サラシバ


プロローグ 此岸にて



 薄い霧のせいか、少し肌寒いな、と総司は思った。
 胸の奥まで、さわりなく空気が流れ込む。久々の感覚だった。
 目の前には流れの緩やかな川が、広く広く海のように横たわっている。向こう岸は随分遠いようで、全く見えなかった。
 こっちですよ、と男の声が聞こえた。見れば、傘を被った船頭らしい男が手を挙げている。
 近づくと、足元にはボロ板で狭い桟橋が設置されていて、質素な小舟が浮いていた。

 なるほどここか、と気付き、懐から銭を出す。
「いいんですかい」
 訊かれて、総司は苦笑した。だって、どうしようもないじゃないか。
「いいんだよ」
 男は骨ばった手でそれを受け取り、まいど、と言った。

 腰を下ろすと、船はすうっと静かに動き出した。
 未練がないと言えば嘘になる。自分にはまだやることがあると信じたかった。けれど、もうこうなっては仕方があるまい。

 僕は終わったんだ。

 我知らず、安堵にも似た溜め息が出た。
 もう僕には何もないんだ、いっそ気持ちがいいじゃないか。肩の荷も降ろして、身軽になったんだ。そう思えばいい。
 ふと、出たばかりの岸から呼び声がかかった。遠い、少し懐かしくもある声だった。
「どうします」
 船頭が訊いてきた。先程の声が聞こえたらしい。妙に親切なやつだ、とおかしくなった。
「行ってくれ。あいつにはもう会いたくないんだ」
 へい、と頷き、船頭はまた静かに漕ぎ出した。
「清々するよ」

 旦那、と船頭は手を止めずに声をかける。
「あいつってのは、どんなやつなんです」
 総司は川面に目を落とし、うん、と言った。

 嫌なやつだった。
 あいつの事は、始めから最後まで嫌いだった。

 そうだ、あいつの事も、この船の上に置いていこう。川幅もだいぶあるようだし、胸や喉の透き通る感じも心地よい。久しぶりに、長話するのも悪くないか。




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