ぬいがもつプラカードには基本的に単語が平仮名で表記される。──まあ、明らかに間違いようのないものは、あると言えばあるのだが。
これにもまた、例外がある。
黒い衝動に駆られた時、とでも言っておこう。本人をデフォルメ調にしたぬいから
真っ黒なぬいに変貌を遂げるのだ。……メタ的な発言をするならば犯沢さんである。
そしてプラカードも瞬く間に変貌を遂げるのだ。ホワイトボードに。
本人、いや本ぬいが黒くなるのだから黒板じゃないのか? と言うツッコミは当の昔にしている。深く考えても答えは出ないな、と結論付けて今では完全にスルーだ。
そして表記される内容にも変化があった。つらつらと綴られるのは思考駄々洩れの長文。詳細な犯罪計画、殺人計画、アリバイ作りのための行動計画。
満を持して登場する漢字と文章。こんなのは特に待っても居ないし望んでも居ない。
こんな不可思議なモノが視えてしまうせいで、結加理には推理をするまでもなく犯人が分かってしまうのだ。
──なぜ今、唐突に、真っ黒なぬいとそれが全力をもって主張するホワイトボードについて触れたかと言うと。
(めっっっちゃ詳細に殺人計画立ててるもう嫌だこの町ぃ……最悪の場合、部署的には伊達くん頼れば良いはず、だった、はず……だよね? でも今すぐヘルプ出したいぃぃぃぃ……)
今まさに居るからである。この場に。
思考が若干混乱し始めている事には、この際目を瞑ってもらいたいものだ。
真っ黒ぬいの存在には何度遭遇しても慣れずにいる。当然だろう。鼻と目の先に居る人物が、平静を装うその裏で人を殺す計画を立てているのだから。見て見ぬふりをしようとしても限界はある。
ちょっと買い物をしようと大型商業施設に来ただけだというのに、流石東都と言うべきか、嘆くべきか。
「……結加理さん? どうかしたんですか、顔色が悪いみたいですけど……」
早鐘を打つ心臓を宥めようと深く息を吐く。その瞬間背後から話しかけられたことで心臓が落ち着くどころかドッと跳ねた。
「え、あ、……蘭ちゃん?」
「はい、こんな所で会うなんて偶然ですね! あ、それより体調が優れないとかだったら、どこかで休んだ方が……」
とある事件をきっかけに知り合った女子高生。喫茶ポアロの上階にある毛利探偵事務所、その主である毛利小五郎の娘にして結加理が
識る作品におけるヒロインである。
よほど結加理の顔色が悪く見えたのだろう。心配そうに眉を下げた蘭は近くに座れる場所がないかと視線を巡らせている。そして同時に彼女の肩で揺れるぬいとプラカード。こちらもまた、わたわたと慌てたように動いていた。
「なんかゴメンね蘭ちゃん、気を遣わせてしまって」
「いえ、そんな気にしないでください! 結加理さんには以前お世話になりましたし、それに困った時はお互い様ですよ」
知り合った切っ掛けは事件という物騒なものではあったが、今では年の離れた友人として仲良くさせてもらっている。結加理がそれなりの頻度でポアロに足を運ぶこともあって交流する機会に恵まれたことも仲が深まったきっかけの一つだ。
「ありがとう。……今日はお友達と?」
「あ、いえ。今日は父とコナン君と一緒に買い物に来ていたんです」
「そ、っかぁ」
蘭の返答に対し結加理は一瞬言葉を詰まらせた。脳裏に過ぎってしまった図がある。
探偵あるところに事件アリ。……普通は逆なのだろうが、この世界においてはこの図式が成り立ってしまいそうな程に事件も探偵も多い。世界柄、とでも言えばいいのだろうか。
だから既にこの時点で結加理は嫌な予感がしたのだ。
──そしてやはり、事件は起こってしまうこととなる。
体調を気遣う蘭と話しながらゆっくりと移動していたのだが、物の数分としない間に悲鳴が響き渡った。
「えっ、何が……」
「蘭ちゃん、毛利さんとコナンくんってどこに居るか分かる?」
「用があるのはこのフロアだけで、移動しないって言ってたんですけど……」
日常が唐突に異常事態へと変化しても結加理が至って冷静で居られたのは、何かが起きてしまうだろうと覚悟が出来ていたからに他ならない。
蘭は結加理の言葉を受け、そう遠くない所に居るはずなんです、でも、と言いづらそうに言葉を続ける。
「今の悲鳴が聞こえた場所に、多分、向かったんだと思います……」
「……だよね」
悲鳴の原因は何だったのか。──それは直ぐに判明した。
爆弾が仕掛けられていたのだ。買い物客たちが我先にと駆け出し、辺りは瞬く間に騒然となる。
結加理は蘭と共に避難しようと歩を進めるが、どうにも上手く動けない。押し合いへし合い、揉まれに揉まれて、混乱の中をどうにか建物の外に出た時には二人共に疲労困憊だった。
その頃には警察も到着していたようで建物の周囲には厳戒態勢が敷かれていた。ざわめきの中でも爆発物処理班と言う単語が所々から聞こえてくる。
「蘭ちゃん、毛利さんたちと連絡取れた?」
「それが、さっきからメールも電話もしてるんですけど繋がらなくて」
困ったように眉を下げる蘭は不安を隠せずにいる。いくら父親が探偵ということで事件と遭遇する機会が一般の者より多い彼女とは言え、家族が危険に晒されているのだ。当然である。
その背をそっと撫でて結加理は周囲を見回したが、小五郎とコナンらしき人影すら見つけられはしなかった。
〇
表の駐車場の一角にて、蘭と共に結加理は避難した買い物客を掻き分けながらパトカーの近くに身を寄せていた。建物からある程度距離があるとはいえ人の多さは変わらない。
スーツに身を包んだ松田、動きやすい恰好の伊達、この良く見知った二人に挟まれたコナンが合流したのはそれからしばらくしての事だった。小五郎と連絡がつき蘭を通じて状況把握と今後の動きを話し合った結果である。
当の小五郎はというと、そのまま建物の中に残って現場検証に付き合っているらしい。
「ったく、危ねぇんだからガキはさっさと避難しろって言っただろ。爆弾がバラせてねぇ中で殺人現場に留まるとか正気か?」
「ごめんなさぁい! でも被害者の人も証拠もぐちゃぐちゃにされるの、見ていられなかったんだ。それに爆弾は松田刑事が解体してくれたでしょ?」
「そりゃ結果論だろうが!」
「先ずは避難が最優先だってことを忘れるな。いくら坊主が頭が回ろうとな、これは警察の領分なんだ。踏み越えちゃならない線ってもんがある」
「コ、コナンくんっ! すみません松田刑事、伊達刑事!」
慌てて蘭がコナンの元へ駆け寄り、小さな手を取るとギュッと握り締める。
その背を追いながら、まさか彼等が揃ってこの場に居るとは思っていなかった結加理はぱちくりと目を瞬かせた。
松田が爆弾の解体をした、ということは解体に当たったのは爆発物処理班ではなかったということだ。
──現在の松田が所属しているのは刑事部の機動捜査隊である。紆余曲折あり、捜査一課から元の所属である爆処には戻ることなく現在の所属に落ち着いたらしいのだ。
なお、この移動については本人も相当悩んでいた、というのは萩原から聞いた話である。
閑話休題。
訝し気な結加理の視線に気づいた松田が僅かに視線を逸らす。
「待ってる時間が惜しかったんだ。トラップも無かったわけじゃないが簡単なヤツだったからな、三分もありゃ十分だ」
彼の右肩にちょこんと立っているぬいもプラカードを揺らしている。今しがたの発言と「たいまー」「00:30:00」の文字が入れ替わるところを見ると、恐らくは制限時間が非常に厳しかったのだろう。
三十分ともなると確かに機動隊の到着と準備完了を待つ余裕は無かったということか。
「そっか。でも偶然とはいえ松田くんがココに居てくれてよかった……」
「ああ、まぁな」
松田の、そして伊達の肩の上でもぬいがぴょこんと跳ねた。そこには「もろふし」の文字。結加理はそれを視界に入れたと同時に、そのままの表情でスッと瞼を伏せる。
(なるほどねぇ……諸伏くん、ってことは二人に先んじて連絡とか情報が入ってた、ってことなのかな? ……はい記憶から抹消抹消)
そして何も見なかったことにした。賢明な判断である。
「……しかし結加理サンもついてねぇな、巻き込まれてたなんて」
「こりゃ後から萩原が騒ぎそうだな」
警察官二人に不憫なものを見る目を向けられ、思わず半笑いになったのは見逃してもらいたいものだ。そもそも東都に居る以上は巻き込まれないで居られる確率の方が低い。
「坊主も送り届けたことだし、そろそろ俺らは行くとするか」
「じゃあ嬢ちゃん、坊主から目を離すんじゃねーぞ」
「はい!」
「あ、待って松田刑事、伊達刑事! 僕も──」
「だーかーら、ガキの出る幕じゃねぇつってんだ。どうしてもやりたけりゃ将来警察官になってからやれ」
「ち、違うよ! 怪しい人とか見つけたら連絡するね、って言おうと思って!」
本当かぁ? と思っているのが丸わかりな目で小さな名探偵を見据え、松田はチラリと結加理を一瞥した。その視線を受け、何を求めているのか何となく察して結加理は頷く。
「……まあ、その連絡なら結加理サン通して寄越してこい」
「……はぁい」
不承不承ながらも大人しく頷いたコナンに、蘭も伊達も苦笑いを浮かべる他ない。
──状況としてはあまり良くないのだ。
仕掛けられていた爆弾、そして別の階で起きていた殺人事件。まさかの事件ブッキング。コナンが建物の中に留まってしまうことになった一因でもある。
これが同一犯もしくは同一グループによる犯行なのか、はたまた偶然別の事件が同時に起きてしまったのか、それすら分からずにいる。捜査は難航しているようだった。何しろ避難の過程で全員が建物の外に出てしまっている。つまりは犯人が逃走、野放しになっているということ。
だから、必要に駆られてこの二人も建物の外へ出てきたのだ。
「……あの、さ、松田くん」
もしかしたら、まさか、と結加理は頬を引き攣らせた。蘭と会う前に見かけた真っ黒なぬいを肩に詳細な殺人計画を立てていた人物が犯人ではあるまいな。
そう思いつつ、この場を後にしようとする松田に声を掛け、そろりと右手を小さく挙げた。もちろん蘭やコナンには聞こえないよう声を潜めて。
「何だ? ……っておいその顔、まさか」
「…………うん、多分、怪しい人、見たかも」
流石、萩原に次いで結加理との交流頻度が高い松田。表情から伝えたいことを正確に察したらしく、彼の片頬も引き攣る。
「何人、だ?」
「あー、関わりのありそうなのは──」
「待て待て待て、関わり無さそうなのも居たのか」
「そりゃね」
東都だし。その言葉を無理やり飲み込んでは乾いた笑いをこぼす。
苦いものを噛み砕いたような表情で松田は軽く額を押さえた。その拍子にサングラスが若干ズレる。
今までに結加理から「怪しい人」として挙げられた人物が、何も抱えていない白だった例がない。周囲に提示できる証拠、他者が納得できるような何かが無ければ声を上げることも無いため、ほぼ百発百中。それがまさかこの場で示されることになるとは。
結加理に少し待つよう片手で制し松田は懐から携帯端末を取り出した。その間にも周囲の様子を見渡していた伊達が戻ってくる。
「──もしもし、松田だ。ちょっと聞きてぇことがある。お前が追ってる奴等の粗方の動き、どんなだった?」
電話の相手が何となく分かってしまった結加理はさりげなく視線を泳がせる。──そしてその拍子に、真っ黒になるくらいに書き込まれたドでかいホワイトボードが視界に入ってきた。しかも複数。
(いや、ここに居るんかい!)
反射的に内心で叫ぶ。思わずしわしわ顔の電気鼠のように表情を歪めてしまった。犯人は現場に戻ると言うが、まさか本当に今回の実行犯なのだろうか。
松田が電話越しに相槌を打っている横で、結加理は伊達にそっと近寄った。
「……伊達くん、双眼鏡とか持ってたりする?」
そう問いかけたのには理由がある。真っ黒ぬいとホワイトボードを出現させている怪しい人物が離れた場所に居る所為で、その文字が全く読めない上に人物自体が見えづらいのだ。
「双眼鏡? いえ、持ってきていませんが……」
「だよね、ごめん聞いただけ」
「ボク単眼鏡なら持ってるよ!」
「え、コナンくん本当? ごめん貸してもらっても良いかな」
「いいよ。はい!」
ポケットから取り出した小さな単眼鏡をコナンが差し出してくる。それをありがたく受け取り目的の場所へと向けた。
同時に伊達がペンを持たせてくれた。片手が単眼鏡で塞がることを考慮してくれたのか、伊達がメモ帳を持ったままの状態で待機してくれている。
「──ところで結加理さん、何が気になっているの?」
「うーん、んー?」
コナンの声色ががらりと変わる。
それを認識しながらも結加理は至って平静を装い、自身が捕捉できる限りのホワイトボードと真っ黒くろすけたちを探してはそれを出現させている人物の特徴をメモしていく。
先程松田に声を掛けた時はなるべく声を潜めていたというのに、小さな名探偵が相手では誤魔化せなかったようだ。些細な仕草や表情一つでさえ彼にとっては情報になるのだから、全く恐ろしいものである。
「気になっているというか……見失った人? を探してるんだよ」
「ふぅん。……じゃあさ、ついでに今から言う物を持ってる人を探してもらっても良い?」
「ん? 分かった、頑張って見つけるよ」
これは、考え方次第ではコナンからの援護射撃といった所になるのだろうか。この小さな名探偵が一体その明晰な頭脳で何を考えているのかなど凡人には想像もつかない。
コナンが幾つか物の名称を挙げていくのを耳で拾っては目を凝らす。そして結加理は一瞬だけ息を詰めた。
──恐ろしきかな名探偵。真っ黒ぬいとホワイトボードを出現させている人物が持っている物とドンピシャである。
むしろ答え合わせをしているような気分になってしまい、無意識のうちに頬が引き攣ってしまった。
ちなみに、この時点で結加理には今回の事件に関する全貌が何となく分かってきてしまっている。爆弾と殺人、これが同一犯によるものなのか、それともどさくさに紛れて引き起こされた別々事件なのか。
探偵と警察の領分であるため特に多くは語らないが、鳩尾付近がじわじわと痛みを訴えてくるような内容がホワイトボードに書かれていた、とだけ明記しておこう。
「見つかった?」
「うん。コナンくんが言った物、私が探してた人も持ってたからすぐ見つけられたよ」
「やっぱりね!」
弾んだ声とは裏腹に、コナンの表情は至って真剣かつ勝気なものだった。無邪気な演技をしている時とはずいぶんと違う、素の表情。
それに気付かないふりをして結加理は伊達から持たされたペンを返した。
「伊達くん、コレ。そいつら移動しないうちに声掛けた方が良いと思う」
「こいつ等ですか」
「うん。あと丸で囲んだのはコナンくんが言った物を持ってるヤツ」
「すまん、参考にさせてもらいます。……まあ、既に松田が無線で人は動かしてるんですが」
「……マジで?」
「マジです」
肩を竦めた伊達にハッと顔を先程まで松田が居た場所へ向ける。そこまで離れてない場所で、確かに携帯端末と無線を駆使してどこぞへと指示を出している姿があった。
「さっき松田刑事がメモ帳覗き込んでたのに、結加理さん気付いてなかったの?」
「……マジで?」
「うん」
「結加理さん、すごく集中されてましたから……」
驚きすぎて同じ問い返ししか出てこない。どうやら結加理はコナンの声と、人物の特徴を捉えて的確にメモを取ることに集中するあまり松田が近くに寄ってきていても気づかなかったらしい。
首を傾げてコナンが教えてくれる横で、蘭がちょっと眉を下げながらフォローを入れてくれる。
言われてみれば松田の声が近くに聴こえたような気がした瞬間もあったと言えばあった。しかし複数人の声と内容を瞬時に聞き取れるほど結加理は器用ではない。必然的にコナンの声にのみ集中することとなり、松田の声は聞こえていても内容までは認識できないという状態になった、というわけだ。
メモ帳には怪しいと思った理由、現在の動きなども走り書きしているわけだが、それが実行犯もしくは犯人とイコールで結びつくわけでは無いだろう。しかし現状を鑑みるに松田はノータイムで指示を出しているということになる。思わず結加理が顔を強張らせたのは無理からぬことだった。
(そんなに簡単に信用していいのか……? こちとらただの一般人だぞ? しかも何の裏付けも無いのに)
予想だにしていなかった事態に結加理は戦々恐々としているが、松田も伊達も理由なくこの証言を妄信しているわけでは無い。電話と無線越しにもたらされる情報、コナンの証言、これまでの経験上からの判断である。
まあつまり、結加理の目撃情報というのは絞り込む要素の一つでしかないのだ。
「班長、人手が足りねぇ。俺らも出るぞ」
「ああ、分かった。……俺たちは一緒に居てやれないからな、坊主、嬢ちゃんたちと離れるんじゃないぞ!」
「や、やだなぁ伊達刑事、分かってるよ!」
一番にコナンへ注意を促すあたり、彼等の中でどれだけ問題児扱いされているのか伺い知れるというもの。慌てて両手を顔の前で横に振ったコナンは内心で呻いた。
(やっぱこの人たちの前じゃ、色々やりずれぇ……)
結加理がチラリと視線を下に向ければ、コナンの頭の上でぴょっこりと眼鏡をかけていないコナン──いやこの場合は工藤新一と言うべきか──そのぬいがプラカードを揺らしていた。
「きびし」と。
うっかりそれに笑ってしまいそうになり、結加理は慌てて視線を逸らし顔を背けた。
松田と伊達は既に人ごみの中に紛れて姿すら見えない。しかしパトカーというある種分かりやすいまでの抑止力が近くにあるのだから、滅多なことは起こらないだろう。そう考えてしまった。
──後に結加理はこう語る。松田や伊達と顔を合わせたことで少し気が抜けてしまっていたのだろう、と。
「ごめん蘭ちゃん、ちょっと飲み物買ってくるね」
言い訳をするならば、緊張状態が続いたせいで喉が渇いてしまっていたのだ。そう言い残して蘭たちから離れて数メートルと経たずして周囲にどよめきが走る。どうにも嫌な予感がした。
飛び交う怒号、制止の声、引き攣れた悲鳴。その喧噪に視線を向けて結加理は身体を強張らせた。
「ど、けぇ!」
凄まじい形相の男が、よりにもよって立ち竦んだ結加理が居る方へとがむしゃらに駆けだしたのだ。
松田や伊達と連携を取っていた現場監督者、電話越しの人物の判断で一斉に動き出していたのは私服警察官たち。怪しいと判断された人物へと声を掛け、任意での事情聴取へと移行しようとした。まあほぼ拒否するかのらりくらりと煙に撒こうとするか、もしくは逃走を図ろうとするかのいずれかの反応であるからしてお察しというもの。
なおこの場合の任意とは強制と読むタイプである。
しかし全部が全部うまく事を運べるわけも無く、一瞬の隙を突かれてしまったらしい。逃走を図った犯人の一人と思われる男をその場で取り押さえ損ねたのである。
滅茶苦茶に腕を振り大勢を押しのけ逃げようとする大柄な男。その懐から小型ナイフが取り出された瞬間、その場に緊張が走る。
「──お、お前、おまえのせいかっ」
実はこの男、先程まで結加理が松田や伊達と話しているのを、更に言うならば単眼鏡を片手にキョロキョロとあたりを見回していた姿を見ていた。そしてそれを覚えていた。
──逆恨みのような感情が芽生えるのも自然な流れだった。
「っ!」
刃物の切っ先が結加理に向けられる。しかし、咄嗟の事で逃げるどころか硬直して体が動かせない。
焦ったのは本人もそうだが周囲もだった。取り押さえ損ねた警察官は喉が裂けんばかりの声で逃げるように叫び、近くに居たOLは自分も避けようとして派手に転倒。
そしてコナンは──
(くそっこの角度じゃボールが使えねぇッ!)
どうしようも出来ない状況に踏み出した右足でダンッと地面を踏みしめる。
いつものようにキック力増強シューズを使用すれば暴れる男を転倒させることは可能かもしれない。しかしそれは、周囲の複数人を巻き込んで結加理と正面衝突させることになる。それでは本末転倒だ。
彼が立っていたのは、そんな間の悪い場所だったのだ。
「避けろ結加理ッ!」
「逃げるんだ!」
緊迫した事態に気付いた松田、伊達の声が遠くから放たれる。しかし結加理目の前の男から視線を逸らせない。体も目も、動かせない。動かない。まるで自分の体と思えないほど自由が利かなかった。
男の腕が大振りに振り上げられる。刃物の切っ先が振り下ろされる──その刹那。
「──はぁあッ!」
割り込んできた華麗な回し蹴りによって男の腕が上方へと跳ね上げられた。同時に手から弾き飛ばされた凶器が宙を舞う。数拍後、カツンと硬質な音を立てて地面に落ちた。
蘭が男の隙を突いたのだ。
何が起きたのか理解できず目を白黒させた男の鳩尾に、すかさず繰り出された鋭い一撃。蘭から放たれる気合が込められた声は、普段の朗らかで柔らかさとは程遠く随分と低い。
「大丈夫ですか結加理さ、や、やだ血が! どうしようっ」
「あ、えっ、蘭ちゃん、大丈夫だから落ち着いて……!」
思わずへたり込んだ結加理の元へしゃがみ込み、蘭は小さな悲鳴を上げた。
確かにピリッとしたな、と結加理が額に手を当てればぬるりとした嫌な感触。うわぁと思いながら手を下ろせば、人差し指と中指の指先から第二関節あたりまで血が付着していた。思ったよりも派手に出血しているようだ。
蘭が慌てて鞄からハンカチを取り出そうとするのをやんわり断り、結加理は自身のハンカチを傷口に当てて止血に使う。
そんなやり取りの間に男の身柄は拘束された。大きく喚き散らしているが警察官複数人に全力で抑え込まれては意味など無い。
「ありがとう蘭ちゃん、助けてくれて……」
「私も自販機に一緒に行こうと思って、でも、間に合わなかっ」
「いや、十分間に合ってくれたよ……ごめんね、私、動けなくて……」
「そんなの当たり前です!」
蘭が結加理を追ってきていたからこそ間に合った。そうでなければ、と思うとぞっとする。
何しろ冷静に考えてしまうと今ハンカチで押さえている場所から振り下ろされようとした先が分かってしまう。──蘭が間に合わなかった場合に刃先が行きつく先は目だった。
ハンカチを押さえたままの指先が微かに震えていることに気付いた蘭はグッと唇を引き結んだ。
「結加理、サン! 無事、か……ああ゛?」
遅れて到着した松田の双眸が、サングラスの奥で大きく見開かれる。否応なしに視線が吸い込まれたのは当然ながら結加理の額と血が滲むハンカチ。取ってつけたような敬称と先程の呼び捨てについて、結加理は目を瞑ることにした。
地を這うような声で唸ると松田は間髪入れずに拘束された男へと顔を向ける。今にも拳を構えそうな面持ちに、自分が向けられたわけでも無いのに結加理の背筋がスッと伸びた。
同様に彼の右肩でプラカードを激しく上下させているぬいが浮かべているのは憤怒の表情。デフォルメ調で可愛らしいはずのぬいから可愛らしさが抜け落ちていた。プラカードの位置が定まらないせいで書かれている文字が見えづらいが、大分お怒りであることはうかがえる。何ならプラカードを放り投げて暴れ出しそうなくらいの勢いだ。
視線を合わせるように松田がしゃがみ込んだことによってぬいの主張がより鮮烈に伝わってくる。ある種の現実逃避が出来て、結加理としては精神面で非常に助けられていた。気を紛らわせるものの有無は大きい。
「刃先が掠ったのか……。わりぃな毛利の嬢ちゃん、取り返しのつかないことになるところだった。感謝する」
「いえ、そんな」
「だが、あんま無茶はすんなよ。刃物を持ったヤツを相手にするなんざ、いくら武術に秀でてようとやるもんじゃねぇ」
深く深く肺が空になるのではないかという程に息を吐き出した松田は、蘭に礼を言うと同時に苦言も呈す。空手の腕前は知っているが、警察官として大人として言わないわけにはいかなかったのだ。
そんな二人を横目に、結加理は浅くなった息を整えながら目の前の荒ぶりが徐々に落ち着いてきたぬいに意識を向けていた。ようやく動きが緩やかになってきたためプラカードの文字が見えるようになったのだ。そこには「ち!」という文字がデカデカと書かれている。
(舌打ち……?)
それ程まで苛立っているのだろうか、というかぬいが舌打ち? と結加理が目を瞬かせたのも束の間にプラカードの文字が変化する。
動揺を現したようなぐちゃぐちゃの筆跡で「けが!」と言う文字がプラカードのど真ん中に現れた。次いで「かお!」の文字に変わる。ずっと二つの単語がループ状態。たまに「はぎ」「ち!」「くそやろう」など別の単語も混ざるが些事である。
どうやら結加理が顔に負った怪我に対しての反応だったらしい。現に松田の視線は血のにじむ結加理の額に向けられたままだ。
……いやしかし、正直なところ「ち!」に関しては舌打ちなのか出血を示しているのかは分からない。
「あー、えっと、あんまり痛くないし、見た目ほど酷くはないと思うよ」
「……でも、顔だ。あと異常事態で感覚が鈍ってる可能性だってある」
蘭が気づいたように、松田もまた結加理の指先が震えていることに気付いていた。いくら気丈に振る舞っていても、ただの一般人が明確な悪意を持って武器を向けられ、傷つけられて恐怖心を抱かないわけがない。当たり前だ。警察官の中でも怯んでしまう者が居ないわけでは無いのだから。
「立てるか」
「あー、どうだろ」
「無理そうなら言ってくれ」
声のトーンが落ちてしまった松田の肩を見ればしょぼくれたぬいが緩やかに「むかえ」の文字が書かれたプラカードを揺らしていた。
(むかえ……向かえ? 病院に向かえって事かな)
この単語の意味を結加理が正確に理解するのは、もうしばらく後の事になる。
アスファルトに両手をつき両腕にグッと力を込めれば、上半身は動く。しかし問題はそこからだった。下半身を動かそうとしても力が入らないのだ。完全に腰が抜けてしまったようだった。
結加理が白旗を上げるのは早かった。これはもう自力ではどうしようもない。
「……松田くん、ごめん無理っぽいや」
「おう」
様子を見守っていた松田は、だろうな、と内心で呟きながら頷いた。次いで結加理の目の前でそのままクルリと背を向ける。
「えーっと?」
「乗れ」
「肩を貸してもらえれば十分なんだけど……」
「ぶっちゃけこっちのが楽なんだよ」
腰が抜けて座り込んでいる相手に肩を貸すというのも中々骨が折れるというもの。何しろ力が入らない身体を起立した状態に持ち上げなければならない。
加えて二人の身長差も考慮するとなると納得の言葉である。
「あんまりグダグダ言うなら抱き上げるぞ?」
「ありがたく背中にお邪魔させていただきます」
有無を言わさない響きでそう告げられ、結加理はスンと表情を削ぎ落しノンブレスでそう言い切った。この声色の松田は、絶対に問答無用で抱き上げるくらいの事はする。そうなる前に大人しくしたがった方が身のためである。その事をこれまでの経験上で知っていた。
「あー、ハンカチはそのまんま押さえてろ。柔な鍛え方はしてねぇから落とさねぇよ」
「ん」
「……あと、密着するのは、許せ」
「それは、うん、大丈夫。むしろゴメン」
左腕をソロリと松田の肩に回せば、力強くも気遣いが含まれた力加減で背に引き上げられる。そのまま体制を整えると松田は難なく立ち上がった。
結加理は若干のいたたまれなさを感じながら、スーツに血液が付着しないよう気を付けて左腕で彼の肩にしがみつく。
その拍子に鉄の匂いが微かに松田の鼻を掠めた。寄せられた眉間が深くしわを刻む。細められた双眸が忌々し気に射貫くのは、この場から離れつつあるパトカーの後部座席だった。
「松田、篠原さんは!」
コナンを連れだってきた伊達が結加理を背負った松田に声を掛ける。
伊達もまた、自身の相手取らなければならない存在を制圧してからすぐに近くまで来ていたのだ。この場に駆け付けるまでに多少時間が掛かったのはコナンと話すべきことがあった為なのだが、それについてはまた別の話である。
「額から出血。止血済みだ。あとこれは……」
「ごめんね、腰が抜けちゃって」
「そうか……。いえ篠原さんが謝ることではありません。むしろこちらの不手際で、」
「いや、悪いのは暴れた奴だから」
「そうですが、我々警察官が奴を取り押さえ損ねたのが原因です」
眉を下げて結加理はそう告げるものの、松田や伊達たちとしてはそういう問題ではないのだ。
──警察官が多くいるこの場で一般人に怪我を負わせた。それも、よりにもよって自分たちの目と鼻の先で。つい数分前まで共に居た知り合いに。
「結加理さん、後でこれ使ってね」
「え、コナンくんありがとう」
苦い顔の伊達の横でコナンが背負われたままの結加理に声を掛け、自身の持っている絆創膏を見せた。
背負われているため普段よりも幾分か高い位置に結加理の顔がある。その額に当てられているハンカチと滲む赤に、コナンは口端をキュッと下げた。
コナンは結加理と特別に仲が良いという訳ではない。互いに心地よい距離感で交流を重ねている喫茶店の常連客同士、といった所だろうか。むしろ蘭の方が女性同士ということもあって仲が良い。ポアロで顔を合わせれば会話を楽しむこともあるが、それも大抵は蘭が一緒だ。
そうして時間を共にする度に彼女たちの仲の良さを、蘭が頼りにしている大人の女性の一人だということを肌で感じてきた。だから余計に、コナンも──いや新一も、蘭が大切な友人だと思う相手を可能な限り大切にしたいと、力になりたいと強く思うのだ。それはきっと無意識のうちに。
そんなコナンの隣に心配そうに眉を下げたままの蘭が立つ。チラリと見上げて、やっぱこんな顔は見たくねぇな、と内心で呟くのだった。
2023/8/18/
支部にも投稿しました。
まさかの続いたやつ。長すぎたので分割。後編に続く。
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