ひょこひょこと片足を不自由に動かしながら、獣の姿を取った結加理は諸伏──いや、スコッチを見上げる。
「どうしたんだ、怪我か? 珍しいな。……無理はするなよ」
獣の姿で負った傷はたちどころに治る。しかし人の姿で負った傷は、例え獣の姿になろうとも治るわけではない。そして獣の姿であろうとも日中に追った傷は人の姿の時同様全く治らずに残る。
心配をにじませた眼差しを受けながら、結加理はふと数年前の出来事を思い出していた。そういえば
あの時もそうだったな、と。
■
──数年前、十一月七日。
同時に二か所、爆弾が仕掛けられていた。その解体に当たっているのが結加理も良く知る人物。大学時代の後輩である萩原、その友人の松田である。
結加理がそれを知ったのは、良すぎる聴力のせいだった。いや、今回ばかりは「おかげ」と言うべきか。
本来ならば結加理にとって特別に何かがある日では無かった。だが何をするにも気がそぞろになってしまう。
第六感が危機を告げていたのだ。己か、己にとって大切な者に良からぬ事象が迫っていると。だから、結加理は滅多に町中などに足を運ばないというのに、何かに駆られるように外出を選んだ。
そうして、聞こえてきたのが不安を口々に零す住民たちの言葉と警察官たちの重々しい会話。
──制限時間内での爆弾解体はおそらく間に合わない。悔しいが犯人の要求を呑む他ない。
──くそっ!
──爆弾のタイマーはまだ動いています……犯人さん! 見ていますか! 爆弾を、タイマーを止めてください!
──なんだよ爆弾ってぇ! ふざけんな!
──皆さん! 慌てないでください! 落ち着いて移動してください! 速やかに避難を!
──馬鹿な警察どもには、解体できやしない。どうせこっちの要求を呑むだろうさ。
──たった今情報が入りました! 爆弾が一つ無事に解体されたということです! 残る爆弾は一つ!
──警察の対応としては……
全てを聞き取ることなど出来はしないが、耳に入ってくる膨大な音の情報から必要な物を探し出す。膨大過ぎて処理しきれずに襲ってくる頭痛。そしてその内容に吐き気がする。
爆弾を仕掛けた人物の会話、対応に追われる警察官たちの声、マスコミの大騒ぎ具合。
現状は、全てにおいて最悪だった。
(……何なんだマスコミは。こんな情報を、ここまで詳細に流す必要はないだろ。犯人の味方でもしたいのかふざけるな)
苛立ちに顔が歪む。背筋に走る悪寒が全く消えない。妙な緊張感と不快感に肌が粟立つ。全く落ち着けず、自身の持つ携帯端末の表示画面を点灯させては消す。神経質なその動作には焦りが滲んでいた。
条件を呑むということが、どれほど屈辱的な事なのか。結加理には想像するしかない。しかし聞こえた限りでは相当なのではないだろうか。
──第一現場爆発物処理完了!
──第二現場は未だ……
──つまり第二現場が本命か
第一現場では松田、第二現場では萩原がそれぞれ解体作業に当たっていることを、結加理はその良すぎる聴力のおかげで知っている。だからこそ喧噪が苦手にもかかわらず、現場付近から離れられずにいたのだ。
その良すぎる耳が捉えた情報はいくつかある。
第一現場とやらで解体を終わらせた松田たちの班が第二現場へ向かっていること。マンションの住民たちの避難はまだ完全に終了していないこと。故に第二現場では未だ解体作業を始められていないこと。この周辺に犯人が潜んでいる可能性があるということ。
そして、
(爆弾付近って、火気厳禁じゃないの? え、萩、正気?)
マンションの住民の完全避難を待っている萩原が煙草を吸っているということ。頭痛がする話だ。専門的知識がほぼほぼ無いに等しい結加理でもそれくらいは分かる。
ざっくりとした知識は萩原や松田の会話からそれとなく得たものではあるが。それでも一般的以上の知識を持っている自負はあるのだ。
なお数年後、獣の姿でスコッチもとい諸伏と出会った時にも稀に爆発物についての説明を受けたりするのだが、それはまた後の話である。
(そもそも、爆弾を遠隔操作で止めたということは……逆に起爆もできるって事じゃないのか……)
火気厳禁。遠隔操作による可能性。
ド素人同然の結加理が考え付くであろうことを、危険物処理の専門知識を有する萩原が分からないはずがない。例え住民の避難が済んでいないことから解体が出来ない状況だとしても、やるべきことはあるのではないだろうか。
つまり、危機感を忘れ、慢心しているということなのだろう。
とはいえこれは勝手な推測でしかないのだが。
(このままじゃダメだ。危険だ。たしか、もう記憶は曖昧だけど、爆発する。爆発して松田くんが叫んでいた。……そう、ダメだ。爆発して、死んでしまう。い、や、やだ、嫌な感じが消えない)
前世の記憶の中にチラチラと見え隠れしていた、この世界の知識。思い出した時期が幼少期だったこともあり今では詳細も朧気だ。ぼんやりとしか思い出せない。
だが、強く頭に残っていることはある。それが今回の出来事に当てはまる。
そして何より、悪寒が消えないのだ。胸のざわめきが収まらない。
(爆弾の起爆装置? スイッチ? を仕掛けた奴等から、取り上げれば……?)
焦燥ばかりでうまく回らない思考を無理やり動かす。まさか自分が警察官たちの間を掻い潜って二十階の萩原の元まで行くわけにはいかない。公務執行妨害だ。逆に仕事を増やしてどうする。
そもそも、仮に何かしらのアクシデントでその場にいたとして、危険物処理の専門知識を持つ相手に何を言えばいい。納得させることが出来る。結加理には思いつかなかった。
ならば、と浮かんだ代案が実行犯の持っているであろう遠隔操作装置を奴等から遠ざけることだった。
マスク越しでも微かに火薬の残臭を感じ取ることが出来ている。──そう、火薬のにおいがしていた。様々な匂いが混じり薄まってはいる。しかし確かに痕跡はある。だからこそ頭に浮かんだ案だった。
火薬のにおいを纏っている人間など、滅多には居ないはずだ。しかも同じものなら尚の事。それを追えば犯人の元へ辿り着くのではないか。
そう考え至った結加理は気怠さが増してきた体を無理やり動かす。マスクを外した鼻でスンと空気を吸い込めば様々な匂いが鼻腔に流れ込む。
土、樹木、花、汗、香水、柔軟剤、コーヒー、煙草、体臭、ガソリン、排気ガス、──火薬。
空気中を漂う匂いは普段ならばマスク越しで緩和されている。それをダイレクトに吸い込んだせいで鼻の奥がツンとした。あまりにも匂いの数が多過ぎる。途端、襲ってくるめまいと頭痛。
元々喧噪の中で特定の音や声を聞き取ろうと気を張っていたこともあって、余計に負荷が掛かったようなものだった。
「……っ!」
くわん、と揺れた視界に平衡感覚を失いかける。僅かに踏鞴を踏んだ結加理は右手でこめかみと目元を覆った。チッと舌打ちをして頭を振る。おそらく今は他者に見せられる顔つきをしていないだろう自覚はあった。
鋭い五感から得られる情報は通常人間の体では処理できない代物。キャパオーバーになりかねない。いや、既に支障が出ている。
しかし後輩の命がかかっているのだ。結加理に無理をしないという選択肢はなかった。
微かに漂う火薬の残り香を追う。感覚を研ぎ澄ませて爆弾を仕掛けた犯人に繋がる情報を探っていく。そんな中、ふと不穏な会話を耳が拾った。
走って、走って、走って。──犯人の身柄確保に動いた警察官たちから滅茶苦茶に逃げていくその男の腕を掴めたのは、もはや意地だったのだろう。
男が道路に飛び込む寸前、振り遅れた左腕を力任せに引く。相手の勢いに負けないよう腰を落とし両足に力を込める。
靴底とアスファルトが擦れて上がる嫌な音。負荷が掛かったせいで案の定太ももが悲鳴を上げた。
そして、トラックが目の前を通り過ぎる。
「ッざけんな! 死にてぇのか!!」
結加理の口から荒々しい言葉が飛び出る。怒声といっても過言ではない声量。近くで聞いた者が思わず肩を震わせるほどの激昂。
元々口が悪いわけではないというのに、感情に任せて飛び出た言葉がコレである。取り繕う余裕など全くないことがうかがえる。
腕を掴んだ手から一切力を抜かず、いや、むしろ更に力を込めて結加理は男を歩道側へとぶん投げた。相手に対しての配慮など欠片も無い。そんなもの、あるはずがない。
私服警察官であろう複数人に取り押さえられた男を一瞥すると同時に、鋭敏になった結加理の聴覚が捉えたのは「くそっ」と悪態を吐く声。それは間違いなく今しがた取り押さえられた男と会話をしていた、爆弾や警察について話していた今回の実行犯の声だった。
ぐるりと首を回し声の出所に顔を向ける。見開かれた結加理の瞳が男の居場所を射貫いた。寸分違わず正確に。
その動きがどこか人外じみたものに見えて、私服警察官は僅かに身を引く。しかし次いでギョッとした声を上げた。
「あ、おい! 君!」
再度、体制も整わぬ間に駆けだした結加理の背に投げかけられる、私服警官の制止の声。それは動きを止めるには至らない。
大して運動などしていないのだろう。路地の合間に逃げ込もうとする男の速度は遅い。追いつき足払いをかけるまで数分と掛からなかった。
「お前だな、爆弾を作ったのも、仕掛けたのもっ。ふざけんなよクソ野郎、人の命を何だと思ってんだ!」
目の前の男からは火薬のにおいがした。
先程道路に飛び出した男よりも濃いにおいを、結加理の鼻が間違いなく感じ取っていた。
「くそっ! こうなったら──」
「させると思ったかよ」
「い˝っ! やめ、離せぇ!」
がむしゃらに自身のポケットを漁り、携帯端末を取り出した男の手首を結加理は何ら躊躇なく踏みつける。右足で、あらん限りの力を込めて。
間違っても端末のボタンを押されるわけにはいかなかった。間違って指先を踏みつけてしまいでもしたら、もしその指が起爆に繋がるボタンに触れていたら、最悪の事態につながってしまう。だからこそ結加理が狙ったのは手首。
痛みに喚く男の手首から右足を離さず携帯端末を遠ざけるには、そう考えたのは一瞬だった。右足に全体重を乗せ左足で端末を蹴飛ばす。
「ぅぐ、い、痛っ! この、くそっくそぉっ離せ離せ離せ!」
喚き声がさらに大きくなるが知ったことではない。男が自由な方の手で、自身を地面に縫い付ける結加理の足を殴り続けてこようと関係ない。私服の警察官が追いつき、男が拘束されるまで気が抜けなかった。
数分と置かずに私服警察官が合流し、爆弾の起爆装置でもある携帯電話は慎重に回収され、男の身柄も流れるように確保された。
こうして、この爆弾を仕掛けたマンションの住民たちを人質に十億円を要求された事件は幕を下ろした。
──世間一般的には。
警備や処理などに当たっていた警察側にとしては、未だ事件は終わっていない。
「犯人確保へのご協力、感謝します」
「……いえ」
「しかし何故、奴等が犯人だと?」
「話し声が聞こえたので」
自身の足元に目をやり、うへぇ、と顔を歪めながら結加理は答えた。
嘘は言っていない。例え、車内での会話という常人では聞こえない会話だろうと聞き取れてしまっているのだから。
今しがた結加理が顔を歪めた原因──何度も殴られた足が、ふくらはぎから足首にかけてどす黒く変色していた。それを目視してしまえば徐々に痛みが増してくるような錯覚に陥る。気づかなければよかった。そう思い視線を逸らせども気付かなかったことにはできない。
そんな結加理の表情に、視線の先を追った私服警察官の一人が足の惨状に顔を顰める。
犯人の一人を事故死に追いやりかけ、もう一人を取り逃がしかけ、そのどちらもを阻止したのが警察官ではなく一般人女性。それも決して小さくない負傷を負いながら。
身柄の確保後に詳しく問い質せば、爆弾を再度起動させられる可能性が高かったという。最悪の場合は死傷者が出ていただろう。
しかも、今回は刑事部の独断で動いていた上に機動隊にそのことが伝わっていない。つまりは連携を取らずにいたことで、現場で解体作業を行う隊員たちを不用意に命の危機に曝したということだ。
正直なところゾッとした。息を呑み、知らぬ間に冷や汗をかいていたのは何も一人や二人ではない。
目の前で痛みに顔を歪める一般人の手が無ければ何重の意味でも最悪の事態を招きかねなかったこと、そして巻き込み負傷させたこと。一警察官としては複雑極まりない状況である。手放しで犯人確保を喜べない。
「……歩けそうですか」
「多分、ゆっくりなら? 大丈夫だと思います」
「どうして貴女は、ここまで必死に……」
だから、本来なら問いかけるはずではなかった疑問が、口からこぼれ落ちた。
結加理の尋常じゃない様子を見ていたのは数人いるのだ。そう考えていたのは疑問を口にした警察官だけではなかったようで、チラチラと視線が向けられる。それを肌で感じながら結加理は小さく息を吐いた。
「……爆弾の、処理に当たっている警察の方たちが、いますよね」
「え、あ、はい。機動隊の中でも爆発物処理班に所属する者が」
「はい、存じております。……その爆発物処理班に、私の大事な後輩が居るんです」
どんどん力が無くなっていく声。最後の方は殆ど囁くように告げられる。
ハッと背筋を伸ばしたのは声を聞き取り、意味を正確に理解した者たち全員だった。今回の功労者ともいえる一般人女性へ思わず顔を向ければ、視界に飛び込んでくるのは、必死に笑おうとして失敗したような表情。
「詳しくは知りませんが、萩原隊員と松田隊員は、おそらく今回の作業にもあたっていたのではないでしょうか。だから、考えるよりも前に体が動いていたんです」
苦しそうに、けれどもそれを隠そうとして笑おうとしている儚げな顔。お世辞にも笑顔とは言えないその表情に、問いかけた警察官はグッと唇を引き結んだ。
知り合いが命の危機に曝されながら作業をしていると知り、平気で居られる者が、一般人が何処にいる。同じ警察官だとしても不安に駆られる時があるというのに。
「そう、でしたか。……あくまで治療が最優先ですが、恐らくこのあと事情聴取に付き合っていただくことになります。よろしいですか?」
「分かりました。大丈夫です」
「お待たせしました! 車の用意が出来ました!」
割って入ってきた声に結加理は目を瞬かせ、会話をしていた警察官は神妙な顔で頷いた。一般人が犯人に怪我を負わされた、ということもあり彼の部下の一人が車を回していたのだ。
「わかった。──救護班が待機している場所まで少し離れているので、我々の車で移動しても?」
「よろしくお願いします」
わざわざ用意してくれたのか、と眉を下げた結加理は小さく頭を下げる。
徐々に増してくる足の痛み。遂には右足に体重が掛からないよう、ひょこひょこと引きずるような状態になっていく。
マンション近くで待機しているという救護班の元へと運ばれた後、そこで待つように言われた結加理は深く深く息を吐いた。
爆発を防げたという安堵、恐らく萩原の命は無事であろうという期待、これから行われる聴取への憂鬱、怪我による痛みと不自由さによる苛立ち、そして日中に動き回った疲労感。
それらが混ざり合った、酷く重い溜息だった。
2023/5/10/
夢主にとって、後輩にとって運命の日。まさか本編より先にこっちで書くとは思ってなかった。
思ったより長くなったので全編後編で分けます。
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