大人になる日 1
© 2019 sasori_bi
もうずいぶん長い間、ユージオはクランカイトから愛の言葉を受け続けていたし、それをはっきり拒絶することもできなかった。いつまでもこのままでいいとは思っていなかった。それでももうすこし、まだ今はと、そんな風に先送りにばかりしてきた。
思い返せば曖昧で、期待を持たせるばかりのひどい態度だと思う。けれど、拒絶するにはあまりにも――彼の言葉はユージオの胸の内に深く食い込んで、無理やり引き剥がすにはつらすぎた。
――いつか俺と家族になって欲しい。
唯一の肉親である母は逝去し、礼拝堂では冷遇される日々の中で、彼の言葉はユージオの胸の一番深いところを捕らえて離さなかった。
それが彼の思惑通りだとしても、それでもいいと思うほどに。あの日からユージオにとってクランカイトは無二の特別だったし、その言葉一つでどれほど孤独を慰められたかわからない。
愛しているのは本当だった。
どれほど言葉にしたくなくても、見ないふりをしても。大切だった。いつかクランカイトが妻を得て、家族に囲まれていても。それでもいいと――幸せであって欲しいと本心から願っていた。そして、それと同じだけ、彼を拒絶して、それまでの関係を失うのが怖かった。動けなくて、壊せなくて、だから何もできなかった。自分の想いにも蓋をして、深く深く底に埋めてしまって、知らないふりをし続けた。
蓋が壊れるのは、一瞬だった。
クランカイトと口付けをした。
詳しく言えば、二度。不意打ちのそれと、合意のものと。唇を重ねて、それからはもう、愛おしさが溢れてどうしようもなかった。
ぎこちなく舌を絡めて、口腔をまさぐられるのも受け入れた。堰を切ったように欲は溢れる。もっと深くで繋がりたいと、えずきそうになるほど夢中で唇を合わせた。
我に返ったのは、クランカイトの手がユージオの制服に掛かった時だった。
釦を外されて、彼の意図に気付いた。何をしようとしているのか。自分に対する気持ちがどんなものか。その瞬間、ユージオは身体を引き剥がして、彼の自室から飛び出したのだった。
――なぜ逃げたか、というのは自分でもよくわからない。
単純に、性欲云々も知らない子供の頃からの付き合いであったために、クランカイトが自分に対してそういう欲を持っているという自覚が薄かったのかも知れない。とにかくあの時は驚いて、ひたすら動揺して、とりあえず離れなければとそれだけだった。
だが、理由がわからないままを許すクランカイトではなく、むしろあの一件があったために、彼はユージオに逃げ道を残しておく優しさを捨てたようだった。
「十五の誕生日の夕食に招きたいんだが」
ユージオが隠れ家にしている、王都の外れの小屋の中で、クランカイトはおもむろにそんなことを言った。
聞けば、祝いの宴を開くというわけではなく、身内だけの食事会にするつもりだという。そこにユージオを招きたいと言うのだった。彼がそこまで己の生まれた日に執着があったか否かというと、間違いなくないはずで、だからユージオを招くというのも何の冗談かと思ったほどだ。
ますます意味がわからないと答えたが、クランカイトは呆れた顔をした。
「お前、卒業した後は礼拝堂から出るだろう。その時の後見、うちが引き受けるから。実質身内みたいなもんだ」
「は? 一体いつそんなことが決まって……」
「うちの母さんが招くのに、まさか断らねえよな?」
ユージオは否定できずにぐっと言葉を詰まらせた。
日頃からなにかと気を回してくれるシグリに対して、善意を無下にするような真似はできなかった。その名前を出されては、ユージオに拒否の二文字はなくなってしまう。
クランカイトもそれをわかっていて、すでに礼拝堂に外泊の届けを出しているという。アステリア家から出された届けをまさか礼拝堂が撥ね付けるはずもなく、その日にユージオが礼拝堂へ戻ったとして、すぐにアステリア家に向かわせられることだろう。
どういうつもりなのかと訝しんでいると、クランカイトは臆面もなくユージオへときっぱりと言い放った。
「寝所に誘ってる」
――耳を疑った。
いや、疑いたかったし、間違いだと思いたかった。だが、残念ながらそれは聞き間違いなどではなく。
「逃げは、なしだ」
ユージオの往生際の悪さを知っている男は、完全に逃げ道を塞ぐことにしたらしい。外堀を完全に埋めてみせた上で、最後にユージオに誘いを持ち掛けた。与えられた選択肢は一つだけだった。
そんなやりとりがあって、ユージオは結局、クランカイトたちの成人の誕生日に、祝いのために向かわざるを得なくなったのだった。
礼拝堂からの土産を片手に、ユージオはアステリア邸へと赴いた。
クランカイトの言う通り、盛大な祝いというわけでなく、普通の夕食を豪勢にしただけの、本当に身内だけの祝いだった。始めは楽団や両替商の得意先がめかし込んで呼ばれる場なのだろうと思っていたが、クランカイトの言う通り、呼ばれたのはユージオだけだ。訪れたユージオの顔を見て、アステリア夫妻はたいそう喜んでくれた。
ブドウ酒で乾杯した後に案内された、奉公人とシグリが腕を振るった夕食の場は、アステリア邸の大きな食卓に並びきらないほど豪勢だった。
好きに食べてくれと言いながら、シグリはせっせとユージオの目の前に取り分けた料理を出してくれる。盃が空けば、すぐにお代わりを注いでくれて、ずいぶん細やかに気を遣って貰った。そのおかげもあるのか、ほろ酔いのユージオもずいぶん緊張が解けていた。
いつもと変わらず談笑して、食事を食べて、もうこれ以上は無理というほど満腹になった。シグリに待ったを掛けて休んでいたユージオは、クランカイトとフローレインが少し離れて座っている隙を見て、何とはなしにシグリへ尋ねた。
「その、何かの間違いだと思うのですが……俺の後見をと聞きました」
これで勘違いだったらクランカイトへ文句の一つどころで済まなかっただろう。だが、シグリは酒杯を片手に上機嫌で答えた。
「間違いじゃないわ」
ねえ、とクラウディアスに同意を求め、彼もまたにこやかに頷く。もう何年もよくしてくれる夫妻の返答に、しかしユージオは少なからず困惑した。
「卒業したら、礼拝堂にいられないのでしょう?」
どこから聞いた話なのか、急に申し訳なさそうな表情になったシグリに問われた。ユージオは「そうです」と端的に答える。
「その後、どうするの?」
「高等学校へは行こうと思っています。寮のある場所が幾つもありますから。学費と生活費は奨学金を受けるつもりです」
「さすがにしっかりしてるわねえ……レインもね、もう少しあなたみたいにしっかりしていれば心配ないのに」
「それがいい所だと思いますよ」
前もってあれこれ悩みはせず、その場に差し当たった時に考える。そういうフローレインの一種楽観的とも言える構え方は、ユージオにとっては新鮮で、何度となく気が楽になったものだ。
聖宮の巫女になると決めてからも、今までと変わりないフローレインの言動には、ユージオたちの心配も多少なりとも緩和されているのは事実だ。
シグリはどこか可笑しそうに「それもそうね」と嘆きを放り出して話題を戻した。
「でも入寮までは少し日が空くでしょう? うちにいらっしゃいよ。……レインがいなくなったら、きっと寂しくなるもの。せめて寮に入るまではどう?」
「それは……」
ユージオは言い淀んだ。社交辞令ではなく、本意で言ってくれているのはわかる。提案に甘えて図々しいと言われることはないだろうし、それを望まれてすらいることもシグリの表情からはわかった。
けれど、後ろめたい思いからどうしてもユージオの言葉は濁る。
「でも……」
「遠慮だったら、しなくていいわ。むしろ私たちがお願いしたいの」
「……っ」
「学校に入る時もね、親代わりといっては礼拝堂に申し訳ないけれど、後見を任せて貰ってもいいかしら。そりゃ、商人の後見なんて大したものではないけれど、困った時、力になりたいの。二人を助けてくれた恩返しなんて、大それたものじゃないのだけど」
フローレインが礼拝堂で火に巻かれた時のこと。クランカイトが攫われそうになったこと。それをユージオが救ったとシグリは思っていて、そのことについてはずいぶん感謝されていると知っている。けれど。
「私たちがあなたにできること、このぐらいしかなくって」
善意でしかない言葉だ。わかっている。けれどそれを素直に受け取ることができないのは――クランカイトとのことだ。
彼は強かに言い切った。何も犠牲にしないと。家のことも守るし、ユージオのことも諦めない。だから観念しろと言われた。この想いを――彼を好きだと認めることを。
けれど、どうしても考えてしまう。それは、この夫妻に対する裏切りになるのではないかと。
「……どうしてそこまで、家族でも――」
ないのに、と言い掛けて、ユージオは途中で口を噤んだ。さすがに捻くれた言い方だと思ったし、よくしてくれる相手に対して、あまりに情がない言葉ではないだろうか。
だが幸い、言葉の続きを察したシグリは、苦く笑っただけだった。ひらひらと手を振る。
「そうかもしれないけれどね。でも――カイトとレインにとって、家族ぐらい大事みたいだから」
「!」
「あなたも」
ユージオの顔を覗き込んでくる、クランカイトと同じ翠玉の瞳。優しげなその色に見据えられると、いつも考えがうまくまとまらない。
「同じように思ってくれているのかしら、と」
シグリの言葉に対して、ユージオは結局、肯定も否定もでてこなくなってしまった。そして実際その問い掛けは、半分が本当で、半分が――ユージオ自身、よくわからないものだった。
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