「状況を鑑みれば当然のことです」

出会いは特にロマンチックなどとは言えないものだった。なんてことのない日常の延長の中にあった一幕。
強いて一場面を切り取るならば、酷く雨が降っている日だったことを明記しよう。
土砂降りの中、人通りも多くない通りでスーツケースを持った彼女が途方に暮れていた。そこに車で通りかかった高明が傘を貸した。言葉にするならばこれが全てである。
そう言うと決まって「十分ロマンチックじゃないか」などと言う反応が返ってくるのがお約束のようになっている。
しかし、本当にロマンチックな雰囲気とはかけ離れていたのだ。何しろ高明は後に妻となる彼女から警戒心を抱かれてすらいたのだから。


■


──途方に暮れていた彼女を見つけたのは本当に偶然だった。
天気予報では軽く降る程度だと言われていた雨。それが叩きつけるような勢いへと変わってきたのは昼過ぎの事。予報が外れて肩を落とす者は少なくなかった。
所用のため早上がりだった高明もまた、強まった雨脚に多少なりとも辟易していた。雨の日の運転を好む者はあまり多くはないだろう。降りしきる雨がフロントガラスを叩けば容赦なく視界を奪われ、車体を叩けばその雨音で周囲の音を遮断される。それだけ通常よりも運転に気を遣うのだ。
雨に視界を遮られながらも高明の眼は周囲の状況を的確に拾っていく。自分の車を持つようになって早数年。慣れたものである。
そんな悪条件の中、ふと視界に入り込んだ人影。自然と視線はそちらに引き寄せられる。
反対車線のさらに向こう側、雨の当たらない軒下にポツンと佇む一人の女性。スーツケースを片手に身を縮こまらせている姿がどうにも頼りなく思えてならない。その姿を確かに見止めた高明は意識を一瞬だけ彼女に持っていかれた。しかし気を逸らしたまま運転できるわけもなく、僅かにハンドルを握る手に力を込め直す。
そのまま車を走らせることしばらくして、深く息を吐いた高明は路肩に車を停めた。車内に響くのはウインカーの音と雨が車体を叩く音、そして雨音にかき消されそうなラジオの音ばかり。
一度通り過ぎはしたものの気になってしまったのだ。長年の経験からか、はたまた一刑事としての感覚が訴えかけているのか、先程の女性を放っておいてはいけないような気がした。雨はまだ弱まる気配を見せない。そして考えること数拍。高明は車をUターンさせた。

(遣らずの雨に降られたというだけならば、せめて傘だけでも)

女性の姿を確認した場所からは少しばかり距離を開けて車を停めた。ドアを開けて傘を広げる、そのたった数秒の合間に顔や肩に雨粒が当たるのが煩わしい。外の気温は少し下がっていたのか感じるのは肌寒さ。そのままドアにロックをかけると、先程は横目に通り過ぎた軒下へと足を進めた。
雨を含んだ砂が靴の裏で音を立てる。じゃり、という耳障りな音がやけに耳を突いた。

「……っ、」

雨音にかき消されそうな程に小さくはあるが、女性が僅かに息を呑み、身を強張らせたのが高明には分かった。
突然近くに止まった車。降りてきた見も知らずの男。その顔は大きな傘で隠れて殆ど見えない。彼女から見れば不審極まりないであろうことは高明とて重々承知している。これで警戒しないというのであれば余程豪胆な精神の持ち主か、警戒心が薄い人物か、といった所だろう。むしろ警戒されなければ逆に心配になるくらいだ。
傘を半分だけ緑下に入れるような形で高明は歩みを止めた。あまり不用意に近づくつもりはなかったのだ。それは今目の前に立っている女性に配慮した形でもある。近距離に立ったことで、通りすがった時に抱いていた印象よりも女性が華奢であることに気付いた。
あいにくの雨で昼日中だというのに周囲は薄暗い。その所為かあまり血色が良いようには見えず、それも相まって浮世離れした雰囲気を感じてならなかった。ふと目を離したら消えてしまいそうな人だな、と高明は漠然と感じる。

「この雨の中いかがいたしましたか」
「──、」

はくり、と彼女の口は動くものの明確な返答はない。答えあぐねいているのだと察せない高明ではなかった。雨音だけが二人の間に落ちる。時折大粒の雨垂れが高明の傘を叩いて、ばた、ばた、と鈍い音を立てた。
あからさまでは無いとはいえ、空気は張り詰めていた。無理からぬことだ。残念なことに女性と言うだけで警戒せざるを得ないことが多いという事実を高明は知っている。だから、こうして声をかけだけでも警戒心を抱かれるというのは予想の範疇だった。

「突然不躾に失礼いたしました。非常に困っていらっしゃるようでしたので、思わず声をかけてしまいました」
「……いえ」

丁寧な高明の態度に、彼女の肩から僅かに強張りが解ける。しかし完全に解かれてはいない。どこか疑わしげに探るような、警戒を含んだ瞳。真意を見極めるかのように真っ直ぐな視線が高明へと向けられている。
職業柄、意味の差こそあれど懐疑的な視線を向けられることには慣れている。聞き込みの際に手帳を掲げれば怯まれることは少なくない。協力的、友好的な者も多いが、それと同じくらい嫌悪や畏怖を向けられることも多い。
まあつまり、現時点で高明は特に気にも留めていなかった。
何も彼女のことを疑っているわけではないのだ。不審人物であるか、そうでないか。それが分からないほど高明の目は曇ってはいない。車を走らせているときに見えた彼女の姿は純粋に途方にくれていた。……これで彼女が何かしらの罪を犯して逃亡を企てている者だったとするならば大した演技派である。直接目の前に立った時ならばともかく、運転中のあの一瞬でそう思わせたのだから。

「見たところ傘をお持ちでは無いように見えますが」
「……先程まで使っていた折り畳み傘が折れてしまいまして」
「それは、災難でしたね」
「ええ本当に」

この本降りになってしまった中でとんだ災難に見舞われたものだ。
更に聞けば、水を盛大に跳ねた車を避けようとして電信柱にぶつけてしまい傘の骨の一本が駄目になったらしい。長年使用していたこともあり寿命だったのだ、と彼女は力なく笑った。全くもって状況としては笑えないのだが。
タクシーを拾おうにも車の通りがあまり多くない所為でつかまらず、今に至るというのが事の顛末のようだ。こうしている間も未だ雨脚は弱まる気配を見せない。ふむ、と一つ頷いた高明は手に持ったままの傘を彼女へと差し出した。

「よければこちらをお使いください」
「い、え、それは……」

しかし彼女は慌てて首を横に振る。その手はスーツケースの持ち手を握りしめたままだ。
見も知らずの他人のために、わざわざ車を停めて降りてきてまで傘を貸すなんて余程の人格者でも無ければ考えられない話だろう。高明が逆の立場でもそう思う。
何かを企んでいるのではないか。受け取るわけにはいかない。そんな不信感が微かに見え隠れしている。

「私は車ですから気になさらず受け取っていただきたいのですが……」

そもそも高明としては最初から傘を渡すつもりで車を降り、声を掛けたのだ。一度断られたからと言ってこのまま放っておくのも気が引ける。

「あの、ですが、貸していただいてもお返しできません」
「返却は結構ですよ。差し上げます」
「いえ、そういうわけには……」
「気が引けると言うのでしたら、せめて折り畳み傘を」

そう言うや否や高明は後部座席のドアを開けた。助手席に同僚を乗せることが多いため、自然と荷物を後ろに置くのが常になっているのだ。自身の鞄から目当ての折り畳み傘を取り出し彼女へと差し出す。
背を向けている間に、押しが強いな、と彼女が半眼になった一瞬を幸か不幸か高明が見ることはなかった。

「袖振り合うも他生の縁、と言いましょう。これも何かのご縁です。ただ困った人を放っておけなかっただけですから受け取っていただければと思います。もし貴女が気になると言うのであれば、そうですね……同じように困っている誰かに傘を差し出してあげてください。それで充分です」

その言葉に彼女ははっと目を開いた。高明が本当にただの親切心から声をかけてきたのだ、とようやく完全に肩の力を抜いたのだった。
固く握りしめていた手を解き、差し出された折り畳み傘をおずおずと受け取る。

「あ、りがとう、ございます」
「いえ。……ああ、他にお困り事はありませんか?」

傘を受け取ったものの表情は完全に晴れない。そのことに気付いた高明は気遣いの言葉を付け加えた。職務内容によっては困っている市民に声を掛けることもある為、慣れたものである。交番勤務時など最たるものだ。
しかし職務外でこうまで行きずりの他者を気に掛けるというのも、如何な高明とはいえ珍しい事だった。

「度々お気遣いくださり、申し訳ないです。……実は、その、今日長野に着いたばっかりだったので、この辺りの地理が分かりません。親切に声をかけて頂いたついでで申し訳ないのですが、この辺りの住所を教えてはいただけないでしょうか」

最初からタクシーを呼べばよかったのだろうが少し歩いたところで雨に降られてしまった。タクシーを呼ぼうにも正確な住所がわからず雨脚が弱まるのを待っていたのだ。そう告げ、憂を帯びた表情で彼女は視線を塗れた地面に落とす。
──まだ主に普及している携帯端末が折りたたみ式のガラパゴス携帯の時代である。正確な現在地も表示されずに困っていたのだ。
そういうことならば、と高明は頷いた。自身のアパートもこの近くと言うこともあってこの周辺のことならば大体は把握している。自身の記憶にある住所を告げようとするも、はたりと動きを止めた。
この場にタクシーを呼ぼうとするならばこのまま高明が電話を掛けた方が話は早い。二度手間にもならない。
頷きから一拍置いて、おもむろに電話を掛けだした高明に彼女は肩を揺らした。目の前で交わされている会話の節々からタクシーをこの場に呼んでいるのだと察して思わず目を剥く。あまりにも至れり尽くせり。こんなにも気遣いを向けられる意図を推し測り切れず、困惑の気持ちばかりが募っていく。

「タクシーを一台お呼びしました。……この辺りはまだ治安が良い方ですが人通りは多くありません。なるべく女性が一人で居るのは避けた方が良いでしょう」
「お気遣い、痛み入ります」

舞い戻ってきてしまった不安に眉が若干下がってしまっている彼女に気付きはしたものの、高明は特にそれを指摘することはなかった。

「出過ぎた真似と思いはしましたが、長野にいらしたばかりだと仰っていたので一番近くにあるタクシー会社から呼ばせていただきました」
「あの、非常にありがたいのですが、どうしてここまで……」
「一県民として、せっかくこうして訪れてくれた方に嫌な思い出は少なくあってほしいと思ったまでです。……長野は良いところですよ」

生まれ育った土地だ。良く思って貰いたいというのは自然の心理だろう。決して、良い事ばかりが満ち溢れていた日々では無かったが、彼女に告げた事は本心だった。

「もし貴女の気持ちが落ち着かないと言うのであれば、こちらを。それから……何もないことが一番ですが、何かあればご連絡ください」

僅かに逡巡したものの高明は懐から名刺入れを取り出し、その中身を彼女へと一枚手渡す。小さな紙が名刺であることに気付いた彼女はハッと顔を上げて受け取った。そして、見る見るうちに愁眉が開いていく。
パシパシと目を瞬かせ名刺と高明を交互に見やるその仕草には驚きが滲み出ていた。どこか幼さを感じさせて高明の目が僅かに細められる。名前よりも別の場所に目が吸い寄せられたのだと容易に察せた。

「長野、県警……お巡りさん……刑事さん?」
「はい。そこに記されている通り、長野県警の者です。姓を諸伏、名を高明と申します」

頷きと共に肯定する。しかしいつもならば流れるように告げるあだ名を高明の口は紡がない。今はむしろ彼女にとって邪魔な情報にしかなり得ないと思ったからこその判断だった。

「何で、最初から教えてくだされば……」
「出会い頭に見せたところで、おそらく貴女からの信用を得るには至らないと思いました」

その言葉に彼女は僅かに目を見開いた。警戒心を抱いたことを悟られていたと知って、表情が申し訳なさげに曇る。

「……すみません」
「いえ、責めているわけではありません。状況を鑑みれば当然のことです。風声鶴唳といえば聞こえは良くないかもしれませんが、むしろ警戒していただいた方がある意味こちらとしては安心します。偽物の名刺や警察手帳を見せびらかすような、警察を騙る詐欺も確認されていますから、余計に」

名刺を受け取った彼女がすんなりと信じ警戒心を完全に解いたのは、事前の会話、決して無理に距離を詰めようとしなかった点が作用しているのだろう。高明はそれを正確に推測していた。
警察と言う言葉だけでも一般人の中には戸惑う者、委縮する者、時に顔を顰める者も居る。取り締まる側であるが故にあまり印象を持たれていないこともある。そんな職業である事は重々承知の上。それでも、彼女から負の感情を向けられなかったという事実にどこか心が軽くなった。

そんな会話の合間にタクシーが到着する。一言二言運転手と言葉を交わすと、高明は自動で開いた扉に手を乗せて彼女を後部座席に促した。

「あの、何から何まで、本当にありがとうございました」
「いえ。礼を言われるまでもありません。道中お気をつけて」

言い終わるや否や後部座席のドアがゆっくりと閉じられていく。
これが一度目の出会い。瞬きの間の邂逅は呆気なく終わりを告げた。僅かに残された余韻を感じながら高明はタクシーを見送る。
余程のことが無い限り再び出会うことは無いだろう。そう思いすらした。何しろ長野と一言で言えど範囲は広いのだ。そして、警察官としての高明とは出会う事など無い方が良いのだから。

しかして、再会は思っていたよりもすぐに訪れた。──後に高明は周囲へと惚気混じりにこう述べる。ある意味での運命だと思いたいくらいだった、と。


■2024/3/24/
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