サラシバ


bug04


 梅雨に入るより前に、わたしは体調を崩した。
 空は重い雲が圧し掛かるような曇天だったように思う。吐き気と寒気が酷くなり、とてもじゃないけど学校へは行かれなかった。母が学校に連絡を入れてくれた後、気分はだいぶよくなったが、それでも何となく身体が重く、午前中はずっと布団の中で過ごした。
 母は仕事で家を出ていたから、わたしは一人きりだった。
 昼過ぎに、電話が鳴った。
 何だか嫌な予感がして、留守電のまま放っておいた。ピーッと強い電子音が鳴り、そして声が聞こえた。
『あ、夢子? いねぇの? 寝てる? おーい、電話出ろよ。お前なに勝手に休んでんの? オレ、学校来ちゃったじゃん。マジであり得ねぇんだけど。寝てんの? 風邪? おーい、早く出ろよぉ、おーい』
 彼の声が焦れていくにつれ、わたしの指先は氷のように冷たくなっていった。
 震えが止まらない。
 ひんやりとした汗が溢れてきた。
『夢子!』
 雷のような声に心臓が撃たれ、わたしはビクンと跳ね上がった。
『……チッ、いねぇのかよ』
 ガチャガチャと荒い音を立てて電話は切れた。
 心臓が不安定に暴れている。
 目が回っているようで、くらくらした。
 何が起きたのか、よく分からなかった。
 どうしてあんなに怒るのだろう。病人を罵倒する人間がいる、という事実が理解できなかった。どうしてあんなに怒るのだろう。どうして。胃がキリキリと痛み出す。
 わたしが何か不味いことをしたのだろうか、病欠はそんなにも不味いことなのだろうか。

 彼は、一体「何」なのだろう。

 ふと、急に恐ろしさが込み上げてきた。玄関まで走り、鍵が掛かっていることを確認する。窓もしっかりと鍵を閉め、カーテンを引いて、電気を消した。彼には自宅の場所を教えていないから、きっと杞憂だと思いたいが、それでもわたしは恐ろしかった。
 メッセージが残っていることで、電話の中に彼が存在しているように思えてしまい、震える手でメッセージを消した。布団を被り、両親が帰るまで無事に過ごせるよう、一秒でも早く両親が帰るよう、彼がわたしの家に辿り着かないよう、ただただ祈って過ごした。
 けれど、その祈りはどこにも届かなかった。
 ピンポーン、と無機質に間延びした音が、布団の外側、家の中に響き渡った。
 全てが凍り付く、とはあの時のような有り様を言うのだろう。わたしは息をするのも忘れて、布団の中で固まっていた。
 どうやって場所を突き止めたのだろうか。先生に訊いた、などと平穏な話ではあるまい。何か……わたしは何かバレるようなことをしただろうか。電話番号は教えてしまったが、住所は教えていない筈だ。帰りに送ると言われても、今までそれだけは頑なに断ってきた。どの辺りかは察しがついているかもしれないが、具体的な場所は知らない筈だ。
 人を使って調べたのだろうか。いや、直情的な彼のことだ、家の場所を知っていたら、電話などせずにまっすぐここへ来ただろうし、調べたのが昨日の今日であれば、誰かを使うような手間は掛けないだろう。
 ……誰かが彼に教えた?
 友人の顔が思い起こされる。訊かれたからと言ってそのまま教えるだろうか。……きっとそうだろう。教えなければ、何をされるか分かったものではない。
 ピンポーン。
 二回目の呼び鈴が鳴った。
 ドア一枚向こうに、彼がいる。まだいる。イライラと焦れている彼の姿が目に浮かぶ。わたしの名を叫び、乱暴にドアを殴る、そんな光景が想起され、わたしは目をギュッと瞑った。
 けれど、現実には怒鳴り声など聞こえてこなかった。
 ピンポーン。
 二回目からあまり間を開けずに三回目の呼び鈴が鳴り、わたしはゆっくりと布団から頭を出した。
 ドアを殴る音もない。
 時計を見ると、十三時を回ったところだった。
 ひょっとすると宅配か何かかもしれない。
 受け取らなかったら、母に何か言われるだろうか。クラスメイトの不良が来るかもしれないと怖くなって出なかった、と正直に言ったら、母はどんな顔をするだろうか。

「荷物くらい受け取ってくれてもいいじゃない」

「もしかして、そんなことで休んだの?」

「ダメよ、頑張らないと。先生にはきちんと相談したの?」

 母の声が脳内を行き来する。
 わたしは布団から出て、玄関へ向かった。きっと大丈夫、寧ろ急がなくては配送の人が帰ってしまう。それでもいつもの癖でドアスコープを覗くと、そこには友人の姿があった。
 友人は項垂れていた。ドアスコープ越しにも分かるほど、その顔は赤く腫れ、歪んでいた。左の頬、ちょうど羽宮一虎がよく痣を作る場所が痛々しい色をしている。
 わたしは反射的にドアを開けた。友人の名前を呼び、声を掛けると、友人は泣き出した。
「夢子ちゃん」
 声の方を見ると、羽宮一虎がいた。


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