大人になる日 2
© 2019 sasori_bi 夜風に当たると言って、ユージオは一人庭に下りた。
湯を浴びて一息ついても、まだ腹はいっぱいで苦しい。苦痛になるほどの満腹というのは初めてだ。石畳の庭に置かれていた椅子に掛けて、呻くような声を上げる。贅沢なことだが、これはこれでなかなかに辛いものなのだなと思った。空腹とどちらがましかと聞かれて、少し迷う自分もいるほどだ。
アステリア邸の庭は、シグリの趣味で丁寧に手入れされた生垣や花が埋め尽くしている。夜露が降りて微かに湿った匂いがした。静かな夜だ。礼拝堂の夜はいつも親を恋しがる子供の泣き声がしていて、静けさと程遠い。いつも外の方がどれほどマシかと思うほどだが、毎日こんな夜なのではどこか寂しい。
背もたれに肘を掛けて目を瞑っていると、やがて足音が聞こえてきた。
続く柔らかな声に、ユージオはゆるりと目を開く。
「ねえ、さっき母さんと何話してたの?」
ユージオと入れ替わりに湯を浴びに行ったフローレインだ。ユージオがぼんやりしているうちに上がって、戻ってきたらしい。摘みと杯をそれぞれ片手に持って、上機嫌で歩いてくる。
ユージオは思案したのちに答えた。
「色々、気を遣って貰ってる」
「ああ、そんなこと? いいんだよ、単に母さんたちがしたいだけなんだから。好きにさせておけば」
あっけらかんと言い放ち、フローレインは向かいの椅子に腰掛けた。
あまりにも投げたような言いざまに、さすがにユージオも反応に困った。
「……そういうわけにも」
「そんなことより摘み食べる? ブドウ酒ももっと飲みなよー」
「無理」
「もーすぐ無理って言うー」
何が可笑しいのか明るい声ではしゃぐフローレインは、きゃらきゃらといつにも増して上機嫌だ。ブドウ酒が回っているのだろう。満面の笑顔で杯を煽るフローレインに、ユージオはそろそろ止めたものかといささか頭を悩ませた。
が、不意にフローレインは正気を取り戻したような優しい目をした。
「まーでも、誕生日に来てくれるなんて、思わなかったよ。嬉しいね、いい日だ」
「あんたの片割れに嵌められたんだ」
「あっはっは!」
思わず口を衝いたが、言わなくてもいいことだった。が、反省するユージオとは裏腹に、弾けるように笑声を上げるフローレインは、やはりたがが外れたような明るさだ。
「カイトはねー、仕方ない。ユージオ大好きだからさ。来て欲しかったんだよ」
「大……」
「知らないかなあ。昔さあ、私、カイトに『ユージオはやらない』って釘刺されてるんだよ。取らないっていうのに、まったく疑われ損だよ。どんだけまいってるんだって今になると思うね」
何を馬鹿なことを言っているのだろうと、ユージオは内心呆れた。幾らなんでも実の妹に敵対心を向けるとは、阿呆なのだろうか。ユージオもフローレインに対しては庇護欲のようなものこそ持てど、異性という認識ではないことぐらいわかっているはずだ。
でも、と脚をばたばた揺さぶりながら、フローレインは可笑しそうだ。
「その時、私びっくりした。よく考えたらそれまで、おもちゃとか本とか全部、私が欲しがったらカイトは何でも譲ってくれてたから」
あの男ならやりかねない。
だがふと、フローレインの笑みには苦いものが入り混じる。
「……譲らないって言われて、それに初めて気付いた。私すっごく甘やかされてたなって。まあ今もそうだけど。普通はさ、兄だからって、何でもはあげられないのに。カイトは何でも簡単に譲ってくれた」
半分その通りだと思う反面、少し違うのではないかともユージオは内心思った。
クランカイトがフローレインに譲るのは、執着するほどのものではなかった面もあるのではないかと。あの頃、クランカイトにはフローレインより大切なものがなかった。フローレインにも譲れないほどの執着を、何に対しても持っていなかった。だから何もかもフローレインに与えられたのだろう。けれど。
初めてフローレインよりも大切だと思ったのだと。
クランカイトがユージオに対してそう言ったことが思い出される。そして、そのことを思い返して一人、形容しがたい気持ちになりながらも、どうにかそれは内に留めた。
「……物じゃないんだが」
「うん、でも考えてみれば、カイトがそれだけ執着したの、ユージオぐらい」
隠したことを言い当てられたようで、ぎくりとした。
だが、フローレイン当人にそんな意思はまるでなく、ただの世間話でしかないようだ。
「だからユージオがカイトのこと好きだっていうなら、私はとっても嬉しいよ。カイトが嬉しいことも、ユージオが嬉しいことも、私にとっては嬉しいことなんだ。二人揃って嬉しいなら、私は二倍嬉しい。そういうの、ユージオには迷惑かも知れないけど」
笑い掛けられて、ユージオの反応は鈍いものになる。
そんなのはユージオも同じだ。クランカイトとフローレインが幸せであってくれるなら、ユージオは嬉しいのだ。だから、仮にフローレインのその思いが迷惑だというなら、自分の思いも迷惑だということになる。
けれど、同時に思う。
それはユージオにとって、自分が関係することではないのだ。
「……そんなわけ、ない」
「でもあんまり明るい顔じゃない」
にこにこと鷹揚そのものの顔で、フローレインはユージオの内心を見抜いたように言い放った。
「カイトに押し切られたんなら、もちろん無理はしないで欲しいんだけど……ユージオ、大丈夫? ユージオはカイトのこと、普通に友達みたいに好きなだけなのに、カイトに合わせて無理してない?」
とっさに言葉が出なかった。
目を丸くするユージオに、フローレインは思いのほか真剣な顔になった。
「カイトが無理強いするなら、私ユージオの味方するけど。……本当はどう?」
「俺は……」
どうしても詰まりそうになる言葉を一度噤んで、深く息を吸う。吐き出して、少し動揺を収めてからぽつぽつと続けた。
「無理なんか、してないと思う。でも、どうしても色々と考えて、それが邪魔する。……感情とかを……二の次にする、してしまう。そうしたくなくても」
自分の気持ちなどよりも、理屈や世間体、常識と思うものを優先させてしまう。色んなものを気にしすぎて、自分の気持ちなどは疎かにしてしまう。どうしても。
「カイトに言わせれば、馬鹿な悩みなんだろう」
自嘲気味な笑みが思わず零れた。
フローレインは眉尻を下げて、少しの間押し黙る。
何か考えている素振りを見せた後、不思議そうに問いを掛けてきた。
「ねえ、何でカイトがいいの。私と似たようなものじゃん。顔とか、付き合いの長さとか。だったら私でもいいんじゃない? なんでカイト?」
自分でそれを言うか――と思いながら、ユージオは苦く笑うしかない。
「家族になろうと、言ってくれた」
思い出すほどに胸の内を掻き乱される。
忘れもしない、クランカイトがユージオを好きだと言ったあの日、一緒にくれた言葉は本当に特別だった。
「あったものがなくなって。カイトの言葉で、足りないものが埋まるわけじゃなかったけど。でも本当に嬉しかったんだ。俺にとって、新しい特別になった」
母が戻って来るわけではない。彼女の死という欠落がそっくり埋まるわけではない。けれど、クランカイトは違う形でユージオに特別をくれた。母以外誰もいない自分に、たった一人、一番を与えてくれた。
本人には決して言えないことでも、フローレイン相手とあって少しばかり口は軽くなる。抱えた想いをつい堪えきれず吐き出してしまうほどだ。
「本当に嬉しかった。カイトには言ってないけど、ずっと救われてた。大事で」
聡い彼のことだ、どう言えば一番効果的に相手に響くか、理解した上で言ったのだとしてもおかしくはない。けれど不思議なことに、それでもいいと思えた。それを差し引いて余りあるほどに救われた。
だからまして、自分などが一緒にいたらいけないような気がするのだ。なのに離れられない。そんな板挟みの思いで少し苦しい。
「カイトが理想の女の人と結婚するなら、それが一番いいと思ってた。そう――思い込もうとしてた。それで幸せになってくれるなら、俺も幸せだって。なのにあいつはそうじゃなくて――」
「ユージオはさ」
言葉を遮って、フローレインは口を開いた。
「カイトのこと大事にし過ぎて、自分じゃカイトのこと幸せにできないと思ってる」
跳ね上げるように顔を上げて、フローレインを見た。その目は酔っているはずなのに思いのほか理性的で、目が合った途端、ユージオは否定の言葉を噤んでしまった。
代わりに零れたのは、心底からの同意の言葉だ。
「……そうだな」
「でも全然勘違いだよ」
重く響くユージオの声とは対照的に、フローレインの声は軽やかで、跳ねるように陽気だ。
「カイトはさー、もっと簡単だよ。ユージオがいるだけで幸せだし、ユージオがいないと幸せじゃないんだよ。もうユージオが考えてるよりずっとカイトはどうしようもない。ユージオ以外じゃきっと手に負えないと思う」
「さすがにそこまでじゃ……」
「っていうか、カイトと同じレベルで頭が回って悪さできて、それでいて手綱握ってくれるのなんて、ユージオぐらいしかいないんだけど。お願いだからカイトを野に放たないで欲しい。ユージオが一緒にいて目を光らせていてくれないと安心できない」
「あんたなんてこと」
フローレインは臆面もなく「本当のことだ」と断言した。
「今までと変わらない。細かいこととかは、大丈夫だよ。ユージオは頭いいから大丈夫。カイトも小細工とか上手だし、何とかなるって」
「頭がどうとか、関係ないと思うんだが」
「あるよ。私はさあ、カイトとユージオは何でもできると思ってるから」
いっそ無責任とも思えるような言葉を平然と投げ遣って、フローレインは上機嫌に笑う。
それを聞いていると少し、自分の中で固く凝り固まって抱えていたものが、楽になるような気がした。ずっと難しく考えている。クランカイトもそう思っていることだろう。ユージオ自身もわかっているが、どうしても自身の思考から逃れることができない。だが、フローレインの根拠のない保証は、不思議と気持ちが楽になった。
しかし。
「……頭でわかっても、腹は据わらない」
「往生際悪すぎ……」
こめかみを押さえてユージオは呟く。フローレインまでをもさすがに呆れさせて、我がことながらいたたまれなくなる。本当に往生際が悪い。言い訳や口実、色んなものを盾にして、簡単なことを難しくして、どうにか遠ざけようとしていた。
ユージオを好きだと言うクランカイトのように、もっと簡単でいられるなら、どれほどいいだろう。
「……でも、聞いて貰って少し楽だ」
短く「ありがとう」と告げると、フローレインはとびきりと笑顔を見せた。杯を突き出すようにして上機嫌に手を上げる。
「どういたしまして!」
「何の話だ?」
「うわ!」
割って入った声に、フローレインが悲鳴を上げた。ユージオも声には出さずとも驚いて、肩先が跳ねる。
生垣から姿を現したのはクランカイトだ。驚愕する二人の顔に、不思議そうな表情を浮かべていた。どうやら会話は耳に入らなかったようだ。
驚きが収まったか、フローレインは胸を撫で下ろす。
「カイトか……」
「何をコソコソしてやがる」
胡乱げな目つきで尋ねられ、問われたフローレインは楽しそうだ。
「カイトの悪口かな」
「許さねえ」
「うわっ嘘、許容量狭い! 冗談だよ悪口言ってない! 許して欲しい!」
「今後の行い次第だな」
フローレインはげんなりと「望み薄だなあ」とやるせなく呟く。許される日が来なさそうだと思っているのだろう。ユージオも同意見だ。
そんなことを思いながら、何とはなしに二人の様子を眺めていると、クランカイトと目が合った。
ぎくりとした。だが、今日の内には彼と話をしなければいけないことは、わかっていた。
ゆるりと一度瞬きをして、首肯の代わりにする。それを確認したクランカイトは、視線をフローレインに戻した。
「話が済んだなら、変われ。今度は俺の番」
「えー……いっつもカイトの番なんだから、今日ぐらい私の番でもよくない?」
「よくない」
フローレインは「けちだなあ」と悪態を吐きながら、椅子から立ち上がった。摘みの皿と酒杯を両手に、やはりご機嫌な足取りで去っていく。
「じゃあねユージオ、おやすみ」
「おやすみ」
短く就寝の挨拶を交わす。フローレインの足音は遠ざかっていき、そのうち音も聞こえなくなる。
戻ってきた寂しいほどの静寂の夜に、ユージオはじっとクランカイトを見据えた。
「カイト」
どう切り出すべきだろうと迷いながら呼び掛けると、それまで無表情だったクランカイトは、急に可笑しそうに相好を崩す。どこまでも愛おしそうな優しい瞳に、胸が苦しかった。
「……何だ、その顔」
© 2019 sasori_bi
prev / next