或る軍人の追憶 1

© 2019 sasori_bi
 毎日、生きるか死ぬかの境目に立っていた。
 一歩踏み出せば簡単に死ねるような、生きているというにはあまりにも死線が近過ぎるような。曖昧な日々だった。

「はあっ、はっ、はっ……っ、は……」

 心臓の音は激しく、鳴り止まない。呼吸は穏やかさと対極にあって、それなのに肺が膨らまない。絶えず呼吸は苦しくて、頭は酸欠でくらくらしている。

 少年は艇の端にしがみ付きながら、水平線の向こうを見た。
 帆を畳んだ小さな帆船に揺られながら、これから襲い来るであろう艦を待っていた。少年のみならず、同じほどの年頃の少年や少女たちが小さな艇にしがみ付きながら待っている。

 同じように子供を数人乗せた小さな帆船が何艘も、頼りなく船体を綱に繋がれ、並んで荒波に揺られている。漁船より喫水が深いのは、常に高波を受け続けるためだ。――先を行く大型の船の航跡波を。

 五十近い火砲を抱いた大型軍艦、ガレオン船『ヘイムダル』。近隣諸国にその名を轟かせる、ガレシアの主力艦。

 その名の由来は、建国の王スヴァローグ�T世に仕え、共に国を興した、初代ガレシア宰相ドルト・ヘイムダルと言われる。戦闘特化の魔法道具を数多に搭載した、対外防衛の要。あるいは、領海が隣接する大陸からの船、その上陸を阻むための威力装置。
 ガレシア沖の領海付近、激戦地に必ずその船影ありと謳われる、ガレシアの堅牢たる守りの艦だ。

 その艦を中央に据え、周囲を固めるように小船が何艘も黒い海に浮かんでいる。『ヘイムダル』の高い戦闘力と引き換えになった機動や敏捷性を補うために、周囲に固められた護衛の船だった。

 だがその実情は、孤児をどこからともなく集めて乗せただけの、二束三文の命と、ぼろ船の盾。――日夜、栄える魔法の国ガレシアへの侵攻を目論む敵船を撃破するための、使い捨ての未熟な魔法使いたちだった。
 その中の一艘に乗り込む少年もまた、その例外ではなく。

 物心ついた時にはすでに、大陸の隊商で小間使いの孤児として生きていた。

 幾つもの国を周り、大人と同じ内容の肉体労働を強いられ、当然のことながら至らないと虐げられ、時に暴力を受ける。違う国に行くたびに、周囲は理解のできない言語で溢れ返り、意思疎通が図れない苦痛に苛まれる。理解できない言葉で語気荒く叱責される。それに慣れる前にまた別の場所へ。
 食事は決まって、長距離移動のための携帯食料だった。腹が満たされることを優先した、味も何もない乾いた食料。それから、少しの水だけ。水は貴重だからと、下っ端にまで十分に与えられることはなかった。茶などの贅沢品などは論外で、雨水や泥水を沸かして啜り、それでも頻繁に当たって苦しめられた。
 あまつさえ、時に少年趣味の下衆の欲の捌け口にまでなった。この辺りについての詳細は覚えていない。物心ついた頃にはすでにそんな生活だった。

 家族どころか、どこの国の人間であるかさえもわからない。ほとんど奴隷と変わらない。幸福や安寧とは無縁の、苦痛が苦痛ともわからないほどにありふれていた日々だった。そして、そんな子供は周囲に何人もいて、自分だけ特別に不幸なわけではなかった。


 そんな生活の末に、船の乗組員の定数を越えたからと港で簡単に売り払われ、そのまま別の船に積まれてガレシアの奴隷商のもとへ。

 そして、ろくにガレシアの国内など見ることもないまま、またガレシアの陸から船に乗せられ、海へと戻り、魔法兵とは名ばかりの使い捨てられる駒となった。

 どちらがましだったのか。少年は海の上で何度も頭を過ぎらせた。
 こんな、全力で死に抗うだけで、どれほど頑張ったとしても結末が変わらないような生活と。毎日暴言を浴びせられながら限界を超えて働かされ、殴られ、犯される日々と。――魔法兵となって一年経っても、結論は出ない。

 一年。魔法兵にしてはそれなりに長い方になった。盗賊に狙われるような危険に晒される隊商で働いてきたせいか、危機に際した状況への構え方は、凡庸な並みの子供には備わっていないものがある。入れ替わりの激しい魔法兵にしては長く、近頃は『ヘイムダル』の乗組員であるガレシア海軍軍人から、顔を覚えられるほどになった。
 どうにか一年、死を免れてきた。だが、一年生き永らえただけという状況は変わっていない。ふと諦めれば簡単に死ぬ、死線の上を歩く日々に変わりはない。

 その間に一体何人、子供が死んだことだろう。もう顔さえ覚えていない。名前も、そもそもあったのかどうかさえ知らない。名前を呼ばれることもなければ、死んだことさえわからない。死を嘆く人間すらいない、そんな憐れな子供ばかりだった。

 船の中で身を震わせる子供の中には、当然のこと、少女もいた。見目が優れているわけでもなければ、特別魔力に長じているわけでもない。どちらかが秀でていれば、また別の行先もあっただろう。だが、それすら持たない凡庸な子供が圧倒的に多かった。

「たすけて、かみさま……。……おかあ、さん」

 海に出て間もない子供は、いつ来るかも知れない敵襲に怯えて震える姿も珍しくなかった。

 その手には何かが握り締められている。少年はきっとその『かみさま』に類する何かなのだろうと、冷めた気持ちで思った。ガレシアの国の子供は大抵が持っている。小さな木端の耳飾り――にしか少年の目には見えなかったが、ガレシアの国の人間にとってはどうも、それが信仰の対象であるらしい。軍人たちもそれは同じようだった。

(かみさま、な)

 隊商で扱うのは商品だけではない。信仰もだ。

 少年にとってそれは形のない商品でしかなかった。少年とて二度ほど縋ってみたこともあるが、何も変わらなかった。三度目はなかった。三度も同じ裏切りに遭いたくはなかった。

 同じ境遇の子供の中には、信仰と称した中毒性の何かに依存する者もいたが、どうもそれとは種類が違うようだ――程度の認識だった。そして、興味もなかった。

 少年が知らなければならないのは、異国の神のことなどではなく、これから自分たちを襲ってくる敵国の船の数と兵力、そしてその砲火を防ぐ手段――それだけだった。
© 2019 sasori_bi

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