警察車両が数台停められている場所に移動した結加理は、とある車の後部座席へ降ろされた。傷は表皮を掠った程度だったようで深くも広くもなかったのは幸いと言えよう。
ただ、多少の懸念が残ってしまっているため病院行きは確定してしまったのだが。
凶器を振りかぶった男が地味に厄介だったのだ。よりにもよって松田が電話を通して連携を取っていた相手──諸伏たちがマークしていた人物。刃物に何かしら薬品などを塗布していないとは言い切れなかった。凶器の押収は完了しているため薬物反応などの鑑定結果はそう時間を置かずに出るだろうが、念のためである。
手当を終えたのを見計らって伊達が重々しく口を開いた。ただし結加理に向けてでは無く──
「毛利さん、不審人物の制圧への協力感謝します。……だが、あまりにも危ない行動だったということを、忘れないように」
蘭に向けてだったが。
改まってそう告げた彼の表情は、あまりにも苦々しいものだ。遠目から見ることしかできなかった伊達でも、あのまま刃物が振り下ろされていたらどうなったのかなど容易に想像ができる。蘭が行動してくれたことで被害が最小限に抑えられたことも当然身にしみて分かっている。
けれども伊達は、一人の警察官として大人として注意せざるを得ないのだ。つい先ほどの松田と同じように。
「さっき、松田刑事にも言われました。危ないのは、ちゃんと分かってます」
「そうか」
「それでも、大切な人が傷つけられそうになったら、きっと私は迷わず守ります。戦います。ただ黙って傷つけられるのを見てるだけなんて、出来ません」
「……そうか」
伊達を真っ直ぐに見据え返す、静かだが力強い目。短く相槌を打った後、僅かに瞑目して深く息を吐いた伊達はおそらく蘭がどんな返答をするのか予想がついていたのだろう。
結加理の顔近く、車のリアドアに軽く手を置いたまま話を見守っていた松田も、蘭やコナンに気付かれないよう静かに息を吐く。
説得は無理だと悟ったのだ。
(ああ、やっぱり優しい子だな……)
現役刑事たちの葛藤の隣で結加理は柔らかく目を細めた。自身の目にしか映ることのない、不可思議なぬいとプラカード。控えめだが優しい言葉しか浮かばないのが蘭だった。
眩しいほどに優しい心を持つこの子が、その純粋さ故に傷つけられることが無いよう祈ることしか出来ない。
「なら、嬢ちゃんのご両親ときちんと話し合った方が良い。万が一の時の為にも」
再び蘭と視線を合わせた伊達はがそう言ったのにはちゃんとした理由がある。
「怪我をする危険性についてもそうだが、世の中には大人しく捕まる奴等ばかりじゃない。周囲に喚き散らし、被害者面をして、友人の為に体を張った嬢ちゃんに悪い印象を植え付けようとする輩だっている」
「まあ良くあるぞ、『アイツがいきなり殴りかかってきたんだ!』とか『正当防衛しただけだ!』とかな」
「……本当なら、まず、関わらずに逃げに徹してもらいたいんだがな」
もしかすると伊達も松田も、結加理と似たようなことを思ったのかもしれない。悪意に曝される前に対策を練るように提言している。
蘭の父親である小五郎は元警察官であり探偵、母親の英理は現役の弁護士。ある種、この類の話は専門とも言えるのかもしれない。
「蘭ちゃん、私からもそれはお願いしたい、かな」
「結加理さん……。分かりました、今日、父と少し話してみます」
「うん」
素直に頷いた蘭に小さく笑みを返して結加理は内心で呟く。
(後で蘭ちゃんに助けてもらった御礼を……いやまず毛利さんにもちゃんとご挨拶しなきゃだな……)
怒涛のような出来事続きだった。刃物を持った男に襲われ、蘭に守られるも指先の震えも止まらず、脚の力も抜け、自力で立つこともままならなかった。
しかし今はこうして様々なことを考える余裕も戻ってきている。ようやく普段通りの表情を作れるようになったことを感じて、結加理はへにゃりと相好を崩す。
「今度、落ち着いたら探偵事務所の方にお邪魔させてもらうね」
「! はい、お待ちしてます!」
それに気づいた蘭がパッと表情を明るくさせた。ずっと結加理の表情から硬さが抜けなかったことを気にしていたのだ。
どこか和やかさな空気が漂ったことに、コナン、そして松田と伊達はそれぞれ思い思いにホッと息をつく。
何はともあれ、こうして一件落着と相成ったわけである。……一応は、という言葉がつくのだけれども。
〇
腰が抜けたままの状態ではあるが、結加理が松田と共に向かったのは指定された病院。軽く手当を受けた状態のまま特に車両を変えることなくそのまま移動することになったため、何事かと目をぱちくりさせていたのは内緒である。
──手当をする際に使用したのは松田の車だったのだ。
「あんな大きな事件直後なのに、松田くん抜けて大丈夫なの?」
「ああ。今、アンタを一人にするのは危険かもしれない、っていう現場の連中の判断だ。護衛みたいなもんだと思ってくれ」
「……ご、護衛……」
「結加理サンが単眼鏡でキョロキョロしてたのと、見てる方向に居た連中、その直後の一斉検挙。それであの野郎が勘付いて凶器を振り回したらしい。……俺も迂闊だった。悪い」
「それを言うなら私もだよ。焦ってたからそこまで頭が回らなかった。ってかお巡りさんの行動と結び付けられるとは思ってなかった……」
「目ざといヤツは気付くもんだぜ。特にワルい事してる自覚があって周囲を警戒してるようなヤツはな」
「そう?」
「ああ。もしかすると結加理サンが私服警察官だって思われてる可能性も無きにしも非ず、ってやつらしいからな。しばらく一人にはならないでくれ」
「マジか、分かった」
移動中の車内では双方ともに神妙な面持ちでそんな会話が繰り広げられていた。結加理が思っている以上に大事になっているようだった。
……とはいえ、実際はその懸念は杞憂というものであるのだが、残念ながら現時点で誰も知らぬことである。
そうこうしている間に病院に到着。さほど時間を置かずして診察を受けることとなった。事前に連絡が入っていたらしい。そこはかとなく、とある部署と人物の影が見え隠れしていた。
診察の結果としては概ね問題なし。
怪我の状態も酷くなく、対処も適切だったことから、このまま化膿しなければ跡も残らないだろうとの事。念のための血液検査も受けることとなったがこちらも問題なし。
松田の携帯端末に入った連絡には「凶器に薬品が塗布されていた形跡も見当たらない」との旨が記されていた。
問題なしの太鼓判を押されたことにホッとしたのは、実は当の本人である結加理よりも松田の方だった。当然それを悟らせるような態度は見せなかったが。
検査結果を待つ間は車で待機していたため、時間の有効活用ということで今後についての話は済んでいる。詳しい事情聴取はまた後日という運びとなった。
「松田、……結加理先輩っ!」
会計の手続きを終え駐車場へ向かう結加理たちへと駆け寄ってくる影が一つ。それが誰なのか声を聞いただけで分かった松田は軽く片手を上げる。
「おー。来たな」
「……え、萩ちゃん何で?」
「松田と班長から、先輩が怪我負わされたって連絡が入ってて、それで迎えに来たんだ」
普段よりも話し方にぎこちなさを感じさせるところに動揺が若干滲み出ている。
その右肩で力なくぴるぴると震えているぬいもまたそれを助長させているように感じた。プラカードの文字もぽつぽつと滲んでいる箇所があるのは、恐らく気のせいではない。
結加理がギョッとした表情で仰ぎ見れば、松田は肩を竦めて視線を逸らした。しかし右肩ではぬいが「むかえ」とプラカードを掲げていたる。それも胸を張って。
「帰りの足はコイツな。バトンタッチだ。気心知れてるヤツの方が良いだろ。……それにどうせコイツ今日は元々早上がりだしな」
シレッとそうのたまうと松田は片手を上げ、ひらひらと軽く横に振った。
ここに来て結加理はようやく背負われる前に彼のぬいが掲げていた「むかえ」の意味を理解する。あの時点で既に萩原を迎えとして呼ぶつもりだったのだ。
「じゃあな。ゆっくり休めよ」
「え、あ、うん。色々ありがとうね」
「いや、こっちも振り回して悪かったな」
そう告げ、松田はこの場を後にした。おそらく自身の仕事に戻るのだろう。
颯爽と消えていくその背を見送ってしばらく、結加理も萩原も無言だった。どうにも沈黙が重い。
「……えーと、蘭ちゃんのおかげで掠っただけで済んだし、痕も残らないらしいから、」
「──先輩」
沈黙を破り口火を切ったのは結加理だった。しかしそれを遮って萩原はゆらりと右手を持ち上げる。だがそれも行き所を見つけられなかったのか鳩尾の近くでグッと握りこぶしに変わった。
「……せんぱい」
もう一度結加理を呼んだ彼の声に張りが全く感じられない。それどころか揺らいでいるようにも聞こえた気がする。ギョッと様子を窺い見れば、萩原は沈痛な面持ちで一点を見つめていた。
眉間を寄せ、くしゃりと目元を歪ませ、への字に曲げた口元は時折力が込められて引き結ばれる。意を決したように僅かに開かれた口が躊躇の後に閉じられてしまったのは、言葉を選びかねているからなのだろう。
結加理が彼の肩に視線をやるが、そこで普段プラカードを振って単語を主張してくるぬいは何故かプラカードを抱きかかえている。その所為で文字が全く見えない。見えている状態が常であるがゆえに、見えないなら見えないで不安になるというもの。
「どうした? 萩ちゃん」
努めて柔らかい声色を意識して問いかけるのだが、更に萩原の表情が歪んでしまうのだから困惑ばかりが募る。
「先輩、が」
「うん」
「爆弾が仕掛けられた場所に居たって事と、刃物を持った男に襲われたって聞いて」
「うん」
「正直、あんま生きた心地がしなかった」
「……そっか」
可能ならもっと早く駆け付けたかったのだが、萩原も一警察官として職務に当たっていた最中だったのだ。当然ながら私情を優先させるわけにはいかず今に至るという訳である。──もちろんそんなことなど悟らせるような男ではないため結加理が気付くことはない。それでいいのだ。
緩やかに伸ばされた萩原の右手──その指先に所々色の違う箇所を見止めて結加理のまつ毛が微かに揺れる。七年前のとある事件の際、爆弾の解体中に彼が負った火傷の痕だ。
大きな手が結加理の額にかかった髪をそっと除けた。傷口を覆う小さなガーゼに触れないよう慎重に。
「怪我させられたのは許せねぇよ。でも、先輩の命にかかわるようなモンじゃなくて、良かったっ……」
「心配してくれてありがとね、萩原」
爆弾の威力もその恐ろしさも、萩原は身をもって知っている。きっと知らせを受け取った時に様々な懸念が脳裏を駆け巡ったことだろう。最悪の想像すら過ぎったのかもしれない。
松田が詳細を知らせなかったわけでは無いはずなのだが、実際に姿を確認するまで不安だったのかもしれない。気持ちは痛いほどに良く分かる。
萩原の心情を察しきれなかったことに内心歯噛みして結加理は僅かに肩の力を抜く。優しい指先が離れていくのを視界の隅に捉えながら、小さく眉を下げて苦く微笑むのだった。
2023/8/18/
支部にも投稿しました。
まさかの長すぎて分割。個人的に気に入ってるのはプラカードを見せてくれない萩のぬい。
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