「あ!瀬波先輩!!」
手を振る灰原くんに、犬の耳と尻尾が見えるのは私だけではないはずだ。彼はいつもあんな感じです、と隣に立つ七海くんが抑揚なく言った。
今日は二個下の後輩の引率である。若さとエネルギー溢れる二人を見て、頬が緩んだ。
監督補佐官(仮)として実地研修を積んで半年、漸くこの仕事が何たるかが分かってきたところだ。思っていたよりも大変で、臨機応変さが求められる。まだ指導員付きではあるものの、それなりに1人でこなせるようになった。発動防止の術式を組み込んだ面紗のおかげで、こうして人前で話せるようになったのも大きな進歩だ。
車を運転しながら、今回の任務を説明する。内容的には二級相当の呪霊討伐なので、2人なら難なく熟せるはずなのに、説明の途中で一抹の不安が過った。こういう予感はあんまり好きじゃない。
「瀬波さん?」
不自然に止まった説明に、七海くんが疑問を示す。任務前に不安にさせるのは得策ではない。先輩にも睨まれてしまった。
「…あ、すみません。えと、いつも言っていますが、自分の手に負えないと思ったら即撤退をお願いします。貴方たちはまだ高校生。無理をする必要は微塵もないので」
果たして、私の不安は的中した。不幸中の幸いだったのは、先輩に頼み込んでこっそり後輩の後を付けていたからこそ、対策が早く打てたことだ。
後ろをついていきながら周りを調べるうち、ここの呪霊は一級相当のものと判明した。産土神信仰から生まれた、神に近い呪霊。至急、指導員から高専へ一級呪術師の派遣を要請してもらう。
上層部の、術式至上主義は本当に嫌だ。未登録や未知の呪霊に対して、その調査と認識が甘すぎる。術式がないから二級呪霊なんて、手抜きもいいところだ。
腐っても神である呪いを前にして、2人の動きは悪くない。冷静に物事が判断できる七海くんも、向上心溢れる灰原くんも、どっちも正解で間違ってる。
あぁ、準一級試験受かってて本当に良かった。若い芽を摘まなくて済みそうだ。
「七海くん、灰原くん!撤退してください!」
「え、先輩?!」
「相手は一級相当。あなた方では荷が重すぎる」
重い呪力の攻撃を何とか躱しながら、撤退を誘導する。それでも代わりの呪術師が来るまでは持ち堪える必要があった。何とか其々防衛戦を繰り広げながらも、撤退ラインギリギリを維持する。
「この呪霊、さっきよりも強くなっていませんか?」
「俺もそう思う!」
「……この場所のせいですね。ここの土地柄的に呪いが集まりやすいので」
急速に呪いを集めて成長しているらしい。体力的にも呪力的にも、これ以上強くなられては困る。ほぼ全力を出した三人がかりでやっと、均衡を保っているのだ。
「…七海くん、灰原くん。廃人になりたくなければ私より前に出ないでね」
「瀬波先輩、ダメです!確かに俺らよりは強いかもしれないですが、1人じゃ…!」
「うん、だから協力してね。呪霊が一瞬弱まったら、2人で叩いて。それで時間稼ごう」
「無茶を言う人だ」
文句を言いつつも協力はしてくれるらしい。
防衛線に沿って簡易結界を張り、面紗を取る。
この呪霊には目がない。対象の名前が分からない以上、範囲を指定して“喰べる“しかないのだ。それでも3割くらいなら、全力を削げるはず。呪霊が強い分、なりふり構ってはいられなかった。
接近戦は好きじゃない。それでも、呪霊にとって私たちは、久方ぶりに会えた信者になり得る存在。逃してはくれないだろう。
一歩前に出る。私を認識した呪霊が、嬉しそうにする。彼らに感情があるのかは分からないけど、何となくそう感じた。
「“頂きます“」
「あ、なまえさん、起きたね」
眩しさに数回瞬きをする。気怠けな硝子ちゃんがぬっと現れて、ぺたぺたと頬に触れた。うん、生きてる。起き上がれないけど。
「任務は最強のクズが引き継いだよ。あと後輩2人は何とか無事。まあ…生きてはいるよ」
私の言わんとする事を読み取って、欲しい情報をくれる。後輩たちが生きてくれていることに、ほっとした。
私の咀嚼は、本当に僅かな効果しか生まなかった。未確定の呪霊のとは本当に相性が悪い。重く痛々しい呪力をぶつけられて、踏ん張りが効かずに吹っ飛ばされる。最後に見たのは、灰原くんが血溜まりに沈む姿だったから。
渡されたノートにすらすらと文字を書く。
『灰原くんは?』
「出来るところは治した。でも浸食されててね。腕一本犠牲ってところ」
『でも生きてるんだよね?』
「命はあるよ、術師としては復帰は難しそうだけどね。まあ、元気になったら顔見に行きな」
うん、と頷いて目を閉じる。今になって、目の奥が熱くなってきた。ぐずぐずと泣き出した私に、硝子ちゃんが何も言わずティッシュをくれる。しゃくり上げた時、乱暴に扉が開けられて更に吃驚した。
入り口には夏油くんが立っていて、少し早足でベットに向かってくる。私の目が真っ赤になってるの見て、何か勘違いしたのか、鋭い視線で硝子ちゃんを見た。
「もう少し静かに入ってきてくんない?」
「……硝子」
「お前じゃあるまいし、何もしてねぇよ」
失礼なやつだな、と彼女は心底うざそうな顔をした。
「まあいいや。私は後輩の様子でも見てくるから。夏油、変なことすんなよ」
「悟じゃあるまいし、何もしないさ」
「どうだか。じゃあなまえさん、何かあったらそこのナースコール押してね」
ヒラヒラと片手を振って、彼女は病室を出て行った。
私が泣いていたからなのか、夏油くんの顔はちょっと怖い。硝子ちゃんがいじめる訳ないのに。先輩としての威厳はとうの昔に無くなったから、タメ口だけど。
「怪我は本当に大丈夫かい?痛いところとかして欲しいことがあったら遠慮なく言って」
『大丈夫。ほっとして泣いちゃっただけ』
「……心配した」
『うん、ごめんね』
彼はパイプ椅子を持ってきてそこに座る。表情は暗かった。本当に心配させてしまったみたい。後輩も充分に守れなかったし、一番心配させてるし先輩として申し訳ない。
メモ帳に添えていた手が、痛いほど握られた。今回のことは上の不注意だから、夏油くんが責任を感じる必要なんてない。彼は優しすぎるのだ。だから、理想と現実の乖離で苦しくなってしまう。私の怪我は私の責任。私が弱い所為。そういう風に割り切れたら、もう少し生きやすいのに。
個人ができることなんて限られてるし、私たちはまだ学生だ。目の前のことを精一杯、そうして進んでいくしかない。全部背負おうとしないで。
そう伝えても、きっと彼は悩んでしまうのだろうけど。
『ねえ、夏油くん』
「…ん?」
『キスする?』
「こんな時に何言ってるんだ」
『夏油くんを元気付ける方法が他に思いつかないから』
少し驚いてから力無く笑って、手を握り直してくれた。指先が少し震えていたのは気のせいじゃない。肩で息を吐く。苦しさの中から絞り出したような声が、病室に落ちた。
「……生きていてくれるだけでいい。何かあったら私を呼んで。なまえさんを守るくらいはできるから」
『うん。心配かけてごめんね』
「でもキスはしようか。なまえさんからの誘ってくれるの久しぶりだから断るのもね」
『え、冗談くらい私も言うよ』
「でもその身体だと起きること自体大変そうだね。仕方ない…私が動こう。なまえさんは寝ててくれていいよ」
『ちょっと待って、一人でどんどん先に進まないで。どれだけ好きなの、キス』
「そうだな…」
態とらしく、顎に手を当てて考える。さっきまで澱んでいた感情が少し薄れて、笑い声も少し大きくなった。五条くんと悪戯をするときの、あの悪い顔になっている。
「なまえさんが思っているよりもずっと、溺れるくらいには」
頭上に影が落ちる。冷たかった唇がすぐに熱くなった。何度も確かめるように呼吸が触れて、熱を交換する。彼も私もまだこの世界にいる、それを実感して安心した。何の生産性もないこの行為を拠り所にしているのは、何も夏油くんだけじゃない。
こんなところ硝子ちゃんが見たら何て言うだろうか。依存だと呆れられるだろうか。
怪我のせいか、直ぐに息が上がってしまう。与えられる短い息継ぎでは、十分な酸素が吸えなくて頭がくらくらした。それなのに彼は休みなく触れては、私の抵抗をやんわりと抑える。顔を逸らして終わりの意を伝えても、悪びれもせずに頬にキスを落とすのだから反省はしていないらしい。
「…っ、」
「あぁ、ごめんね。苦しかった?」
『怪我人なのでもう少し労ってくれると嬉しいです』