そのに

今日も今日とて病理解剖室は忙しい。午前中に5件、午後から12件の手術があり、場合によっては同時に数件検体が運ばれたりするのだけど、それを少数精鋭で捌かなくてはならないのだ。最終判断は病理医だけど、そこに至るまでの前処理とか段取りとか判断材料集めは私のような検査技師が慌ただしく動く。ここだけに限らずどこの現場でも人手は足りないので甘えたことは言えないのだが、今目の前にいる上司にはどうしたって文句が言いたくなる。お前のような上司がいるか。

「ちょっと、鶯丸先生!お茶飲んでないで机の標本片付けてください!!」

「これから観る分だから片付けなくても問題はない。それより玉露の茶葉を知らないか?」

「どれだけ溜めたら気が済むんですか!お茶っ葉は標本の下に埋まってます!それから右に置いた検体は11時までに欲しいって外科から内線来てました!あと10分ですよ?!」

「そうか…まあ細かいことは気にするな。怒るとシワが増えるぞ?」

怒らせてるのは貴方です!と言えば鼻で笑われた。私の忠告も聞かず、のほほんとお茶を飲んでいるのが、この病理解剖室の主任であり敏腕病理医の我が上司。暇さえあればお茶をひたすら飲んでいるような普段はあまり仕事しない上司ではあるものの、やる時はやる、顔良し頭良しな男、それが鶯丸先生だ。でも普段の生活を見るに、全然納得がいかない。ここにも不平等を作りやがりましたか、神様。というかこの病院の医者の顔面偏差値の高さが異常なのは、何か理由があるのだろうか。

淹れた玉露を楽しみながら、漸く顕微鏡を覗き始めて数分。右にあった標本が次々に左側へ積み上げられ、患者別のファイルに診断名が記入されていく。細胞判断の速さはいつ見ても異常なくらい速い。普段もこれくらい動いてくれれば、もう少し私の手間が省けるのだけど。12時も過ぎる頃にはあれだけ積まれていた検体が綺麗に片付いていた。お見事。

「ふむ…こんなものか。これを届けに行きながら大包平と昼食を摂ってくる」

「了解です。13時までには帰って来てくださいね、午後の依頼が始まるので」

先生がいないと困りますと言えば、まるで母親のようだと笑われた。冗談はやめて下さい。私だってこんな大きくなってからも手がかかる子供はいらない。肩を揺らす鶯丸先生を見送ってから、私もいそいそと持ってきたお弁当を鞄から取り出す。しっかり食べておかないと午後から持たない。丁度部屋には1人だしせっかくだから温かくして食べたいなと、予算の少ない病理解剖室にある唯一の支給品、電子レンジを使うために席を外した。

「よっ!邪魔してるぜ」

「…ここは内科病棟ではないですよ、五条先生」

片手を上げて私を瞳に写した五条先生は、いい匂いだな、と手にしたお弁当を見て笑う。音がしなかったから余計にびっくりしたものの、その人物が五条先生だと分かるや否や、露骨に顔が歪む。よくもまあ、何事もなかったかのように話しかけられるな。人を目の前にして大変に失礼であることは分かっているが、これが顔を歪めずにいられるだろうか。私は無理だ。嫌だという気持ちを隠そうともしない私に対し、五条先生は面白そうに目を細めるだけ。あの目は嫌だ。蛇に睨まれた蛙の気持ちになるから。あの日以来徹底して避けて居たのにどうしてわざわざ内科病棟から遠く、しかも地下にある病理解剖室までやってきたのか。ここにくる時間があるなら、貴方の大好きな女性と過ごせばいいのに。3階のナースステーションにいる看護師さんなら、流し目さえ向ければわらわら飛んで来るよ。

「ははっ!君は俺に対して本当に感情を隠さないな。それだけ嫌がられるとは流石の俺も傷付く。毎日短い時間を使って君を探していた俺の身にもなってくれ」

「ご苦労様です。仕事してください」

「ああ、苦労したとも。病理解剖室の面々は滅多なことで病棟には来ないからな。何回か君を探して食堂を張ってたんだが、まさかお弁当派だったとは」

「ご用件は?」

「君と話がしたい」

「検体測定の依頼ですか?ならこの紙に必要項目を書いて下さい。休憩明けに確認します」

「人の気持ちを測定できる検査はないだろうか」

「ありません」

クスクスと笑う五条先生は、どう見たって仕事を持ってきたようには見えない。本当に遊びに来ただけなのか、鶯丸先生に用向きがあったのかは分からないが、今は昼休憩だ。彼には申し訳ないがこの時間に仕事をする趣味はないので、一言断ってから別のデスクでお弁当を広げたのだが。壁際のデスクを陣取った自分自身に溜息しか出ない。

「ほう?君は案外家庭的なんだな」

「…何で横に来るんですか。狭いです」

私が移動した場所まで、態々椅子を引っ張って来た五条先生は横からお弁当を覗いて感心したような声を出した。壁と五条先生に挟まれて、逃げ場がないと内心焦る。だからなぜ寄ってくるの。五条先生、ハウス!なんてことは言えないので、抗議するような視線を向ければ、肘をついた彼が、ん?と何でもないように首をかしげる。そのあざとさといったらない。その瞳は蜂蜜のように甘く蕩けそうだ。まあ、私に向けられても困るのだが。更に距離を詰めてきたので、これ以上ないほど壁に貼り付けば、五条先生は困ったように眉を下げた。

「君に1つ提案なんだが」

「…聞くだけ聞きましょう」

「ここに焼きそばパンが1つある。どうだろう、交換してはくれないか?」

「パンだけで午後過ごす気ですか?馬鹿なんですか?」

申し訳なさそうにスッと差し出されたのは食堂に売ってる2個で250円の焼きそばパンだった。炭水化物アンド炭水化物のこいつは確かに美味しいけれど、栄養素的には色々足りてない。まさかこんな食生活であの激務を乗り切ってるのではなかろうか。だから女子も羨む細さなの?思わず五条先生の顔を凝視する。今目の前にいるのは、患者と対面するときの、Dr.五条としての顔をした五条先生であるため、お節介心が右に左に揺れ動いた。

「まさか毎日このパンですか?」

「まぁ大体な。手術のヘルプ要請が来れば昼食の時間はないから、流し込めるものになっているのは確かだ」

「体調管理は医療従事者として基本では?」

「医者の不養生という諺を知ってるかい?まさに俺らはそれさ。でも君はその辺はしっかりしているんだな。親御さんの教育が良いんだろう」

感心感心と頷く五条先生。動きに合わせてさらさらと銀髪が揺れる。やめろ撫でるな。その笑みにはあの時みたいな艶めきはない。こっちの五条先生の方が断然好みなんだけど、私の中にあるクズ男レーダーが警告を発し、きっとこれも彼の作戦のうちだと囁く。騙されるな、自分。だからこれはあくまで今日の午後を乗り切らせるためであって、決して絆されたからではない。

「…交換は出来ませんけど、半分あげますよ。パンはご自身でどうぞ。ちょっと待っててください」

「いいのか?君の昼飯だろう?」

びっくりを顔に貼り付けた五条先生を残して紙皿と割り箸を取りに行く。何だその意外そうな顔は。ひもじい思いをする人を目の前にして、そこまで冷たくする人間になった覚えはない。

「元々多めに詰めているので。勘違いしないで欲しいんですけど、今回だけですからね。寄って来る女性の中からさっさと家庭的な人を探してくっついちゃってください」

「ははっ!面白いことを言う。そもそも結婚なんてもので身を固めたら自由もないし、窮屈すぎて心が死んじまう。そうなったら生きている意味がない。まあ、今は専ら君に興味があるんだがな」

「面白い冗談ですね、何かアレルギーはありますか?」

「さらっと流したな…ここまでの塩対応は想定してなかったが、まあいいか。不味いもの以外にアレルギーはない」

不味いものアレルギーって、それもどうなの。取り敢えず卵焼きとか里芋の煮物とかサラダとか、彼が好みそうなものを見繕って皿に乗せてやってからふと気付いた。確かこの人、他人が作ったものは食べないんじゃなかったか。バレンタインの日、院内のゴミ箱に大量にチョコレートが捨ててあったと掃除のおばちゃんが話してた気がする。やっばい、しくった。ちらっと横目で確認すれば、それまでニンマリだった五条先生の顔から表情が消えていた。あ、これ地雷踏んだやつ。

「…毒は入ってないんで。もしあれなら捨ててもいいですよ」

「いや、流石に作った人の前で捨てるわけないだろう」

「見てなかったら捨てるんですね」

「…」

「冗談ですよー。ほら、さっさと食べるか戻るかしてください。いつまでもここに居ると鶯丸先生のお茶会に招待されます」

百面相したまま無言でお皿に乗ったおかずを見たままの五条先生を尻目に、残ったお弁当をもぐもぐする。食べる気がないのに弁当を交換してくれとはこれいかに。何がしたいのか分からない。きっと彼は悪いと思いながらも、私がこれを片付けに席を立った後捨てるだろう。いや、そもそも悪いなんて思わないかもしれない。けれど今日の卵焼きは中々の自信作だから、勿体ない上に捨てられるのは何となく癪だ。分けてやったんだから一口ぐらい食べてもらわないと腹が立つ。

「五条先生」

「なん、…んぐ!」

自分の箸を使って彼の薄く開いた唇の切れ目に、程よい味のだし巻き卵を押し込む。テラテラ光るその口で何人の女を落としたんですかね。まさか私がそんな暴挙に出るとは思わなかったのか、彼は間抜けな声を出しつつも吐き出すことはしなかった。

「はい、一口食べたんであとは捨てていいですよ。私、検体の処理があるんで先に失礼しますね」

じゃっ!と逃げるようにお弁当を片付けて、測定室に飛び込む。マイ箸で食べさせるって、どこのカップルだ。間接キスじゃねえか!今更冷静になって何であんなことしたんだと頭を抱えたけど、後の祭りだ。私何してんの、恋人いる(嘘)って言った手前、考えて行動しないと自分の首が締まるじゃないか。いや、でも相手の嫌がることをしたって点においては、嫌われポイント高いのか?そんな事ばかりぐるぐると考えていたから、五条先生が測定室に入ってきたことに全く気付かなかった。

「無理やりとは全く酷い…食べたくもない料理を食べたんだ。口直しが必要だと思わないか?勿論君で」

「ひっ!」

耳元で吐息とともに囁かれた言葉。意図的に低くしているのかお腹に響くような重低音が耳朶を打ち、喉から引きつったような声が漏れた。出たよ、暗くなると惜しみなく放出される色気が。日光の加減で人が変わるのかと思うくらい、五条先生の変化は激しい。測定室は検体変性を防ぐために暗くされているのだけれど、彼の色気放出調整は人工的な暗さでも対応できるらしい。無抵抗のまま、後ろからするりと回された手が、お腹と首元を其々這う。お腹を這っていた彼の左手が私の両手を掴み、顎に到達した彼の右手が顎を掴んで強制的に上を向かされる。暗い部屋の中、冷たく光る琥珀色に射抜かれて、何を感じたのか全身に鳥肌がたった。甘いような蔑むような彼の視線が嫌で、拘束を解こうと身を捩るけれど、細めの体格をしつつやっぱり力は男性らしい。グッと難なく押さえ込まれしまい、ただただ逆さに映る五条先生を睨むことしかできなかった。まるで恋人にするように、すりっと鼻が擦り合わされる。

「ああ、いいな…君のその顔。ゾクゾクする」

「…離してください」

「ここまで迫られても流されないとは天晴れだが、逆効果だな。その分思いっきり歪ませたくなるんだ」

少し息を荒くして自身の唇を下で湿らせながら、うっとりと、さっきよりも満足げに細くなった瞳。それがゆっくりと近付いて、逆さまに唇が重なった。ふにっと、柔らかい弾力で押されたかと思えば、水分を分け合うように舐められ、すぐに啄ばまれる。ちゅっと、少し粘るような水音が、小刻みに震える機械の音に混ざって聞こえた。思わず鼻にかかったような声が溢せば、五条先生はもっとと言うように深く食んで来たから、これ以上喜ばせるわけにはいかない。せめてもの抵抗で目を開けたままでいるけど。早くも後悔している。だって五条先生も目を細めるだけで閉じてない。どこまで持つかな、と目が笑い、顔を背けようにも固定されている。こんな至近距離で美人と目があっても、恥ずかしくない。そう思うしかない。早く飽きさせるには反応を薄くして雰囲気に乗せられないようにした。私はマグロ、マグロになるんだ。

衣摺れの度にむせ返る香水で気が狂いそうだ。束の間に行う必死の抵抗は相変わらず無い物にされ、動けない代わりに唇を硬く閉じ、これ以上の侵入を拒否しながら、早く終われと強く願う。そうして私の感覚的に15分は立っただろうか。いい加減、鼻呼吸も辛い。五条先生はこの進まない状態に漸く諦めたのか、ゆっくりと顔を離した。とは言っても、まだ存分に近く背伸びをしようものなら唇が触れ合う。はぁ、と生暖かい呼気が唇に掛かかった。

「…強情だな。空気を読んで舌くらい入れさせてくれ」

「離してください」

「断る。折角捕まえたんだ、もう少し楽しませてくれ。だか、そうだなぁ…君からしてみるかい?そうしたら気が変わるかもしれん」

「お断りします」

「それは残念だ。しかし悪い子だなぁ…恋人以外と、こんなことをするとは」

軽蔑と、してやったりが混ざった笑み。少し体を震わせればそれが動揺だと思ったのか、君は悪くないんだと慰めるようにするりと撫でられる頬。だが残念だったな!その震えは怒りだ。私が五条先生とキスしたことで悲しむ人間はいないのである。それよりも、彼の手が顔から離れる一瞬を見逃さなかった。

「いい加減に、してっ!!!」

動ければこちらのものとばかりに、大きく頭を振って頭突きをお見舞いする。ごっちん、といい音と五条先生の呻き声。私が背伸びしたのも相まって、運良く彼の顔にあったようだ。衝撃で鼻でも曲がればいいと思う。その代わり私も後頭部に被害を被ったけれど、あのまま望みもしないのになし崩し的に襲われるよりはマシだ。

「君なあっ?!」

「調子に乗らないでください!!キスなんて外国じゃ挨拶だよ、バーカ!!」

雪みたいな肌の中心に、真っ赤なバラが咲いている。鼻を抑える五条先生の顔に、さらに近くにあったキムワイプの箱を投げつけて魔の手が伸びる前に逃げ出した。私、この前から逃げてばっかりだけど、あれは彼が悪い。絶対に謝ってやるもんか。

「クズやろー!!」

泣き叫びながら廊下を走る私を、数人が白い目で見てたけど今はそれどころではない。女子トイレに駆け込んでめっちゃ口を洗った。鏡に映る自分の顔は怒りと羞恥で茹で蛸もびっくりするほどの真っ赤である。海老の甲羅の赤、アスタキサンチンの色だ。そんなことはどうでもいいんだ。私は混乱している。というか何、あの柔らかさは。マシュマロ?それに舐めるって…まて、考えるのは止めよう。柔らかさとか暖かさとか何も感じなかった。いい匂いだなんて思ってない。それでも無意識のうちに、自分の唇を触っていることに気づいて、恥ずかしさに倒れそうになる。

「もー!!なんなの!彼氏いるって言ったじゃん!!馬鹿なの?!めんどいの嫌いなはずじゃん!馬鹿やろー!」

純情な乙女心を弄ばないでほしい。落ち着け自分。キスなんて海外じゃ普通だ。私にキスして、なんて看板持って通りに立てば、みんなしてくれるくらいには挨拶として定着してる、はず。意識したら負けだし腫れたら最後、痛い目見るに決まってる。けれどこんな顔では部屋に戻れない。赤みが引く前に戻ったら確実に鶯丸先生に何か言われる。涙は出ないけれど心臓と気持ちが落ち着くまでは、トイレの個室に篭ることにした。




「ここはホテルではないぞ、鶴丸」

「覗き見か?悪趣味だな」

女が逃げるようにして病理解剖室を飛び出したのと入れ替わるように帰ってきた鶯丸は、床に転がるキムワイプと鼻を抑える国永を見て、何があったのかを大体悟ったらしい。旧知の友というのはこういう時に厄介である。相変わらず手が早いな、と言われたが流すことにした。

「しかし口吸いだけで攻めあぐねているとは、お前にしては珍しい。これと決めたら、がっついていただろう?」

「おいおい、しっかりご覧になっているじゃないか。それに君は俺を獣か何かと勘違いしてないか?俺だって嫌がる女を無理やり抱いたりはしない」

「そうだったか?」

「嫌がるそぶりか本気で嫌がっているかの区別ぐらいつくさ」

「つまりは本気で嫌がられたと」

「…今日は当たりがきついな。別にお前の女でもなかろうに」

「可愛い部下ではある。あれは見た目以上にじゃじゃ馬でな。誠実さが全くないお前では扱いきれんだろう」

「そうでもないさ。口吸いで顔を赤くして逃げ出すくらいには俺を意識しているようだ」

「ほう?」

「恋人がいるってのは嘘か、もしくはその御仁と随分ご無沙汰であるかのどちらかだ。じゃなきゃあれくらいで顔を真っ赤にするはずが無い。そんな彼女には驚きが必要だよなぁ?」

キムワイプで鼻を抑えた国永は、よっこらしょと立ち上がった。鶯丸の心配そうな視線もなんのその、これで一層鶴らしいだろう、と笑ってみせる。今回も逃げられてしまったが、一歩は進んだ。にしても、やはり彼女とは相性がいいらしい。自らキスをしたくなったのも、貪りたいと思ったのも久方ぶりである。それを踏まえても、これからのことを考えると自然と口角が上がった。色気が微塵もない彼女は、あれでいてそう言う雰囲気に持ち込んだ時に見られる初々しさに中々そそるものがある。生意気な口を塞ぎ、より一層、自分に歪められる表情が見たくなった。

1人悪い顔を浮かべる国永見て、鶯丸は溜息をついた。こうなった国永は誰にも止められない。彼には時々、特定の女を欲しがる時期がある。目を付けられたら最後、様々な手を使って落とされ、心が完全に国永に向いた途端、興味が無くなり簡単に捨てていくのだ。それに心を痛めることもなければ、飽きたのだから当然だと笑う。あの頃から変わらない。国永はそういう男である。

「此処を辞められては困るぞ」

「その辺りはまあ、なるようになるさ。もし彼女が辞めちまったら穴埋めはする」

「お前のお手つきが来られても困るんだがな」

「そう言うな。腕は確かなのを選ぶさ」

標的を変える気は一切ないらしい。彼女の仕事は早く、鶯丸自身も彼女の働きで楽をさせて貰っていることもあり、出来れば痴情のもつれのち退社、なんて流れにはなってほしくないのが正直なところである。何より、勝手が分かる人間がいなくなると鶯丸が茶を飲む時間が減る。それが最も懸念している死活問題であった。はぁ、と大袈裟に溜息を吐いてもう一度国永を見る。その手に苦手とする他人の料理が乗った皿があることに気付いて、3度見した。半分に切られた卵焼き。それはどう見たって食べかけである。

「食べたのか?」

「ん?あぁ…せっかくもらった手前、後で分からんように捨てようと思ったんだがな。一口だけ食えと食べさせられた」

腹いせのつもりだったのだろう。隙を狙って無理やり入れられたものの、舌の上を転がる卵焼きの味はきっと悪くなかった。国永にとって手作りを食べるというのは拷問でもある。女の手料理というだけで気持ち悪く感じ、時には戻すこともあるためあまり胃に入れたくないのだが、今の所胃の運動は正常で戻ってくるような気配はなかった。

「そうか。美味かったろう?」

「まぁ不味くはなかった、か…っておい、お前まさか食べたことがあるのか?」

「花見の時期にチームのお花見があってな。病理解剖はそんなに予算を回してもらえないだろう?そこに白羽の矢が立ったのが彼女だ」

上司直々に頼まれて仕舞えば、嫌々ながらも断ることはない彼女は、見事お花見弁当をお重箱に入れて持ってきたらしい。その出来と味は下手なコンビニ弁当より美味しかったのだとか。その話を聞くたびに、段々と国永の眉間に皺がよる。

「予算って…お前が殆ど茶葉に使っているだけだろう。可哀想に」

「ははは。彼女には内緒にしてくれ」

バレたか、と笑いながらも鶯丸は己の行動を改める気はないようだ。それはまあ、他人のチームであるし国永が口を出すことではない。しかし何だかどうにも、彼女に対してはすっきりしない方が多いのだ。簡単にその肢体を抱けないことも1つの原因だろうか。こういう時は気の済むまで女を抱くに限る。誰か手頃な相手はいただろうかと今日の夜勤メンバーを思い浮かべた。

「今時珍しく和食が得意らしい。たまに横から拝借するが、俺は卵焼きが気に入っている」

まだ彼女の話は続いていたらしい。羨ましいだろう、とでもいうように、鶯丸から場違いな自慢をされて国永は眉を潜めた。手料理の何処がいいのかさっぱり分からないが、誰彼構わず料理を振舞っている彼女にも確かに腹が立つ。根っからのお節介焼きなのか単に優しいだけなのか。彼女にとって自分は特別でもなんでもなく、むしろ興味がない部類にいるのは、全くもって面白くない。ニヤニヤと見てくる鶯丸を睨めば、怖い怖いと肩を竦められた。国永は眉間に皺を寄せたまま、苛立ちをぶつけるように彼女が取り分けたおかずをゴミ箱にぶちまける。

「…捨てるのは構わないが、生ゴミは分けて欲しいものだ。虫が出たらどうする」

「燃やせば同じだろう。それに虫なんて何処にでもいる」

ゴミ箱の底に叩きつけられ形を失ったおかずを冷たく見下ろす。捨ててもいいと言っていた彼女は、これを見て悲しむだろうか。それとも怒るだろうか。何にせよ、接触の機会が増えるのであれば国永にとっては願ったり叶ったりなのだが。

「あの子が怖がるのでな。そんなに欲しいなら優しくしてやるといい」

「ははっ!あれだけ俺に対して強く出られるのに虫が怖いのか。優しくなあ…それはいいことを聞いた」

するり逃げてばかりの彼女は、今まで自分の周りにいたような肉欲の塊とは勝手が違うと分かった。直接的に責められるのは苦手らしい。純情ぶっているのもどうかと思うが、その設定に付き合うとしよう。攻め方を変えねば落ちる城も落ちない。優しさに弱いのであれば存分に甘やかしてやることに決めた。偽りの優しさなど、国永にとっては息をすることと同じくらい簡単なことであった。部屋を出て行く瞬間、白衣を翻した彼の顔には誠実さのかけらもなかった。

「さて、鶯丸。これからも色々と協力願おう」