廊下が急に騒がしくなった。
ずっと本へ落としていた視線を何となく上げてみる。薄い磨りガラスの向こうに、見慣れた白と黒が見えた。弱い術師が如何だ、術式が何だと騒ぐ白と、その言葉にやや同意を示しながらも諌める黒。五条悟と夏油傑。最強と謳われる2人組の言い合いは、この半年間の中で見慣れた光景でもあった。今年の一年はとても豊作だと先生は喜んでいたけれど、静かだった学生生活がちょっとだけ懐かしい。
騒がしいのはあまり好きじゃない。このまま気付かずに通り過ぎてくれないかな、なんて思いながら身体を縮こませる。それでも、何でも見通せる六眼の前では何の意味もなかった。
「で、センパイはいつまで呪術師やってんの?」
「…悟、せめて形だけでも礼儀を見せたほうがいい」
ぎろりと、ガラス玉のような青い瞳が向けられる。その後ろで、夏油くんは肩をすくめた。能力的には確かに彼の方が上だ。しかし仮にも先輩に向かってその横柄な態度はどうなんだろう。私には構わないけど、確かにもうちょっと礼儀を覚えた方がいいよ、なんて言えたらどんなに楽か。まあ、教える気もないけど。
術式上、呪いだけでなく感情や言葉というものを喰べてしまう私に、反論の余地はない。必要時以外は術式発動防止機能が施された面紗で口元を隠しているため、意思疎通は基本的に筆談かICレコーダーに頼っていて、誰かと言葉を交わす事はあまりなかった。取り敢えず、にこっと笑っておく。
そんな態度も気に入らないのだろう。五条くんは益々眉間に皺を寄せる。
「ねえ、何か喋ってよ、センパイ」
『夜蛾先生が呼んでたよ』
メモ帳の隅に、サラサラと文字を書く。それがやっぱり気に食わなかったのか、彼は盛大な舌打ちをした後、ガタンと椅子を蹴って教室を出て行った。倒れた椅子を直す役目は夏油くんらしい。仕方ないな、とでも言うように小さなため息をついて、大きな手で椅子の背もたれを掴んだ。柔和な笑みが向けられる。硝子ちゃんに言わせれば胡散臭いらしいけれど、既に騙されているのか私の中では好青年という印象であった。
「悟がすみません」
『気にしてないよ。五条くんの言いたいことも解るし。夏油くんも大変だね』
「普段は扱いやすいので慣れました。瀬波先輩は何を読んでいたんですか?」
“美味しい家庭菜園”という表紙を見せる。彼は、何故そんなものを、とばかりに目を見開いた。
何と言われようとかまわない。任務と学生業の合間に、自分で野菜や果物を育てることが趣味なのだ。この術式のせいであまりで歩かないし、暇つぶしにも丁度いい。
「畑でも作っているんですか?」
頷く。ぱらぱらとページを捲って、苺とトマトの項目を指差して、両手で丸を作る。それだけで何となく分かってくれたみたいだ。美味しくできるといいですね、と笑ってくれた。本当は西瓜も作ってみたいだけど、それにはちょっと時間と土地が足りない。
『美味しく出来たら夏油くんも食べる?』
「いえ。遠慮しておきます」
『そっか』
心底どうでも良さそうだけど、建前として言葉をくれるのは素直に嬉しい。期待してなかったから、答えは別に何でも良かった。元々、自分が食べる分だけしか作れないし、自己満足のために作っていたようなものだから。
『じゃあ代わりにこれあげる』
「……飴玉?」
『“喰べる”仲間同士、お近づきのしるしに』
ころん、と机に置いた小さな飴玉。口直しにどうぞ、と伝えれば、夏油くんはやっぱり意外そうに目を開いて、徐に笑った。五条くんならともかく、夏油くんに飴玉はちょっと似合わないかもしれない。
「瀬波先輩には丁度いい口直しかもしれないですね」
『馬鹿にしてる?』
「女の子らしくていいと思いますよ」
言葉とは裏腹に、絶対馬鹿にされている。お世辞と本音が分からないほど子供じゃない。摘ままれてポケットに入れられたそれはきっと、五条くんのおやつになるんだろう。
「すーぐーるー!!!」
何処かで五条くんが夏油くんを呼ぶ。
それが、彼と初めて言葉を交わした日だった。