ずるい大人になるしかなかった




髪が風になびけばお気に入りのコロンの香りがした。昨日の潮の香りはお風呂に入れば簡単に消えてしまい、洋服だって洗濯をしてきたので汚れもない。すべてがなかったことになってしまう気がして、それを不思議と嫌だと思う。楽しかった、弱さを見せた、それでも元気をもらえた。言葉ではいくらでも綺麗に片付けられる時間にいつまでも名残を求めているような不思議な感覚。

カフェの入り口に置かれた臨時ニュースの新聞に目を向ける。そこには防衛成功の文字が書かれており、この照れ臭さは何度経験してもきっと慣れることはない。今日もいいバトルだった。パートナーたちをポケモンセンターに預け、いつもであればすぐに取り掛かる書類や事務仕事もあれやこれやと言い訳をつけて後回しにしてしまった。普段ならこんなことしないのに。サボっているわけではないのにほんのすこしだけ悪いことをしている気持ちになる。そんなことを話せば考えすぎだと怒られてしまうだろうか。

夕方。ただそれだけで場所を指定しなかったのは怖かったからだ。もしも会えなかったときに、相手に会う気がなかったときにただカフェにお茶をしにきたと理由をつけられるから。ずるい大人の考えだ。それでも、ずるい中でも、すこしだけ運命を信じてみたかった。私が思い描いた場所に来てくれたらなんて賭けのような運命を。

「チャンピオン、もう一杯いかがです?」

「あー…じゃあいただきます」

「ブラックコーヒーなんて珍しいですね」

「今日はそんな気分なんです」

「なるほど。すぐ参りますね、お待ちください」

カフェのマスターにニコリと笑顔を向けてから窓の外を眺める。夕日は時期に沈む。自分でつけた言い訳であったはずなのに、こんなことなら場所を指定すればよかったとすら思ってしまう。そもそも会ってどうするんだ。わからない。というよりは何も考えていない。ただ会いたいという衝動だけで動いてしまうなんて。

「お待たせしました」

「ありがとうございます」

湯気を立てながら私の目の前に置かれたブラックコーヒー。それからエネココア。マスターに意味を聞くよりも早く、私は後ろを振り返っていた。これでは待っていたことがバレバレだ。

「見つけた」

「こんにちは、グズマさん」

「あのなあ、いや、こんにちは」

何か言いたげな白もじゃは言葉を飲み込んで私の隣に座った。途端に恋しかった潮の香りがする。その香りに信じていた運命は少しズレていたことを知らされ、思わず口元から笑みがこぼれた。

「何笑ってんだよ。来ちゃいけなかったのか」

「いえ、海に行ったんだなあと」

「なんで知ってんだよ」

「潮の香りがします」

「場所を教えねえおまえが悪い」

「ごめんなさい」

それでもちゃんと来てくれたんですねと笑いかければ白もじゃは視線を泳がせたあとエネココアを口に運んだ。相変わらず似合わない。せっかく来てくれた相手にそんな失礼なことを言えるはずもなく、私も静かにブラックコーヒーを飲む。苦味が高ぶる気持ちを落ち着けてくれるようだ。

「今日勝ったみたいだな」

「おかげさまで」

「見てた、テレビで」

「ありがとうございます」

他愛もない会話の中で白もじゃが困っているのがわかった。どうしたものか。これで理由もなくただ呼び出しましたなんて言えばさすがに怒られる気がする。嘘はつきたくない。ましては白もじゃにだけは。だとすれば正直に話して怒られるしか道はなかった。

「今日、呼び出したことに意味はないんです。ごめんなさい」

案の定、白もじゃは目を見開いて私を見た。それでも伝えなければいけないことがある。理由はわからない。わからないからこそ、そのまま伝えなくては。

「ただ会いたかったんです。大事なバトルが終わったあとに会えたらいいなって思ったんです。そしたら、昨日みたいに気持ちが落ち着く気がしたんです」

小さな頃のようにまた明日と誰かと簡単に約束をするには随分と大人になりすぎた。あれこれ理由をつけてみたけれどただ会いたかっただけ。口に出したことで自分の思いを再確認する。

「それって、あ、いや、そうじゃなくて、その、気持ちは落ち着いたのか」

「はい、会えてよかったです」

「ならいいけどよ」

残りのエネココアを飲み干した白もじゃはもしかするとこのまま立ち去ってしまうかもしれない。引き止めようにも私にはこれ以上引き止められる理由を持ち合わせていなかった。黙って白もじゃの行動を見つめていると、立ち上がることなく私を見つめる。

「このあと時間あるのか」

「仕事は終わりなので大丈夫です」

「なら少し外歩こうぜ」

思わぬお誘いに私は慌ててコーヒーの残りを飲み干した。