キスだって衝動的にしてもいいの。



 キスがしたいとき、アルハイゼンはわたしをじっと見つめる。
 それは食事の準備をしているときだったり、二人でのんびりと読書をしているときだったり、会話をしているときだったり、タイミングに取り留めはない。彼の右手がわたしの頬に添えられるときもあれば、そうでないときもある。
 二人きりで過ごしているとき、彼は翠の中央に赤を鮮明に揺らしながら、ただじっとわたしを見つめる。それが彼の示す「キスがしたい」であるということに気が付いたのは最近になってのことだ。
 頬に手を添えられればわたしもそういうことだと気が付けて受け入れることもできるのだが、ただ見つめられているだけの時、最初のうちは半分ぐらい気が付かずにスルーしてはアルハイゼンがしばらく口を利かなくなるという不思議なやり取りを繰り返したのち、彼が不機嫌になるタイミングを観察して漸くああこれはお誘いなのかと気が付いたというわけである。
 わたしだって彼とキスをするのが嫌なわけではないし彼が酒に酔って理性のねじが緩んでいるとき以外は本当に、狂気的に両足をちゃぷんと漬け込むレベルで彼はとても理性的な人間なので、無理に迫られたことはない。だから、よほどの状況でもない限り受け入れているのだけれど、ふと疑問に思うことがある。
 すなわち、アルハイゼンは衝動的にわたしにキスをしたくなることはないのだろうか、ということだ。
 なにぶんわたし自身が、アルハイゼンのぴょんと跳ねた寝癖にだとか、口にした食事を気に入ってほんのりとなごんでいる目元にだとか、読んでいる本がつまらなかった時のぼんやりとした横顔だとかに衝動的にキスをしてしまいたくなるものだから、ひょっとするとアルハイゼンもそういった衝動を抱えながら、強靭な理性をもってしてそれを押さえつけているのではと考えるに至った。
 別にそれはそれで問題はないのだが、する必要のない我慢を彼に強いている可能性に思い至ればそのことが気になって仕方がなくなってしまう。それこそ、彼といるときにそのことばかり考えてしまうぐらいに。
 アルハイゼンはわたしを膝の上に抱えて本を読んでいる。わたしも同様に本を読んでいるのだが、先の理由でいまいち集中できずにいる。ページを捲るのもおざなりに、文庫本の端をぺらぺらと弄っていると「本が傷む」と苦言が飛んできた。わたしの購入した本ではあるのだがアルハイゼンが書籍というものを大事に思っているのは知っているので、素直に「すみません」と謝っておく。
「集中できていないようだが、それであれば書籍を一旦閉じておくといい。読まずにページをいたずらに捲るだけの行為は無意味と呼ぶ他ない。君がただ時間を浪費するだけの行為に勤しむのは君の自由だが、君個人の適性から考えて悩むことと本を読むことは両立し得ないので避けるべきだ」
「そう、ですね」
 わたしは読んでいた本を閉じて膝の上に置いた。アルハイゼンは横目でチラとそれを窺ったかと思えば、また彼自身の読んでいた書籍に目を落とす。そしてそのまま口を開いた。
「何について考えていた?」
「……取るに足らないことです」
「それであれば口にしたほうがいいだろう。君は考えを声に出したほうが思考がまとまりやすいのだろう」
 アルハイゼンはわたしに唐突にキスしたくなりますか? などとどの口で言えというのか。もごもごと言い淀んでいると焦れたのか、アルハイゼンは読んでいた本に栞を挟んでわたしの体を持ち上げて向かい合わせになるように抱え直した。
「わ、あ……びっくりした」
「何を躊躇うことがある? 俺に言えないことであるなら、それこそ君の助手や、旅人でもいい。誰かしらに言えばいいだろう」
「誰に相談するにも微妙と言いますか……。どうせいうならアルハイゼンになんですが、それもそれで抵抗があります」
アルハイゼンは怪訝そうに眉を釣り上げた。なんだそれはと言わんばかりの顔だ。なんなら、そこまで言って俺に言わないという選択を取るつもりかとさえ言いそうだ。
「なんだそれは。そこまで言って俺に言わないという選択をとるつもりか。言いたくないのであれば方便でも他へ相談すると述べるなり俺の名は出さないなりすべきだろう」
「ふ……」
「何を笑うことがあった」
「いいえ? ……ふ、ふ」
 上手に動いてくれない表情筋がひくひくと動きながら下手くそな笑顔を作ろうとしている。アルハイゼンは複雑そうな顔をしてわたしの背に回した指先に力を込めた。
 笑われるのは意味が分からない、不愉快だ。普段笑わないわたしが笑っているのを見るのはやや気分がいい。そんな二つをちょうどよく混ぜ込んだようなかわいい恋人の表情がたまらなく愛しくなって、衝動的にキスをした。
 アルハイゼンはほんの少し目を見開いた後、ため息をついた。
「君がそうしたくなるタイミングがよくわからない」
「あなたがかわいかったから。嫌じゃないでしょう」
「うん」
 今更キスで照れるような関係でもないけれど、合わせた額から伝わる体温が少しだけ高くなっているのがわかるのがやはりかわいくて、今なら素直に言えるんじゃないかと口を開いた。
「アルハイゼンは今のわたしのように、ふとキスがしたいなと思ったりはしますか?」
「衝動を理性で押さえつけることができるのが人間だ。俺がそのように動くことは今後もないといっていい」
「動くかどうかではなく、したいと思うかどうか、ですよ」
 アルハイゼンは少し考えるそぶりを見せた後、一つ頷いて言った。
「したいと思うか、という問いには是と答える。ただ、君の同意を得ない行為になんの意味もないため、衝動で実行に移すことはない」
「……わたしはアルハイゼンに了承を取ってキスをした回数のほうが少なく思いますが」
「君はそれでいい。俺が君にされて嫌だと思うことのほうが少ない」
 この人は時折とんでもなく恥ずかしいことを真顔でのたまう。うれしく思うのと同時に少し照れ臭い。意味もなく髪をくるりと指に巻き付けて「わたしも」と言うと、アルハイゼンは「なに? 聞こえない」と意地悪くいった。
 じっとりと睨みつけると楽し気に唇が歪む。かわいいのに憎らしい笑顔がじっとわたしの言葉を待っていた。
「わたしも、あなたにされることで嫌だと思うことがほとんどない、から」
「うん」
「もっと、何も聞かなくてもキスだってしていいの」
「わかった」
 言うと同時に唇が塞がれた。驚いて目を瞬くと、弓なりに弧を描いた翠がわたしを見つめていた。
「何を驚くことがある? 君が言ったんだ」
「ん……そう、ですけど」
「嫌ではないんだろう」
「ちょっと、ん……待ってったら」
 一言話すごとにくっつこうとする唇を手のひらで塞ぐとアルハイゼンはくつくつと喉を鳴らして笑って、わたしの手のひらを舐めた。変な声が出た。
「ふ、普段からそんなに……?」
「いや?今はしたいからしている。それだけだよ。嫌ならそう言うといい」
「……嫌じゃない」
嫌じゃないから困るのだ。アルハイゼンは唇をにんまりと笑みの形に整えて、言う。
「知っている」
そうして形のいい薄い唇がわたしのそれを食べようとするのを、目を閉じて受け入れた。