不可視の幸福 1
© 2019 sasori_bi ――晴天の霹靂と言うべきか。あるいは天変地異の前触れと言ってもいいのか。
その日、クランカイトは珍しくユージオの方から外泊の届を出しておくように言われた。理由を聞いたが、曖昧に濁されたので深くは聞かなかった。
その時点では、てっきり相談事か何かだろうと思って一人納得していたし、特に不自然だとも思わなかった。ひと目を避けた相談事をする時なども、逢瀬の時と同じく外泊届を出して夜にユージオの私室に忍び込んでいた。だから、今回もまた何か悪さでも考えているのかと思ったのだ。間違っても彼が閨の誘いなどするはずがないのだから。
外泊届を出して私服で夜の街を出歩き、施錠が済む時間を見計らって寮に戻った。
窓から迎えてくれたユージオは、クランカイトを入れるとすぐに窓の雨戸を下ろして、完全に部屋を閉ざした。クランカイトは不思議に思って尋ねる。
「なあ、急ぎの用事だったのか? もうすぐ帰省するが、それまで待てねえこと――」
振り返ると、ユージオが部屋の壁に手をついて何かぶつぶつと呟いていた。
その手のひらの中の微光が魔法陣を描く。瞬くように一瞬輝きを増したかと思えば、魔法陣から伸びた光の帯が部屋の壁や床に鋭く走った。
すぐに光が消えて、部屋の中は真っ暗になる。月明かりに慣れていた目はまだ暗闇に慣れていない。瞬きを繰り返しながら、クランカイトは首を傾げる。
「今の、何の魔法?」
「音洩れ防止の魔法」
いつだったか不満げにユージオが探すと言っていた魔法だ。本当にあったのかと思いながら、ようやく輪郭が分かる程度に慣れてきた暗闇の中でゆっくりと移動する。ユージオの部屋はそもそも足元に置くほどの荷物がないので躓く心配はないが、どうしても見えないと心許ない。
「それ、すげえ便利だな。めちゃくちゃエロいことできんじゃん」
「……そうだな」
どうにか寝台を探して腰を下ろすと、クランカイトは息を吐く。少しずつ目は慣れてきて、ユージオがどこにいるかも分かった。顔も見えないのでは埒が明かないので、灯りを探そうか――と思い始めた頃、ようやく違和感を思い出した。
――『そうだな』?
幻聴かと自分の耳を疑ったが、たった一言を聞き間違えられるほど周りに雑音があるわけでもない。間違いなく自分の聞いた通りだ。
だとしたらおかしいのはそれを発した声の主ということになる。――普段の彼であれば、クランカイトの恥知らずな冗談を取り合うことなどないのだから。
「どうした? 耳飾りを取って何かトチ狂った魔法の実験でもしたか?」
「……俺はあんたの言葉に同意しただけなんだから、そうなるとあんたもトチ狂ってることになるんだが」
「俺はいつでもお前に狂ってるから大丈夫」
「頭の痛い馬鹿の主張を止めろ……」
「熱でも出たか?」
ユージオは冷ややかな声で「出るか」と吐き捨てた。この返答を聞く限り正気なのだろうが、そうだとしたら増して先ほどの返答が奇妙だ。別人の線も考えたが、クランカイトが声やその抑揚を他の誰かと間違えるはずもない。
雨戸も閉めているし、少しの間灯りを点けても見咎められることはないはずだ。用があるならその間だけでも点けておこうかと、灯りを探そうとした時だった。
ユージオの影がごそごそと動いている。僅かな衣擦れの音がして、布が床に落ちた。
着替えの必要があったのだろうかと、灯りを探すのを中断しようとした時だった。
「話があって呼んだんじゃない」
薄ぼんやりとした暗がりの中で、そう言ってユージオが振り返った。
表情は見えない。ただ、目の前に立たれればさすがに、暗い中でも身体が青白くぼんやりと浮かび上がって見える。着替えの途中だから服を着ていないのだろうとクランカイトは思っていたが、それにしては服を着ようとしないのが不思議だ。
「話がないっていうなら、一体――」
尋ねる途中で、ユージオに肩を掴まれた。力いっぱい寝台に押されて、さすがに不意を突かれてクランカイトが仰向けに寝具に沈む。
ぱさ、とまた衣服が床に落ちる音がした。クランカイトは呆然と寝台のそばに立つユージオの姿を探す。
「……ユージオ?」
「人が必死だっていうのに、本当にあんたは馬鹿なことばかり言って……」
呟きながら、彼の手が棚の上に置かれた灯りを小さく灯した。暗がりに馴染みつつあった目に少し眩しく、目を細めながらユージオ見る。
目が合って、遅まきながらようやくクランカイトはユージオの用件を察した。夜に私室に招いて、音が洩れないように小細工をして、自ら服を脱いで――話すことももちろんないというなら、もう他にない。
果たして一体どうしたことなのか。クランカイトがあり得ないと選択肢から外していた――まさにそれだった。
途端にクランカイトは慌てて身体を起こそうとする。
「待っ、いや嬉しいけど、何で今なんだ、問題があるって時に――」
「俺がいいって言うのに、俺に触るのにどんな問題があるんだ」
「あるわ! 接触禁止!!」
「そんなこと!!」
静止しようと手袋に包まれた手をユージオに向けた。
ユージオの身体には得体の知れない模様がある。それが魔法道具か、あるいはそれに近しい別物なのか、未だに正体は分からない。悪影響がないとも断言できない以上、淀みを溜め込む体質のクランカイトは触らない方がいいだろう。そう思って――迂闊に肌に触れないように手袋までしているというのに。
交わってしまっては意味がない。ユージオだってそれは理解しているはずなのに、なぜ今になってこんな魅力的な誘惑をするのか――本当になぜ今なのか。こんな時でなければ喜んで応じたものを。
そう思って心底口惜しい思いでいると、伸ばした手をユージオに掴まれた。
「――触りもしなければ、何が悪いのかも分からないだろう……」
手袋に包まれたクランカイトの手を、自分の肩口に触れさせる。それをするユージオが一切の衣服を身に着けていないことに気付き、クランカイトはもう一方の腕で自分の目元を覆った。葛藤の苦悶に満ちた声を絞り出す。
「そういう……自分で実験しようっていうのはよくねえと思う……」
「往生際が悪い」
「お前が言うかそれ? 忘れてねえぞ昔のこと」
「……なら、口実だなんてわざわざ言わなければいけないのか」
しまった、と思ったのはすでに遅く、視界を塞いでいた腕を退けたクランカイトは、頭を上げてユージオを見る。
恥辱に顔を顰めて目を伏せながら、ユージオは溜め息のような微かな声で呟いた。
「あんまり恥をかかせるな……」
予想だにしなかったユージオの言動に、クランカイトは諦めたように再び寝台に埋もれて息を吐いた。一言したいと言えば済むものを、それが言えないばかりにここまで思い切った行動に出るとは、まさか思わない。
色々と言いたいことはあったはずなのに、口から漏れたのは間の抜けた感嘆だけだった。
「お前、すっげえな……」
「こんな時だけ察しが悪いのか、大馬鹿野郎」
「反論しようもねえわ」
本当に察しが悪いと詰られても仕方がなく、クランカイトは苦く笑った。普段の言動とあまりにかけ離れているとはいえ、悪いことをした。
肩口に置かれていた手を背に回し、その身体を引き寄せる。もはや接触がどうということなどすっかり諦めていた。手袋を外してその背中に素肌で触れる。心臓に近いのにその温度は少し温い。
「冷えてる。そんなに緊張したのか」
「……今あんたの頭を経典で殴って気絶させたら、まだ取り返しがつくかと真面目に検討するほどには」
「何でそんな物騒なんだよ。嬉しいのに」
寝台の上掛けを引き寄せて、ユージオの肩に掛けてやる。クランカイトの肩口に顔を埋めているから、彼がどんな顔をしているか見えないのが残念だ。
背中の窪みを指で辿った後、ユージオのうなじから髪の合間に指を差し入れる。彼の耳元に唇を寄せて、クランカイトは小さく笑った。
「心配なのは変わらねえけど。もう触った以上、今さらごちゃごちゃ言っても無駄だしな」
接触禁止だなんだとこれ以上もっともらしいことを言って、さらにユージオに恥をかかせる気にはならなかった。
自分のぞんざいな物言いは棚に上げて、たぶん高圧的な物言いをされることを好まない彼へと、クランカイトは言葉を選んで懇願した。
「……触らせて」
自尊心に付け入るように甘えた言葉は、彼の拒絶という選択肢を奪えると知っているからだ。
ユージオから返事はない代わりに、やはり拒絶の言葉も返されることはなかった。
© 2019 sasori_bi
prev / next