サラシバ


きっと生き延びる(かまど家の子孫)


 何処をどう走ってきたのか、随分と山奥に踏み込んだようだった。目の前は霞み、喉の奥から胸のあたりがひゅうひゅうと痛む。
 どうしてここに居るのだろうか、どうして走っているのだろうか。一体何処から何処へ向かっているのか。頭の中は視界同様、ぼんやりと滲んでしまって、何が何やら分からなくなってしまっていたが、そんなことはどうでもよかった。
 行かなくては。
 喘ぎながら、倒れかかった身体を無理矢理に起こし、前へ進もうとした所で、弱った肺が悲鳴を上げた。激しく咳き込み、たまらずうずくまる。息ができず、引きちぎるように自分の胸を掴んでいた。

 いやだ、いやだいやだ。
 くるしい、たすけて、しにたくない。
 だれか。

 離れた所で誰かの声がした。叫んでいる。
 声は近づき、やがて身体を揺すられ、耳元で何やらわめかれた。
 小さな手が背中に触れる。
 子供だ。
 心配そうにこちらを覗き込む、背中をさする、耳元で力強く声を掛けている。
 三人いるようだった。

(だいじょうぶ、おちついて。
 ゆっくりいきをして。

 おれ、かあさんよんでくる。)

 こちらを覗き込んでいた子供が、ばたばたと走っていく。
 右手側から背中を摩っていたのは女の子だった。反対側にいたのは男の子で、どうやら一番の年長のようだった。
 何て無様なんだろう。少しーーー覚えてはいないがきっとほんの少しなのだ。ーーー少し走っただけで藻掻き苦しみ、挙句、子供に介抱されるだなんて。

 俺は何処へも行けないのか。

(たけお、はなこ。

 かあさん。

 たいへん、どうしたのかしら。

 すこしおちついたみたいだけど。

 くるしいのね、だいじょうぶ、だいじょうぶ、ゆっくり。
 ……よかった、ひとまずうちへ。

 あるけるかい。)

 男の子と、恐らくはその母親であろう女性に左右から支えられ、もたもたと歩いた。

 日溜まりの匂いがした。
 懐かしいような、温かい、ふんわりとした匂いだ。

 暫らく歩いた先に、その一家の住む小屋があった。今はそこで布団に入り、天井を見ている。
 母親、男の子が二人、女の子が一人、赤ん坊のようにまだ幼い子が一人。父親は不在のようだった。まぁこんなご時世だ、父親が在宅している方が「普通ではない」のかもしれない。
 喉の奥が鉄臭い。さっき咳き込んだのが原因だろう、血を吐いたか、いつもの事だ。

「おにいちゃんは病気なの?」
 少女は「ハナコ」という名前だった。心配そうに、ずっとこちらを見ている。
 うん、胸が悪いんだ。
「つらい?」
 そうだな、たまに。けど、もう大丈夫だ。
「花子、あまりしゃべらせるな。また咳き込んだら大変だろう?」
 母さんを手伝ってこい、と男の子が言うと、ハナコは大人しく従った。

 布団の中に、すーっと溶けてしまいそうだった。気持ちよく微睡む向こうで、子供たちの声がする。乾いた土の匂い、切ったばかりの木の匂い、踏まれた草の汁の匂い。火を焚く匂い、鍋に味噌を溶く匂い、糠床の匂いも混じっている。川魚か何かを焼いているような……あぁ、もうそんな時間なのか。

 身体を起こし、自分に呆れてしまった。
 俺は何をしているんだ、こんな所で。何をのんびりしているんだ。
 行かなくては。

 でも何処へ?

「お夕飯ができましたよ」
 声を掛けられて、はっと顔をあげた。食べられますか、と訊かれて慌てて頷いた。
 正直、腹は減っているような減っていないようなおかしな感じだった。それでも食卓の匂いは魅力的だった。質素だけれども温かい。
 魚は兄のタケオが釣ったのだ、とハナコが忙しく説明していた。今日はいつもよりも沢山釣れたから、と俺に勧める。お前が釣ったわけじゃないだろう、とタケオが言い、シゲルーーー母親を呼んできた子供だ。ーーーがケタケタと楽し気に笑う。そうこうしているうちに、小さいのーーーこちらは「ロクタ」というらしい。六人目の子供なのだろうか。ーーーが泣き出して、母親がそれをあやす。

 人の匂いが、こんなにも近い。

「騒々しくてごめんなさいね」
「いえ……うちはいつも葬式みたいにしてるから。家族が多いっていいですね、賑やかで、楽しくて」
「おにいちゃんはきょうだいがいないの?」
「いるよ。けど、あんまり仲が良くないんだ」
 さびしいね、とハナコが眉を傾ける。
「うちはね、お兄ちゃんとお姉ちゃんがもう一人ずついるんだよ」
「炭治郎と禰豆子。一番上が炭治郎」
 どうやら上二人の兄姉は健在らしい。話には出なかったが、大方、出稼ぎにでも行っているのだろう。暮らしぶりから察するに、姉の方は工場働きか、ひょっとすると、身売りされているのかもしれない。世の中全部が貧しいのだ、それくらいの事はあるだろう。
 タンジロウは俺よりもいくつか年下だと思う、というような事をタケオが言った。

 食後、一息ついていると、ハナコはお手玉を見せると言ってそれを取りに行った。
「なんか、にいちゃんがかえってきたみたい」
 シゲルがにこにこしている。母親はやんわりと微笑んだ。

 子供たちはくるくると良く動き回る。人がいる家というのはこんなにも忙しいものだったろうか。
 タケオと母親が布団を敷き、ハナコが「おにいちゃんは真ん中ね」と腕を引いた。
「咳が出ると煩いだろうから、俺は端で寝るよ」
「じゃあ、わたしもこっち」
 ハナコは少し甘くてとても優しい匂いがする。
 寝支度で、厠へ行ったりなんかしている時、タケオが横にいたので、何となく訊いてみた。
「なぁ、お前の兄さんは戦地へ行ったのか」
「そうだよ」
 タケオは真っ直ぐに応えた。俺はそうか、と言って目を逸らす。
 兄が出征して、心細くはないのだろうか。辛くはないのだろうか。死ぬかもしれないのに。いや、きっと死んでいるだろう。平気なのか。
 子供だから分からないのか。
 家族を殺しても、平気なのか。
 そうか、そうだな。家族なんて言っても、所詮は他人なんだ。だから平気なんだ。平気で戦地へ送り出すんだ。平気で、死んでこいと言うんだ。

「兄ちゃんはもうすぐ帰ってくるよ」

 労わるような顔で言った。
 なんだ、分かってるんじゃないか。そうだよな、こんな山奥に住む子供でも、日本が負けるって事は分かってるんだ。まぁ、遺体があるかどうかは分からないけれど。

 馬鹿々々しい。
 だいたい、あんな紙切れ一枚で命を差し出せなんて、図々しいにも程がある。国が何だというのだ。勝手に揉め事を起こしておいて、末端にその尻拭いをさせようだなんて。俺は嫌だ。
 死ぬのも、殺すのも、絶対に嫌だ。死ぬ為の訓練も、殺す為の訓練も、やってたまるか。俺は行かない。
 非国民と言われたって、臆病者と言われたって、それが何だというのだ。
 俺は行かない、絶対に行かない。
 父さんは馬鹿だ。叔父もそうだ。兄さんたちも、みんな馬鹿だ。
 俺は身体が弱いから生き延びた。それを今更、紙切れ一枚で、俺をどうにかしようだなんて。
 冗談じゃない。
 みんな、犬死だ。

 何故、俺は生き延びたんだ。

 タケオが、こちらを見ている。
  ーーー「兄さんたちが生きたらよかったんだ」
 シゲルが、その横から顔を覗かせる。
  ーーー「母さんたちだって、そっちの方が」
 ハナコが、心配そうに首を傾げる。
  ーーー「俺には無理だよ」
 母親が、憐れむように言った。

「好きなだけ、ここに居ていいのよ」

 無理だよ。
 俺には、兄さんの代わりなんて出来っこないんだ。

「そうね、あなたはあなただもの。しっかりとしなくては駄目よ」


 日溜まりの匂いがした。
 懐かしいような、温かい、ふんわりとした匂いだ。
 目を開けると、母の声がした。
 よかった、よかった。
 あなた、山の中で倒れていたのよ。無理をして、あんな、走ったりするから。やっぱり無理なのよ、あなたの身体じゃ。お医者様とお役所にお願いして、何とかしてもらいましょう。通知が来たことがそもそも何かの手違いだったのよ。
 あぁ、でも、本当に、よかった。

 乾いた土の匂い。火を焚く匂い。糠床の匂いも混ざっている。
 台所の方では、叔母と従妹が動き回っているらしかった。もうそんな時間なのか。

 俺はまた生き延びる。
 きっとどこまでも生き延びるのだ。

 俺が、いのちを繋ぐ。

「炭之介」
 母が俺の手を包み込んだ。

「おかえりなさい」




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