プロローグ
その日の晩、少女は小さな手鏡に絵を描いた。
手鏡には薄く水が張られ、絵はその水の上、少女は何かをなぞるように、指先でさらさらと描いた。唇が、何かを歌う。
満月。ほのかな月明かりが手鏡の中で妖しく揺れる。冷え冷えとした夜が肩を抱き、何事か耳元で甘い言葉を囁いている。首筋がヒリヒリと何かを感じていたものの、夜の甘言を拒むには力不足であったらしく、少女がそれを止めるには到らなかった。
魔が差す、とはこういう事を言うのだろうか、と少女は思う。輝きを満たす月を見上げる。
うそか、ほんとうか。きっとうそに違いないけれど。
ーーー月よ、全てを見知る月よ。
そして、得体の知れぬものに突き動かされるように、少女はその小さな光を覗き込んだ。
きっと鏡はなにもうつさず、月に呆けた私の顔をうつすのだろうけれど。
ーーー月よ、全てを照らす月よ。
ーーーあの人はどうしているかしら。
ーーー私を覚えているかしら。
もし叶うのならば。
少女を支配していたのは、好奇心か、それとも独占欲か。
そこにあったのは、水に浮かぶ輝きではなく、禍々しい漆黒の深淵。まるで世界の全てを飲み込んでしまうような、深い深い黒。そして。
体中が脈打ち、いよいよ警鐘を鳴らす。
しかし、どこか冷静に、あぁ、これが私なのかと、少女は思う。偽ることを知らない鏡、全てを平等に照らす月。これが真実なのかと、少女は思う。
真っ暗闇に、二つの赤い満月。
審判は下された、わたしのこころに、あくまがいた。
天に架かる月が無機的に、闇夜の秘め事を見つめる。
少女の顔は、まるで満月のように青白い。
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