いきや、イケメンに大半の女性職員を持っていかれた他の男性スタッフが、余り物に声を掛けているだけのようである。国永にも靡かない彼女はそれなり容姿も整っているし、格好の餌食というわけだ。パシられた挙句絡まれるとは、彼女も災難である。にこにこ愛想笑いを浮かべているが、その顔は大分疲れていた。

「あぁ、酒を飲まされているな。得意ではないと言っていたが大丈夫だろうか」

「態とらしいな…俺に行けと?お前の部下だろう。散々使っていたなら助けに行ったらどうだ」

「その役目を譲ってやると言っているんだ。彼女を捜していたんだろう?颯爽と助けてやれば好感度も上がるかもしれん」

上手いことを言ってはいるが、恐らくここを出て女に囲まれるのが嫌というのが本音だろう。全く助けに行く気がない鶯丸に溜息をついて、吸いかけの煙草を灰皿は押し付けた。こういう美味しいとこだけ持っていくのもどうなんだと思わないでもない。これで好感度が上がるとも思えないが、助けた事をネタに揺すればそれなりの見返りがあるかもしれない。そう思い直した国永は、再び煌びやかな会場へと足を踏み入れた。

「あのー、すみません。そろそろ上司を待たせてるので…お水も緩くなっちゃいますし」

「上司ってあの鶯丸先生でしょ?彼も女性職員が放っておかないし誰かお世話してくれるから大丈夫だよ」

「…私もあの、これ以上お酒は…」

「あと一杯だけ付き合ってよ。ほら、このソフトドリンクでいいからさ」

分かりましたと、頷いて素直に受け取った彼女。素面に見えるが思考が大分鈍っているらしい。男が渡したのは確かに一見オレンジジュースにも見えるが、明らかにカクテルだろう。大体ボーイが持っているものはアルコールだし、そもそもソフトドリンクは個別で頼まないと提供されないのだ。国永に向けられる警戒心の一片でも纏わせたいものである。気配を消しながらゆっくりとその集団に近づいた。

「それにしても君は珍しいよね、五条先生にもちょっかいかけられてるって聞いたよ」

「はあ…まあお遊びでしょうけど」

「普通あれだけ顔がいいと靡くもんでしょ?」

「別に顔で人を判断しているわけではないので」

「見た目に騙されないのは本当凄いと思うよ。五条先生って顔はいいけど性格がアレだし、夜遊びも派手だからね。君がそれに引っかからなくて良かった」

「…はあ」

「何であんな奴が内科で幅を利かせられるのか不思議だよ。もしかしたら理事長と寝たのかもね」

回収をしに来た先で自身の陰口を聞くことになろうとは。ゲラゲラと笑う集団を見て、国永の顔からスッと表情が消える。別に悪く言われることは慣れている。同僚からの妬みや嫉みはいつだって付き纏ったし、器量の良さを武器に女遊びをすることだって間違ってはいない。だが理事と寝た発言は些か腹を据え兼ねるものがあった。誰があんな年増を抱くか。ここまでのし上がったのは裏表のないただの実力である。寄ってくる女も顔や地位が目的のやつが殆どであり、今更否定する気は無かったが、そういう事なら面と向かって言ってもらいたいものである。本人のいない所で悪く言われるのは、何ともまあ気分が良いものではないのだ。

「…お言葉ですけど」

「ん?」

「五条先生は確かに色々だらしが無いし悪い噂をたくさん聞きますけど、仕事はきちんとされていますよ」

「…まあ、それは」

「五条先生の書くカルテ見たことあります?患者さん一人一人の状態から考えうる全ての疾患名まで事細かに書いてあります。だから診断を間違えないし、決め付けないから患者からも人気が高いんです。診察の間に論文だって書いていますし、努力は惜しまない。それだけで医師としての実力は折り紙つきだと思いますけど」

「…っ」

「確かに性にはだらしがないです、そこは否定しません。人間としても最低です。ですが医師としての五条先生を私は尊敬しています」

「…は?」

「貴方方の言い分はただの負け惜しみにしか聞こえません。五条先生を羨むより先に、ご自身で努力されてはいかがですかね」

男性スタッフに気圧されず、きっぱりと言い切る彼女は何処か輝いて見えた。そうか、この子はきちんと人間を見れる子なのかと、噂やフィルターを通さず自分を見ていてくれたことが嬉しかった。軽蔑もされていたが尊敬もされていた。五条国永という人間をちゃんとその瞳に写していたことに、じんわりと胸が熱くなる。同時に緩んだ顔の筋肉を手で隠す。まさかそんな返しがくるとは思っていなかった彼らは動けないようだ。怯むスタッフを他所に、ぐいっとグラスを煽った彼女はご馳走様でしたと、男性の間を掻き分ける。ようやっと抜け出せたところで、やはりアルコールの一気飲みはきつかったのだろう、ふらついた彼女の腕を取って引き寄せる。あぁ、この子だ、そう感じた。射干玉の瞳と視線が絡む。

「君、俺を褒めるなら是非とも面と向かって言ってくれ」

「…褒めてないです勘違いです」

「どれ、褒めてくれた礼だ。そこまで送ってやろうな。それから…後ろの男性諸君。俺を悪く言うのは構わないが、そう言うことは実力が追いついてから言ってもらいたい」

国永に睨まれてさらに縮こまった集団を置いて、その場を後にした。横を歩く女の足取りは軽いのに拙く、危なっかしい。急に動いて酔いが回ったのか、彼女はされるがままである。いつもの言い合いもなければ、繋がれた手を振り払うそぶりも見られない。何だこの生き物は。本当にあの悪態を吐く女と同一人物なのか。

「いやはや驚いた。てっきり俺は嫌われているとばかり思っていたが」

「…別に嫌いだなんて一言も言ってないじゃないですか。それに尊敬しているのは本当です。人間性はどうであれ、五条先生はかっこいいです」

「ははっ。君からそんな言葉を聞けるとは嬉しいねえ」

「きっと先生は顔が良すぎるから性格が捻くれたんですね、分かります」

「そうかもな…誰かに直してもらいたいもんだ」

出来れば君に、とでも言ったら彼女はまた嫌そうに顔を歪めるだろうか。ちらっと後ろに視線をやれば、手を引いているのは国永だと言うのにキョロキョロと周りに目を向けていた。しかし目が合うとへにょっと笑う。警戒心は何処に置いてきたんだと問いたい。

「あー…君、ちょいと飲みすぎだ。何処かで涼むかい?」

「いいえーお迎えが来る時間なので帰ります〜御機嫌よう」

「相変わらず冷たいなあ。迎えはご家族の方か?」

「んふふ〜丁度いいので紹介しますね〜」

「は?」

こっちです、と逆に手を引かれて大人しく付いていくことにする。彼女からこうして触れてくることは初めてで驚いたが、これで素面に戻ったらどう慌てるのかと考えると中々気分のいいものでもあった。熱いくらいの温度が国永の指を握って、先導していく。連れてこられたのはホテルのエントランス。何だ、ホテルの部屋ではないのかと若干落胆したものの、人が疎らの中を彼女は一直線に歩いていく。その先に見知った顔を見つけ、国永の白い柳眉が上がった。同時に、彼女の手が離れる。

「おおくりから〜」

「…遅い。それに飲みすぎだ。酔っ払いを介抱するつもりはない」

「えへへ〜雰囲気良いってやつですよう」

「驚いた。伽羅坊じゃないか」

「…国永?」

彼女の後を追い、これまた同じように驚く大倶利伽羅に近づく。でれでれと腕を組もうとする女を軽くあしらっている姿はどう見たって恋人のそれではないし、大倶利伽羅の表情とて迷惑極まりないと言いたげてある。

「あれ?お知り合いです?参ったなあ…」

「おい、どういうことだ。説明しろ」

「ちょっと黙ってて。五条先生、この人が私の恋人役の大倶利伽羅です〜」

こいつ、役って言ったか?今、恋人役って?思いっきり嘘の恋人だと宣言した彼女に、2人分の呆れた視線が刺さる。しかし酔った本人には何の効果もないばかりか、自分が口走ったボロにすら気付いてすらいない。国永と大倶利伽羅の視線が交わり、互いに互いの置かれた状況を把握した。厄介なことをしてくれる。一方の彼女は目的を果たして満足したのか、大倶利伽羅に凭れ掛かってうつらうつらし始めた。気が知れた知り合いだからか、急に眠気が襲ってきたらしい。そこまで気を許していると思うと少しだけ羨ましかった。

「…伽羅坊、一晩だけ彼女を譲ってくれないか?」

「…手当たり次第に手を出す癖、まだ直っていないのか?いい加減落ち着いたらどうなんだ」

「こればっかりはな…天地がひっくり返ったところで直らない」

「直す気がない、の間違いだろう」

大倶利伽羅の鋭い視線に、国永は参ったとばかりに肩を竦めた。しかしこれとそれとは別物である。あんなことを言われた後だ、不覚にも揺すられた部分もある。近くに置いてもう少し彼女という人間を知りたくなった。

「何、悪いようにはしない。脈がないなら諦めるさ」

「泣き付かれる俺の身にもなってみろ」

「ははっ!案外ころっと忘れるかもしれないぜ?なんせ俺が口説いても中々落ちないからな」

「…見た目に反して傷付きやすいやつもいる」

「肝に銘じよう。それで、譲ってくれるのか?」

大倶利伽羅はこれ以上言っても無駄だと思ったのか、彼女の顔を見て暫し巡考する。そうしてじっくり考えた後、勝手にしろと身を引いた。片手にはヘルメットを持っているし、こんな状態では連れて帰れないと判断したのだろう。

「助かる。もし彼女に問い詰められたら埋め合わせはしよう」

「別にいい。それよりも約束は守れと言っておけ」

「約束?」

「言えば分かる。俺は帰るからな」

くれぐれも面倒ごとを起こすな、と警告じみた言葉を貰い、その背を見送ってから彼女をタクシーに乗せた。そうして自宅に連れて帰ってベッドに転がしてから数十分。女が起きる気配はなくむしろ益々深く寝入っていしまっていることに、少々落胆した。いや、その方が運びやすくてらいいのだが。

「無防備なのか図太いのか…」

服を着たままでは寝にくいだろうと、抜きエリのシャツのボタンを外し袖を抜き、ついでに面のパンツも足から抜いてやる。とても恋人がいるようなものでもない何の変哲もないインナーと下着には笑ってしまった。インナーを捲れば、女性にしてはやや薄い腹がのぞく。そっと触れてやると思った以上の弾力があり、肌場なめらかで吸い付いてくるようでもあった。ごくりと、喉が鳴る。そうしてゆっくりと撫でまわし堪能した後、へそのすぐ下に顔を寄せた。舌で湿らせて、ちゅうっと吸い付いてやる。途端に寝ているはずの彼女から発された、鼻にかかったような吐息に気分が良くなった。

「きちんと我慢している俺に褒美くらいあっていもいいだろう?」

咲いた紅い華を撫で、自分も来ているものを脱いで彼女の横に体を滑らせる。腕の中にぴったりと収まる身体は、まるで自分の為に拵えられたように妙にしっくりとくる。何はともあれ、起きたときの反応が楽しみで仕方がなかった。焦るだろうか、それとも恥じらうだろうか。
すうすうと気持ちよさそうに寝ている姿を見ながら考える。自分は彼女の体だけが欲しいのか違うのか。

変態だの軽蔑するだのと言うその同じ口で、尊敬しているとも言う。彼女の真意がが分からない。嫌われているわけではないが、心底好かれているわけでもない。なのにろくに飯を食べてないと言えば心配するしお節介も焼いてくる。嫌なら突き放せばいいのだ。なのに、彼女はそれをしない。嫌だと言いながら口吸いも受け入れる。それはとても心地良よく、ついつい癖になっていた。出来る事なら身体以外も欲しい。

「君は知らないだろうな」

自分から抱きたいと思ったのも、自ら口吸いを求めるのも彼女だからだ。他の女には誘われれば許してやるが自らすることはない。彼女は信じないかもしれないが事実た。まあ、その事に気付いたのもつい最近であるのだが。さらさらと流れる黒髪を撫でる。

「…じっくり時間をかけて惚れさせてやろうな、君」