──けむりくさい。
結加理が思ったのは、まずそれだった。何かが燃やされた後の特有のにおいがする。
「……クぇ、ッしゅ」
「……、……今の、もしかしてくしゃみか……?」
何とも気の抜けるような音に諸伏が目を瞬かせる。そんな彼をジトリと恨みがましい目で見上げ、黒い獣の姿の結加理は距離を取るべく後退るのだった。
〇
日も沈む頃、唐突に姿を現しては思い立ったように消えていく。
そんな謎多き黒い生き物が諸伏の前に姿を現すようになってそれなりの日々が経過した。──姿を見せるのは夜間ばかりであるため、ほとんどがスコッチの時での遭遇とはなるが。
もはや彼は闇夜から溶け出すように現れるその生き物に驚かなくなっている。慣れと言うものは恐ろしいものだ。
言葉を正確に理解しているようで意思疎通も容易に可能。共に過ごす時間を重ねる毎にまざまざと見せつけられたのは、人間よりもはるかに研ぎ澄まされている感覚。どんな小さな音をも拾う耳に、鋭い嗅覚に、夜目が利くその眼に、危険をいち早く察する本能ともいえる勘に、どれだけの危機を救われただろう。
──それが謎の声を上げている。
次いでジリジリと距離を取られた。心なし睨まれているように見える。
「……ぷッ、しィィ」
「うん、これ、くしゃみだな。風邪でも引いたか?」
「クゥェ……」
諸伏の言葉に対し、違ぇよ、と言わんばかりに心なしかジトリとした目で見上げられたのは気のせいだろうか。
姿勢を低くし、小刻みに顔をフルフルと振っている。右前足で鼻をこするようにしているため鼻にかゆみを覚えているのは諸伏にも理解が出来た。
「犬は鼻が良いっていうし、早く治し…………ん? もしかして」
心配そうに眉を寄せた諸伏は、ふと何かが引っ掛かったのか黒い生き物から離れるとパタパタと両手でジャケットを叩きはじめた。
「ライが吸ってた煙草のせいか? それとも、」
少し離れた場所でそれを聞いた獣は脱力したように地面に伏した。
基本的に諸伏はタバコを吸わない。だがスコッチは吸う。潜入捜査時はそんな設定なのだ。任務において銃を扱うことが主であるため、独特の匂いを誤魔化す目的として必要に駆られて煙をふかしている。今では火をつけるのも口に含ませるのも慣れてしまった。
因みに降谷もバーボンも煙草は吸わない。羨ましい限りである。
しかし今日は吸っていない。同じ空間に喫煙者であるライが居たため、受動喫煙状態だったせいだろうか。
多少臭いは落ちただろう、と地面に伏したままの黒い生き物の元へ向かうが駄目だった。無言で起き上がり移動される。
ならば、とジャケットを脱いでバサバサと払い再度近づく。今度は逃げられなかった。だが、手を伸ばした瞬間顔を背けられる。
「……手はダメ、か」
ならば、この鼻が良い生き物に現在避けられている原因は──拳銃の硝煙のせいだろう。今日、一度だけ銃を使った。
いとも容易く命を奪う、得物。それを扱う己を拒絶されたような、小さな棘が刺さるような感覚に陥る。僅かに諸伏の瞳が揺らいだ。
「なあ、この匂いがしたらその場から離れるんだぞ。火薬だからな。最悪の場合は、爆弾があるかもしれない」
胸に鈍く積もっていくほんの少しの澱み。
懐いてくれていた生き物に、硝煙の匂いを纏う己を避けられた。たったそれだけの事。だというのに諸伏は一瞬呼吸を乱す。
自身の後ろ暗い部分を、誰かを傷つけた己を、避けられたような錯覚に陥ったのだ。ほんの一瞬ではあったが。
「危険なものがあるかもしれない匂いだから、とにかく、近づかない事。いいな?」
そうは言い聞かせるように言うものの、既にこの生き物は硝煙漂う銃撃戦の最中に
スコッチの元へひょっこりと駆け参じたことが一度だけある。
幸か不幸か、諸伏の頭からはすっかりそんな出来事について抜け落ちていたのだった。
感情の機微など察しているだろうに、ヒタリと見据えてくる黒い瞳はただ静かだった。
諸伏はこの生き物に呼び名をつけていない。愛着が生じるだろうから、と。ペットとして迎えるつもりは全くない。おそらくフラッと姿を現しては消えるこの生き物も同じ考えだろう。
だから諸伏は、なあ、お前、そんな風に呼び掛けている。
〇
気を遣われた黒い生き物──もとい結加理はと言うと。
(……火薬って、そういえばこんな感じだったな。どこかで嗅いだことがあると思ったら花火とかの匂いか)
未だにムズムズする鼻を右腕、いや右前足でこする。
萩原の友人である諸伏もまた優しい人間なのだ。犬と思われる生き物にまで気を回している。
気遣いはありがたい。だが稀に用意されているドックフードはいらない。親切心を無碍にするようで心苦しいが、結加理は獣の姿を取れるからと言ってその姿に応じた食べ物を必要とするわけではないのだ。
ふらりと規則性も無く現れる
謎多き動物に対し、彼が親しみや情を抱いていることは感じていた。その気持ちをある程度意図的に抑えようとしていることも。察した上でありがたく甘んじている。
こんな呪われた摩訶不思議な体質上、馬鹿正直に交流など出来やしない。もともとは人間であるためペットには成れやしないし、なろうとも思わない。いくら獣の姿を持っているとはいえ、結加理は人間なのだから。
神出鬼没ではあるが協力的な野良。その程度の認識で居てもらえればいい。
愛着を持ってもらえるのはくすぐったくはあるが、深く踏み込まれては困るのだ。きっと、お互いに。
今日も今日とて彼女たちはアニマルセラピーもどきへと至る。
しかし、いつの間にかルーティンのように行われていたはずの触れ合いはどこか控えめで、その後はただただ静かに寄り添うだけだった。
2023/4/21/
けむり が にがて
本能が拒んでいる。でも必要なら、友人、知り合い、大切な誰かのためなら、それを無視してでも駆け抜けていける……んじゃないかな。
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