「妻について、ですか」

諸伏高明は愛妻家である。それは周知の事実だった。
長野県警における一部署のみに留まらず、彼を知る者の中では知らぬ者は居ない程に。そして彼が愛妻家であるが故に敷かれた不文律というものが存在していた。

──諸伏高明には奥方に関する話を振るな。

なお、この暗黙の了解と化すに至った経緯、そこに込められた思惑や意図。それらについて当の本人である高明は詳細に把握していたりする。つまり彼にとっては些事である。
聡明かつ洞察力に富む彼が気づかないわけがないのだ。さもありなん。



◇



吹き付ける風は冷たく、時折霜が降りるようになってきた頃の事だ。時季外れではあるが一人の巡査部長が所轄署から県警本部に転属となった。その巡査部長である男は日々職務に当たりながら時折視線を方々へと巡らせている。とある人物を探していたのだ。
男の思いは至極単純。可能ならばその人物と話がしてみたい、というもの。強い憧れや尊敬の念が根底にあった。
──冷静沈着で頭脳明晰。類まれなる頭脳が導き出す推理と鋭利な決断力。誰もが見落としていた小さな手掛かりにも気付き、立証が難しいと思われた事件をいとも簡単に解決に導いた白皙の美丈夫。過去に何度か捜査を共にした警部の姿が忘れられなかったのだ。そろそろ四十代に差し掛かろうとしている年齢だと聞いたが、全くそうは見えずに驚いたものである。
この探している警部こそ、諸伏高明その人だった。
所属部署が違う上に行動範囲も一部を除いて重ならない。そもそもフロアが違うのだから仕方あるまい。配属から数日と経たないうちに邂逅できるなどとは男も考えてはいなかった。ゆっくりと機会をうかがっていこう、と思っていたのだ。

しかして、その機会は唐突に訪れる。
随所に設置してある自動販売機の前で偶然にも鉢合わせたのだ。

「お、お久しぶりです諸伏警部」
「おや、君は……」

缶コーヒーを片手に佇む高明を前に、男は一礼した。自然にピンと伸びる背筋。何故だか姿勢を正さなければならないような気持にさせられるのだ。
高明の様子を見た限り特に急いでいる様子もない。一息つきに来ていたのだろう、という想像は容易だった。
しかしなぜ別の階に所属部署があるはずの高明がこのフロアに居るのだろうか。そんな疑問が男の思考を掠めた。
──男が知らぬことではあるが、高明は情報交換と共有の必要性に駆られて他部署へと足を運んでいたにすぎない。その帰りに立ち寄っただけ、つまりは単なる偶然が呼んだ出会いであった。

「先日から、県警本部に配属になりました。部署は違いますが、よろしくお願いします」

若干の緊張を滲ませた男を前にして高明は自身の記憶を辿る。いかな高明とは言え、数回顔を合わせただけである相手までは覚えていなかったのだ。
それでもいつしかの合同捜査に関する記憶に辿り着く。一つ瞬くと口を開いた。

「そうでしたか、ようこそ県警本部へ。部署は違えど時に協力し合うこともあります。同じ県警に席を置く者同士、共に職務に励みましょう」
「はい!」

パッと表情を晴らした男は力強く頷く。無事に挨拶を終えられたためか、ほんの僅かではあるが緊張もほぐれる。
そしてふと、缶コーヒーを持つ高明の左手に視線が吸い込まれた。過去の捜査で度々顔を合わせた時、高明の左手に仄白く輝く指輪の存在に気付いていた。つまり既婚者であることは知っていた。
しかし一時的に取り組む案件が重なっただけの相手のプライベートに対してまで首を突っ込むような真似など出来なかったのだ。
加えて、捜査の最中にある以上雑談など出来るわけがない。男が高明と顔を合わせる時は決まって空気が張り詰め、緊迫しているのが常だったのだから。それも当然の事である。
過去に愛妻家だと耳に挟んだことがあるものの、前述の事もあって高明本人からは全くそんな話を聞いたこともなければ、素振りを感じたことも無かったのだ。
公私混合を良しとせず、仕事とプライベートの線引きを徹底しているのだろう。男がそう思ったのも無理はない。気にはなれど、余所の家庭について、ましてや尊敬すら覚えている相手に対して無遠慮に尋ねられるわけがなかった。
そわそわ、チラチラ。男が何かを言いたげに、そして何か聞きたげにしている。
あからさまな視線ではないが洞察力に優れている者なら容易に気付けるくらいには分かりやすい。そして自身の左手に向けられた視線を察せない高明ではない。とはいえ、わざわざ自分の方から水を向けてやるほど甘くは無いのだ。必要であれば、おのずと問うてくるだろう。そんな考えあってのことである。

「ところで、君も何か買いに来たのでは?」
「あ!」

指摘を受けて男は僅かに顔を上げる。
予期せず高明と出会ったことで頭から吹き飛んで行ってしまっていたが、本来の目的は飲み物の購入だった。特に迷うことなく温かいお茶のボタンを押せば、ガコン、と音を立ててペットボトルが落ちてくる。取り出し口からそれを取り出した男はじんわりと感じる熱さに顔を顰めながら蓋を開けた。
あたたかい飲み物で喉を潤して気が緩んだせいだろうか、はたまた思考の大部分を占めていたのも一因なのかもしれない。男の口から言葉にするはずの無かった問いが滑り落ちたのは殆ど無意識下の事だった。

「……諸伏警部の奥さんってどんな人なんですか?」

あ、と思うものの発した言葉は取り消せない。もういっそ開き直ってこのまま聞いてしまおう。職務中であると一蹴されるならば、それもそれで当然の事である。その時は潔く引きさがればいい。咄嗟に決意した男はグッと表情を引き締めた。

「えっと、ご結婚されてるのは知ってたんですけど、奥さんについての話は聞いたこと無かったな、と思いまして」

おいあの馬鹿。やめろやめろ。そんな囁きが背後から男の耳へと微かに届く。だが残念ながらそれで止まる繊細な心は持ち合わせていない。警察官など、ちょっとやそっとで折れるような心ではやっていけないのである。

「妻について、ですか」

平坦だが、どこか揺れるような響きを持った声が落ちる。
久しく聞くことのなかった問いだったせいだろう、高明はほんの一瞬言葉に詰まった。その空白を男は感じ取れない。次いで深く細く吐き出された息にも気付かない。
高明とて決してわかりやすい反応をしたつもりはないのだが、それにしても男は鈍かった。
僅かに睫毛が揺れ、視線が下がる。一拍の瞑目の後に高明の表情がフッと和らいだ。

「そうですね……概念としての春のような人、と言えばでしょうか」

そう告げて、高明は己の右手を顎に当てる。その眼差しが自然と向けられたのは窓の外。
男は考えていたような答えでは無かったことに思わず首を傾げる。

「概念、ですか?」
「ええ。春というのは陽光降り注ぎ寒さ和らぐ、命が芽吹き、花開き、育まれていく、そんな季節でしょう。実際の気候はどうであれ」
「あー、まあ最近は夏と冬しか無いのか? ってくらい極端ですもんね。なんとなく分かりました」
「ご理解いただけたようで何よりです。……とにかく優しく聡明。人の心に寄り添う気持ちがとても暖かで、春という例えが一番に浮かんでくるような、心身ともに優しく美しい人です。傍に居なくとも常に私の支えになってくれているくらいですからね」

高明の涼やかな双眸が柔らかく細められる。その拍子に長い睫毛が影を作った。

「そして何より妻は花がとても良く似合う女性でして、毎月彼女に贈る花を選ぶのに時間が掛かってしまうくらいなのですよ」

そう告げる高明の目は優しげに細められている。男が見たことのない穏やかな表情。
思い浮かべた相手を心の底から大切に思っているのだと、鈍い男でもハッと察せるほどに感情が滲み出ていた。
二人がこうして話をしている間にも幾人かが自動販売機に立ち寄っては去っていく。グッと唇を引き結んだまま足早に、もしくは話の内容を察して踵を返す。
男はそんな職員たちの後ろ姿を横目で見送って小さく肩をすくめた。何をそんなに避けたがるのか。こんなの微笑ましいくらいの惚気じゃないか。感じ悪いな。
この時の男は本気でそう思っていた。まだ高明と妻に関する暗黙の了解を知らなかったのである。

「はぁー、諸伏警部って本当に奥さんの事大好きなんですね。公私混同はしないのは重々承知ですけど、しょっちゅう思い出してるんじゃないんですか?」

その言葉に高明は目を瞬かせた。誰かから改めてしみじみとそう言われるのは久々だったのだ。
自然と口端が上がり、形の良い唇が弧を描く。
妻の存在が高明自身に深く根付いているというのは至極当然の事実。もはや言うまでもない事だった。近頃では高明の事情を知る者が多い故、公然と話をする機会は徐々に減りつつある。だからこそ、それをはっきりと他者に明言できるというのは少なからず嬉しさを感じたのだ。
ほんの小さく吐息をこぼして高明は口を開く。

「──ええ。事あるごとに思い出していますよ。瞼を閉じれば、妻の姿が思い浮かぶほどに」

深く沁みわたるような不思議な声色だった。
直接的な愛の言葉など含まれていないというのに、どうしてかそれを聞いた男の方が落ち着かない気持ちになってくる。この場に居ない者に向けての鮮烈な告白を目の当たりにしたような、己が聞いてはいけないものを聞いてしまったような心地だった。
落ち着きなさげに視線を彷徨わせた男は、不意に身体を硬直させた。いつの間にか廊下の向こうには自身の教育係が立っていたのだ。彷徨わせた視線が見事にかち合う。険しい表情ではなく真顔な所に感じる妙に迫力。
ここにきてようやく、飲み物を買ってくると一言残して出てきてから大分時間が経ってしまっていたことに気付いたのだった。

「うわっすみません諸伏警部、俺もう戻ります! お話ありがとうございました!」
「いえ、健闘を祈ります」
「恐縮です!」

状況を察した高明から励ましを受けた男は、勢いよく一礼すると小走りで駆けていった。これは逃げではなく教育係がなかなか戻らなかった自分を探しに来たためである、などと脳内で若干の言い訳をして。
まあ、そうでなくとも高明から発せられる空気に若干あてられた感は否めないが。
慌ただしく立ち去った男の背を最後まで見送ることなく、高明もまたその場を後にした。



──燃えるような激しい恋ではなかった。波乱が一度も無かったと言えば全くの嘘になるが、穏やかで慈しみ合うような恋だった。互いに尊重し合うようなそれをきっと愛と呼ぶのだろう。少なくとも高明はそう思っている。
妻と共に積み上げてきた数多の時間はどこまでも優しさで満ち溢れていた。何ものにも代え難く、かけがえのないものばかり。
瞼を閉じれば思い浮かぶ、懐かしき日々に思いを馳せて高明は静かに息を吐いた。


■2024/2/29/
導入編が終わったので次から過去編。


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