理解するにも意思は必要で
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熱心に何かを書き写す背中に声をかける。一瞬だけ、忙しなく揺れていた羽が止まった気がしたが、やっぱり気のせいだったらしい。既に出来ていた本の山が、また高くなった。積み上がる本は、極東のものから神話に至るまで様々だ。背表紙に書かれているものが、文字なのかすら怪しいものまである。
「先に休んでくれて構わない。私のことは気にしないでくれ」
素っ気なく返される言葉。晴れ渡る青空を切り取ったような瞳は、一度もこちらを向く事はない。ずっとそうだ。この人と結ばれることになったあの日から、変わらないこと。
きっとこの先も、彼が私を見てくれることなどないのだろう。
その人には、私よりもずっとずっと大事な人がいる。ただ、それだけのこと。
物言わぬ背中におやすみなさいと声をかけ、重苦しい扉を閉める。そうすれば、私と彼の世界は完全に隔てられる。足元から這い上がる冷たさから逃げるように、最早自室と言っても過言ではない寝室に逃げ込んだ。
別に好きあって結ばれたわけじゃない。世間一般の、今の時代にとっては常識的な、生まれの階級にさらに箔をつけるための結婚だ。そこにあるのは両家の打算的な思惑だけ。
それでも、初めてあった時、凛々しい表情で絵を描く彼を、素敵だと思った。筆が生きてるみたいに動いて、さらさらと白いキャンバスに色を乗せていく。そこに描かれる景色は現実のものと相違ないはずなのに、別の世界に足を踏み入れたような、不思議な魅力があった。まるで、その土地に生きるエネルギーを写し取ったかのような世界。
彼の目には、世界がこう見えるのかと感動したし、同じものを見たいとも思った。
だからこそ、縁談の話が舞い込んできた時、密かに歓喜した。彼が受けてくれた時はもっと。それ以上を望むのは間違いなのかもしれない。
こんこんと、最近出るようになった咳を吐き出して、ぎゅうっと枕を握る。温度のない部屋が寂しいだなんて今更だ。
彼も最初に言っていたではないか。自分にはやるべきことがあると。それをやり抜くまでは何も期待しないで欲しい。まともな夫婦生活を望むならこの婚姻は辞退してくれ。
それでもいいと、納得して頷いたのは私自身だ。
今思えば、あれは彼なりの優しさだったのだろう。不自由な生活はさせないが、幸せとは程遠い生活になるだろうと、一種の警告でもあったのだ。
でもどこかで、いつかを期待してる自分がいた。いつかは普通の夫婦のように、寄り添っていけるはずだと、ありもしない未来を夢に見た。今でもまだ、少し期待をしている。
それはきっと来る事はないと知っている。
結婚して十数年。未だに、夫婦生活とは程遠い生活を送っている。
彼のやりたいことが何かなんて、いまだに分からない。
それでも、傍目から見れば彼は良くできた夫で、私は彼を支える良き妻に見えるらしい。社交界に出れば決まって羨ましいわ、妻の鏡ね、などと、嘘か本当かも分からない世辞をもらい、褒めそやされる。世継ぎを望む声は何年強くなる一方で、その話題が出る度に必死で歪みそうになる表情を取り繕った。
そもそも夫婦とは言えない生活をしているのに、世継ぎなんて夢のまた夢だ。彼にはその気は微塵もないのだから。
ここ数年は、夢中になっている研究とやらに拍車がかかり、彼があの部屋から出で来る事は滅多にない。ここ数ヶ月は食事すら共に取っていなかった。
彼の顔をちゃんと見たのは、いつが最後だっただろうか。
寂しさに付け入るように、段々と咳は悪化した。最近では微熱も続いていて、身体を動かすのも億劫だ。
最初は風邪をこじらせたけだと言えば見守ってくれていた使用人も、流石に数ヶ月も続く咳を放っておくはずもなかった。
脇目も振らず研究に没頭している間に、隠れるようにして診察を受けた。聴診器を当てながら、主治医は硬い表情を浮かべる。それだけで、自分の行く末なんて簡単に理解できた。
「肺を患っておいでです」
「そうですか」
「咳止めの薬を出しながら療養しましょう。できれば空気の良い場所で」
「いえ。このままで」
「ですが…」
「薬は頂けるのですよね?でしたら大丈夫です」
彼には言わないように伝えると、益々渋い顔をされる。心の準備ができたら自分から話すと言えば、とりあえずは様子をみましょうと一旦は引いてくれた。
心の準備できたらなんて言ったけれど、準備ができる日なんてこない。今までも夫の手を煩わせない妻であったのだ。最期までそうありたかった。
それに、咳は彼にとって思い出したくもない記憶だろう。せっかく研究の糸口を見つけたと喜んでいたのに、それに水を刺すような事はしなくなかった。
この頃には、彼は更に研究に精を出すようになった。霊魂学というものにこの研究の先を見出したようで、屋敷を空けることもしばしば。お陰で彼に知られることなく、診察を受けることができている。
今回も魔女の伝承が残る地方の廃村に出かけるようで、不在期間が少し長くなると声高らかに言われた。
久方ぶりにちゃんと見た彼は、とても輝いていた。瞳は相変わらず綺麗な空色で、余程楽しみなのか喜色が浮かんでいる。
「もう直ぐだ。もう少しで、私の願いが形になる。完成したら、君に一番見せよう」
「、楽しみにしていますね」
私の返答に満足げに頷くと、大きなトランクを持って馬車に乗り込む。咳を押し殺しながらその姿を見送った。
次に会う時、まだ私は元気でいるだろうか。それだけが、不安だ。
「……ジョゼフ様」
伽藍堂の部屋に、愛しい人の名を零す。
もう声になっているのかさえ、今の私には分からない。ただ空虚を見つめて、じっとその時が来るのを待っていた。
目尻から、暖かいものが一筋、零れ落ちた。
もし別の時代に出会っていたら、貴方は私を見てくれたのだろうか。
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