サラシバ


庭師、月へ。(前編)



『月にはね、大きな木があるんだよ。とても大きくて、優しい木なんだ。チト、いつか会っておいで……』

 記憶回路に刻まれた、老いたドクターの声。
 チトに残された唯一のタスク。
 地上から見上げるそれは、ここから38万キロの彼方にあるが、月面旅行が一般化してからもう百年以上も経過している今となっては、けっして遠い土地ではなかった。

 チトは、ずっとずっと昔、ドクターの手によって作られた旧式アンドロイドだった。性能は、一流のエンジニアでもあるドクターの手によるものだから、折り紙付きと言ってよかったが、とにかくデザインが古臭かった。一応、人を模してはいるが、下半身はどっしりと重たい。良心的な表現をするなら、可愛い戦車、といったところだ。
 周囲に「ドクターの作品の中で一番ダサい」と言われても、ドクターは「これがいいんだよ」とニコニコしていたものだった。
 丁寧に丁寧にメンテナンスを重ねられ、機能も色々と追加された。外見に少しずつ変化があったものの、今日の今日まで変わらず元気に(アンドロイドに適切な表現かどうかはさておき)やってこれたのは、全てドクターのおかげだった。

 ドクターが老衰で静かに眠りについた後、ドクターの子供たちは、チトを自分たちの庭へと雇い入れようとはせず、廃棄処分にすると決めた。子供たちの家には庭がなかった。それどころか、この地球上に「庭」がある家などそうそうあるものではなかったのだ。

 庭もドクターも失ってしまった今、チトに存在意義はなかったが、チトの中ではたった一つだけタスクが残されていた。

 月へ行こう。

 そう、「優しい木」に会うのだ。チトの自立型AIはそのように決定した。
 ドクターの子供たちは気付かない。チトの内部にタスクが残っているとは思わなかったし、まして、ドクターの家から勝手に出ていくなどとは思いもしなかった。
 チトは何の困難もなくドクターの家を出ていき、外の世界へと向かった。

 太陽光をエネルギーに変換し、チトはブンブンとモーターを鳴らして進んでゆく。ルートはインターネットを通じて把握していたし、もちろん、月へ行くには金がかかるということも把握している。
 チトには作戦があった。

 月面には、ドクターが長年勤めていた大きなラボがあった。そこに、一人の研究者がいる。何度か、チトのプログラムの事で関わったことがある人物だった。
 インターネットで確認すると、その人はもう退職済みで、月面の都市に住んでいるという。チトは研究者にメッセージを送信した。
 研究者はひどく驚いたようだった。
 まず第一に、ドクターの死に。それから、自立型AIとはいえ、庭師アンドロイドがメッセージを自分に送信してきたことに。
 何度か受送信を繰り返し、研究者はチトに協力しようと言った。
 幸い、月面行きのチケットはすぐに取れ、チトはその番号を手に入れた。

 チトのレトロな外見は周囲の目を引いたが、チトはそれを気にする様子もなく、20時発の月面行きシャトル537便に乗り込んだ。

 そして、537便は月の大気圏に突入する前に事故を起こし、多くの人命が失われた。実に33年振りの事故だった。

 見るに堪えない様々な欠片が宇宙空間を漂う中、チトもまた少なからぬダメージを負っていた。
 人間を傷つけてはならない、と全てのアンドロイドが持つ基本プログラムが悲鳴を上げた。

 チトの時計で1時間47分後、異変が起きた。
 月面から、レーザー光線のようなものが地球へと走った。チトは「危険」と判断したが、無重力ではどうすることも出来なかった。チトの身体は光に巻き込まれ、そして包まれた。

 光から吐き出されると、チトは地上に落ちていた。
 インターネットへアクセス……現在地を探ろうとするが、なかなかうまくいかない。故障を疑ったが、そうではなかった。
 チトは月面にいた。
 月面のネットワークチャンネルは、地球のそれとは少し異なるようだった。地球を出る時には簡単にアクセスできたのに、と疑問は残るが、それはチトの行動を妨げるものではないから後回しにした。
 メールシステムを使って研究者にメッセージを送ったが、宛先不明で戻ってきてしまった。何かがおかしかった。

 チトは元々、検索用のアンドロイドではないから、作業はなかなか捗らなかった。おまけに、何度調べても西暦2105年より新しい地図が出てこなかった。
 やはりおかしい、と現在の時刻を確認すると、西暦2105年7月26日14時32分だった。
 理由は判然としないが、恐らく先程巻き込まれた光が関わっているのだろう。しかし、キャパシティを越えようとしたらしく、思考プログラム保護用のストッパーが働き、その辺りの分析は後回しになった。

 月面の町はずれ、観光スポットにもなっている大きな大きなクレーターのある辺り。把握していた月面地図と、町の規模などが違っていたが、とにかく現在地は判明した。
 チトはインターネット検索を続ける。
 月面にも小さな森のようなものはあるが、ドクターは、「木のあるところは地図に載っていない」とも話していた。地図にない森を探すために、月面に関する情報を片っ端から閲覧する。しかしどの情報もあまり当てにはならない様だった。
 
 一番近い町まで2キロほどある。
 まずは町まで移動し、そこで改めて情報を集めることにしたが、いざ移動を開始しようとしたら、モーターが情けない音を立てて停止してしまった。
 モーターが動かなければ、移動することなどできない。
 チトは、ゴツゴツとした広い大地を這って移動する方がいいか、ここで助けを待つ方がいいか、計算し始めた。

(つづく)

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