代償 31
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心ここにあらずというように呆然と執務室を出たフローレインは、無意識に自室に足を向けていた。
もう夕餉の時間が始まる。行かなければいけないと思うのに、動揺が収まらない。恐ろしい想像が溢れ出して止まらない。罪悪感が尾のように付いて回る。
――ずっと恐れていたことがある。
いつからか考えていた。誰にも話したことはなかったから、一人でずっと不安に思っていた。それが先刻の話を聞いて、不安は現実味を帯びてしまった。
どうしていいか分からない。恐ろしさに足が竦んでふらつく。
立っていられず寝台に腰掛けて俯く。自分の膝元を見下ろして、それきり動けない。
どれぐらい時間を過ごしていたのだろうか。扉を叩く音で我に返る。
「どうぞ」
「失礼するわ」
そう声を掛けて入ってきたのはソフィアだ。寝台に掛けたフローレインを見て首を傾げる。
「もう夕餉は済ませたわよ。あなたも早く行かないと時間が終わってしまうわ。……ひどい顔色」
つかつかと部屋に入ってくると、我が物顔で椅子を引いてそこに腰掛ける。誰も椅子を勧めていないとは、言う気力も湧かなかったが。
「あ。心配しているのに『顔色が悪くて態度が悪くて』なんて言ったら怒るわよ」
「……動く気が起きなくって」
「食べないからよ食いしん坊。吐いていいからお食べなさい」
「ふふ。……乱暴だわ」
そんな荒っぽい気遣いがあるものだろうかと、フローレインは力なく笑う。その覇気のない微笑にますます眦を吊り上げて、ソフィアは息を吐いた。
「ノヴァリス少副に何か聞いたの? さっきと今とじゃずいぶん顔色が違い過ぎるじゃないの」
フローレインはゆるりと顔を上げて小さく答える。
「大したことじゃないわ。今日寝る時の寝間着の色を相談されただけよ」
「あなたがそれを相談されることは特に疑問に思わないけど、ノヴァリス少副がそんな馬鹿な質問をあなたにすることは大いに疑問だわ」
「辛辣ね」
「私に話せないこと?」
表情では怒っているように見えても、声音は少し寂しげに響いた。不意にその声に胸を突かれて、フローレインは瞬きする。
そして、少し躊躇った後にゆっくりと首を横に振った。ノヴァリスは話していいと言っていた。
「恐ろしいことを――考えているわ」
寝台の上で膝を抱えて、フローレインは頬杖を突く。ソフィアは静かに問い返してくる。
「恐ろしいこと?」
「私があの時縋ったのは、悪魔だったのではと」
ソフィアが怪訝な顔をする。それも当然のことだろう。益体のない物言いをしたなと自分で思いながら、ぽつりぽつりと続ける。
「昔、誘拐されたことがあるの。兄と一緒だった」
「両替商の子なら、まああり得る話ね」
「そうね、恨まれていたし妬まれていたと思う。――恨みの中の幾つかには正当な理由があったかも知れない。その時どうだったのか、今はもう真相はわからないけれど、私と兄は誘拐された」
地獄のような時間だった。始めは一分一秒過ぎることも恐ろしくて、その内段々麻痺して思考が鈍っていった。それでもたびたび暴力の時間は訪れて、薄れていた恐怖を無理やり思い出させられた。自分を庇ったクランカイトが暴力を受けることも、自分の身が傷付くのと同じぐらい辛かった。
「何度も殴られ、蹴られた。でもそれより辛かったのは、何かの腹いせだったのか、罵られて、詐欺師の子供だと言われて、両親の悪口をずっと聞かされ続けたこと。人の不幸と引き換えに贅沢をしている極悪人のように言われたわ。もしかしたら両親はひどい人間で、そんな両親を持った私は生きていることすら悪いのかも知れないと思った」
「咎人の言うことなんて真に受けてどうするの」
「咎人だったけど……貧しさに追い詰められた人たちだったわ。子供だったから、両親のことを優しいと心から信じていたけど、他の誰かから見てそうではないことを初めて知った。それが辛かった」
幼く狭い世界の中の、中心を占めていた信頼を壊されたように感じた。大人になれば自然と理解できたことだろう。でも、突然訪れた衝撃は今もぽっかりとどこかに虚を残したままだ。
だからだろうか。
両親のことは好きなのに、その愛情に一線を引いてしまうようになったのは。クランカイトもフローレインも、唯一心から信じられるものがお互いだけになったのは。
永遠のように長い時間に感じた。実際は一週間ほどの間の出来事だったという。
「意識が霞んで、自分が起きているのか寝ているのかもわからなかった。ただ身体中痛くて、生きていることすら苦しくて、誰でもいいから助けて欲しいと、その一心だったわ」
「ひどい話……助かってはいるのよね?」
「目の前にいるのはお化けじゃないでしょ」
不安そうに聞いてくるソフィアに少し笑って、だが、またすぐにフローレインは笑みの冷めた横顔で呟いた。
「助けてくれたのは――笑わないでね。私も今でも信じられないけれど、建物の中に入ってきた野犬の群れだった」
あの日。
ただただ祈っていた。助けが来ることを一心に願っていた。そんな中、気付けば廊下の方から喧騒が聞こえてきた。
ぼんやりとした意識の中で目を開いた。そうしてようやく、いつのまにか自分が意識を失っていたことに気付いた。
焦点のぶれた視界の中、騒ぎに反応して誰かが扉を開けた瞬間、野犬がその男に飛びかかってきた。他にも何匹も部屋に押し寄せてきて、大人たちを襲っていた。
ソフィアが訝しそうな顔をする。
「……野犬?」
「ええ。私たち二人には目もくれずに、誘拐犯たちを追い回して、次々に噛んだわ。手足を噛んで、時には首の肉を噛み千切った。その場で助かった人も、野犬の持っていた病で皆亡くなったそうよ」
騒ぎの中、クランカイトが真っ先にフローレインの手を引いて建物を抜け出した。手足はぼろぼろで、走ることも覚束なく、何度も転びながら道に出た。通り掛かった住人に救助を求めて、生きて家に戻ることができた。
「私たち二人は何とか助かったけれど――おかしいでしょう。どうして野犬が建物の中に入ってきてまで人を襲ったのか。どうして私たち二人は無事だったのか」
手当たり次第に襲うような興奮状態だった野犬が、自分たちを襲わない理由はない。騒ぎの中で抜け出したとはいえ、動けば当然目に留まる。野犬のすぐ横だって通った。
異常だった。まるで始めからいないもののように、不自然なほど何の反応もしなかった。
「……運がよかった、じゃ済まないわね」
「おかしなことは、まだ続いた」
皆がそう言った。運がよかったのだと。けれど、思い返すほどに疑念は募った。
それほどに――理屈に合わない。
「その出来事の後、兄は頻繁に体調を崩すようになった」
「何かの病?」
「病かどうかすら、今も分からない。家には母が呼んだ医者や、呪い師や、それこそ詐欺師まで頻繁に出入りして、両親はずっと喧嘩していた。私はほとんど爪はじきだったけれど、苦しそうな兄を見て、罪悪感でいっぱいだった」
そう、罪悪感――だった。気の毒だとか代わってやれればとか、そういう気持ちもあったはずだ。だが、それ以上に後ろめたかった。何の理由もなく胸が騒いだ。
「その後、私は自分の魔力が並外れていることを知った。そうしたら今度は無性に恐ろしくなったわ」
「恐ろしい? なぜ」
「どうしてか分からない。けれど、兄の体調が悪いのも、あの人たちが野犬に殺されたのも、もしかして――私のせいなのではないかと、そう思った」
漠然とそう思って、その不安を打ち消すことができないまま、ずっと胸の内にこびりついている。
ソフィアが半ば苛立ちの混ざった声を上げる。
「どうして。あなたは関係がないでしょう?」
「皆そう言うと思っていたわ。でも私がそれをどうしても信じられない。どんな気休めを貰っても、私が私を一番に疑ってきた」
何の確証もないのだから、誰に何を言ったとしても理解して貰えない。けれど、漠然と抱えていた自分への猜疑心がなくなることもない。
「……分からないでしょう。誰も気付かない、誰にも分からないことは、本当に私のせいではないとは言えないのだから」
「そんな馬鹿な被害妄想、言い出したらきりがないじゃないの!」
「私もそう思う。そう思って知らない振りをしてきたの。ずっと。……でも、ノヴァリス少副から聞いた話で、今日はっきりと思った」
スヴァローグ�T世の治世の中で、呪いの蔓延った災厄の時代の、流行病の話を聞いた。
『疫病に掛かった人も、はっきりとした異常は見られなかったそうです。倦怠感や発熱、意識障害など症状は様々で、特効薬もなく、一度回復してもまた同様の症状が出る』
似ていると思った。そしてもし、クランカイトの体質がそれと同じものであるのなら、彼は呪いを帯びていることになる。彼と常に一緒にいた自分が無事なのに、彼だけが。
理屈ではない罪悪感が自分に訴えてくる。
「――私の魔力は、兄の呪いと引き換えに手に入れたものではないかと」
比類のない魔力の量。両親を遥かに凌ぐそれは、遺伝などでは説明がつかない。隔世遺伝とも言われたが、そんな真偽を確かめようのないものが、拠り所になるわけもない。
きっともっと簡単な話だ。それが悪魔の力だと言うのなら、自分は恐ろしいことをしてしまった。
「……『呪い』?」
「あの時、私は……悪魔の力に縋ってしまったのではないかしら。痛くて苦しくて助かりたくて必死で、恐ろしい力に人の死を願ってしまったのではないかと。だから私の魔力はこれほどに膨大で、兄は――その代償に呪いを受けたのではないかと」
声が震えた。息が洩れて、声になっていたかも分からなかった。
なぜ私はこんなに魔力が多いと言われるのだろう。なぜあの時野犬は大人たちだけを攻撃したのだろう。なぜ兄はあんな体質になったのだろう。
疑問を並べていけば誰にとって都合がいいのか嫌でも分かる。自分一人だけが――無自覚に人を踏み躙って明らかに利を得ているのだから。
「もしそうだとしたら、もともと私には魔法の才すらなかった。誰かを犠牲に手に入れた偽物で、私の才ではなくて、本当の私は魔法も月並みで、勉強だって優れていない、何もない、人を殺してしまった罪深い人間だったということ」
嫌でも分かる。自分にあったのは魔法の才だけ。勉強の才もない。家事の才も、ましてや剣の腕もない。
魔力を見込まれてここに来たのに、ここに来た理由さえも、今は。
「巫女だなんて立場も嘘。……これは本来あるべきでなかった魔力で、こんなものを私が望まなければ、兄は苦しむ必要もなくて」
本当はあの病になるべきは自分だったのに、きっと卑しい自分の心の底で知らず知らずに願ったのだ。辛い思いをしたくないと。
だからずっと、後ろめたかった。
「……全部、私の、せい……」
仮にこのことを知っても誰も自分を責めない。それが分かっているからなおさら辛い。こんな嫌な自分をそんなに大切にして欲しくないと思うのだ。
話すだけでひどく疲れた。もう指先一つ動かしたくない。帰ってくれと言う気力もなく、無言のソフィアが立ち去るのをただ待っていた。
しかし、急にソフィアが音を立てて立ち上がった。
「立ちなさい!」
よく通るソフィアの声に鋭く一喝され、弾かれたようにフローレインは顔を上げる。
ソフィアは目の前に歩いてくると、そんなフローレインの腕を掴んで引っ張った。
「お腹が空いているからうじうじと馬鹿なことを考えるのよ!! 立って、今すぐ食堂に行って、食べてから考えなさい!」
「……食欲なんて」
「あなたの言っていること、よく分かってないけど。仮にあなたが考えているように、全部あなたのせいなんだとして、ではあなたに何ができるの?」
ぐいぐいと強く手を引っ張られ、よろけるようにフローレインは寝台から降りて立ち上がった。一度ふらついたが、掴まれた手に支えられて踏み止まる。
ソフィアはそのまま手を引っ張って、廊下の方へと大股で向かった。
「今できることなんて、使部の作った食事に感謝して有難く頂くことよ。作るのが大変だと言ったのはあなたでしょう。それを粗末にするつもり!?」
怒っているような口調でも、やはりそれが本心から怒っているわけではないことはよく分かる。
どんな気休めも聞こえない自分を気遣って言ってくれているのだろう。向けられる言葉はどれも厳しいのに、気遣いを感じられるのが不思議だ。
「ほら早く、時間になる!」
「……ソフィア……」
「手が掛かる子ねまったく、使部を待たせるほどいつから偉くなったのよ? もう大史になったつもりなの? しゃきしゃき歩く!」
立ち上がったフローレインの背に回り、今度はぐいぐいと背中を押された。半ば無理やり廊下に押し出され、また腕を掴んで食堂の方へと引っ張られる。
心配してくれていることは分かるのに、どれも悪態のようにも聞こえるのが可笑しい。
フローレインは困ったように微笑む。本当に素直じゃないなと心の中で呟いた。
「痛い。乱暴だわ」
「うるさいわよ」
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