膝枕の話。

「君の膝を借りたい」

 アルハイゼン宅でくつろいでいると彼は唐突にそんなことを言った。冗談を言わない人だと思っていたのだがどうやらそうでもないらしく、彼は時々、真顔で冗談ともつかない冗談を吐くことがある。今回もそれかと思いわたしは怪訝な顔で彼を見上げて言った。

「念のためお聞きしますが何に使うおつもりですか?」
「随分とわかりきったことを聞く。君の優秀な頭脳を働かせれば理由など自ずとわかることだろう」

 彼は形のいい眉を片方だけ吊り上げて、不愉快そうな表情を形作る。やけに大仰な口ぶりは彼が嫌味を述べるときによく使っている声のトーンだ。冗談のつもりではないらしい。
 彼を不愉快にさせる意図はないため、短く謝って代わりにと質問する。

「聞き方を変えます。急に膝枕を所望した理由は何ですか?」
「理由の有無で君が膝を貸す事実に変動があるのか? 俺が何と答えようと君は俺の願望を叶えるだろう。それであれば理由について述べる必要はない。必要のないことをする意味がないため回答を拒否する」

 取り付く島もなかった。確かに彼の言う通り、何と答えられようと彼が本当にわたしの膝枕を望んでいるのであればそれに応えるつもりではあったのだが、こうもわたしが膝枕をして当然という態度で来られると腑に落ちないものがある。
 腑には落ちないが、彼の要求を拒絶したいかと言われれば特にそうでもないため、わたしはため息を一つついて、膝の上に乗せて読んでいた医学書を退け、代わりにアルハイゼンがよく読んでいる文庫サイズの書籍を手に取った。
 それを了承の意として示すと、彼はフンと鼻を鳴らしてソファに寝そべりわたしの膝に頭を乗せた。ぴょこぴょこと跳ねる癖毛は案外硬く、しかし艶のある髪質をしている。手慰みに彼の髪を梳いてみるとそれはそれは指通りのいい触り心地であったため、ケアにどんなオイルを使っているのかと聞いてみたら、特に何も拘りはないと帰ってきたのでほんの少し苛立ちが沸いた。何もせずにこの髪質とは彼は美の神に恵みを貰いすぎではないだろうか。
 後々聞いて判明したことではあるのだが、カーヴェさんが買ってきて浴室近くに置きっぱなしにしてあるヘアオイルを勝手に拝借しているようだった。妙な納得とともに少しだけカーヴェさんに同情してしまった。閑話休題。
アルハイゼンはわたしの膝の上で、本を読んでいる。寝そべったままだと読みにくいだろうに起き上がる気は一切ないようで、時折もぞもぞと身動ぎをする以外はじっとしている。
 わたしはといえば手にした本を読み終わってしまいそうで少し暇を持て余しそうでどうしようかと悩みながらアルハイゼンの髪を撫でている。手慰みではあるのだが触り心地に少しはまっているのにきっとアルハイゼンも気が付いているかもしれない。
 しばらくするとアルハイゼンが本のページを捲る手が、鈍くなっていることに気が付いた。体を横たえているから、眠たくなってきたのだろう。こころなしか膝に乗っている体温がぽかぽかとしてきているような気もする。

「眠たいですか?」
「うん……少し」
「眠っていてもかまいませんよ。本を貸してください」

 素直に手にしていた本を差し出してきたので栞を挟んでテーブルに置く。それと同時にアルハイゼンがごろりと寝返りを打ち、わたしの腹側に顔を向け、そのままぐりぐりと顔を埋めてくる。なんだどうしたと思いながら、撫でる手を止めると下から恨めし気な瞳で睨んでくる。言外にやめるなと宣う彼に従って撫でる手を再開すると、目を閉じて再びわたしの腹に顔を埋めた。
 別に太っているわけでもないが何となく気恥ずかしいのでやめてほしいのだが、言ったとてやめてくれる人でもないので諦めてしたいようにさせてやる。
 そういえば、眠たそうな今なら理由を教えてくれるんじゃないかと、はたと思ったため、ダメ元でもう一度、彼に聞いてみた。

「どうして、急に膝枕をしたがったんですか?」
「……きみが」

 平時より少しふにゃりとした、煮詰めたカスタードクリームのような声だった。かわいいなと思いながら、じっと続きを待つ。

「きみがいつも俺の膝の上で気持ちよさそうにねむるから。好ましく思っている相手の膝の上はどんなにか心地いいのかと、気になったんだ」
「そうなんですか」
「それと、好きなひとに甘えてなにがわるい」
「え」

 衝撃的な一言を最後にアルハイゼンは眠りのふちに引っ掛けていた指をすべて離したようですぅ、と寝息を立て始めた。じわじわと首元が熱くなる。
 すやすやと眠るアルハイゼンを恨めしく見つめながら、さらりとした髪をただ撫でている。彼が起きたら足がしびれたと文句を言ってやろう。そしてわたしの代わりに夕飯の準備をさせてやるのだ。そのぐらいの仕返しは甘んじて受け入れてもらいたい。

▼△

本のページを長い指がペラリと捲る。新しく購入した本をアルハイゼンは期待しながら開き、しかして想定よりもつまらない内容で落胆し、今はただ機械的に文字を読んでいる。きっとすぐに内容を忘れてしまうだろうが、アルハイゼンは優秀な脳の片隅にこの本を読んだ記憶をしまっておくことにする。どんなにくだらない内容であっても、いつか役に立つ日が来るのであればその時に糧となるはずだ。祖母の教えを守りながら、アルハイゼンはまたページを捲る。
 ふと時計を見やる。そういえば今日は彼女が家に来ると言っていたのだったか。ヘッドホンの遮音機能を切って、音を拾えるようにしておく。彼女はアルハイゼンが本を読んでいるのを邪魔しようとはしないし、アルハイゼンもそれを甘受し読書中に彼女がやってきたとしてその手を中断するようなことはない。集中したいときは遮音機能さえつけたままにしていることもある。尤もそこまで集中したい本を読むときに彼女はアルハイゼンの自宅にやってくることさえほぼないためこの遮音機能はもっぱらカーヴェのうるさい声をシャットアウトするときのみに使われているのだが。
 しばらくするとカラリと鍵が空回りをする音がし、少し考えるくらいの間を置いた後、ドアの開く音がした。アルハイゼンは自宅にいるときに鍵をかけない習慣がある。彼女は防犯の観点からよくそれを咎めているのだが、鍵を持たずに出たカーヴェが騒ぎ立てるのを考えると、誰が侵入してこようとその剛腕をもってして撃退することができるのだからとアルハイゼンは一向に習慣を変えようとはしていない。
 歩幅の狭い軽い足音と共に彼女が静かに部屋に入ってくる。それと同時にアルハイゼンは組んでいた足を静かに下ろし、足をそろえて行儀よく座った。
 彼女は荷物を下ろしアルハイゼンの横へ腰かけたかと思えば、ごろりと寝転びアルハイゼンの膝の上に頭を乗せた。アルハイゼンが読書の手を止めないとき、彼女はいつもそうしている。実際のところ、足を組んでいようが構わず彼女は寝転んでくるのだが、彼女の顔のそばにアルハイゼンの靴先が向いているのはアルハイゼン自身が落ち着かないため、彼女が来たと認識すると同時に姿勢を正すのがアルハイゼンの新しい習慣となった。
 彼女の柔らかな膝であればともかく、男の硬い膝に寝るなど、寝心地がよくなかろうに何故とアルハイゼンはいつも疑問に思っている。なんなら実際彼女に「脱力した筋肉は柔らかいはずなのになぜこうもあなたの膝は硬いんですか」と文句を言われたことさえある。アルハイゼンは「文句があるのであれば俺の膝で眠るのはやめるといい」と言ったが、彼女曰くそういうことではないらしい。何が違うのかはいまいち理解に及んでいない。
それでもアルハイゼンが彼女の頭を押しのけるようなことはしたことがなく、己の膝の上で彼女がくつろぐのを良しとしている。
 その許容が何よりの愛であることをアルハイゼン本人よりも彼女のほうがよく理解している。だからこそ、読書をしていようが書き物をしていようが、アルハイゼンが自宅のソファに座っているときに彼女はその膝の上に頭を乗せて目を閉じるのだ。
 寝つきの良い彼女がすやすやと寝息を立て始めたのを確認し、アルハイゼンは纏っていた外套を彼女の体に掛けてやる。そこまでくつろぐならタオルケットでも持ってくればいいものを、彼女はいつもなにも被らずに寝入ってしまう。そして毎回被せられるアルハイゼンの外套を我が物顔で体に纏って丸くなっている。
 アルハイゼンは読んでいた本をパタリと閉じた。結局最後までつまらない内容だった。目の前のテーブルにぽんと放り出し背もたれに身を預ける。彼女はまだ眠ったままだ。
 さらりと彼女の横髪を梳いてみる。結んだままの髪をほどくとはらりとアルハイゼンの膝に彼女の髪が散らばった。柔らかな髪は丁寧にケアされており、指通りが良い。
 その髪の一筋をくるりと指に巻き付けては離し、ほんの気まぐれに編んでみたり、好きに取り扱ってみているのだが彼女は一向に起きない。寝つきが良いのにもほどがあると、せっかく会いに来たのに自分を放置するのかと、アルハイゼンは少し理不尽な怒りを彼女に覚えた。ならば起こせばいいのにと、彼女は思うし言うのだがアルハイゼンの中にその選択肢は存在しない。彼女がアルハイゼンに甘えるという状況が歓迎するべき事態であるからだ。
 早く目を覚ませ。もう少し寝ていてもいい。二律背反を背負い込んで、アルハイゼンは彼女の髪を撫でている。これはこれで愛すべき時間であると思いながら。
 そして彼女が目を覚まして第一声、アルハイゼンは言う。

「おはよう。人の行動を阻害してまで得た眠りはどうだった。共に過ごすといいながらこの時間まで寝こけているとは恐れ入ったよ。さて、君はここまで俺を放置したのだからそれなりの誠意を見せてくれるのだと期待してもかまわないんだろうな」