聖宮の巫女 1

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 ――…………で……。

 遠いところで声がする。
 フローレインは目を開こうとした。けれど、瞼は重くて開かない。瞼の裏の暗闇の中、高い子供の声がどこか遠く響いてくる。

 ――……だから…………で。

 何かを叫んでいるのが聞こえた。身体は動かない。鉛のように重く、指先一つとして微動だにしない。
 その代わりに、何かを叫ぶ子供の声だけが聞こえてきた。

 ――死なないで。お願いだから。

 濡れた感触が頬に当たった。雨に似ていて、少し違う。立て続けに数滴、雫が顔に落ちてくる。
 涙を流しているのだろうか?
 なぜ?
 私は死ぬのだろうか。――そうだろう。今にも力尽きるのだろう。もうずいぶん長いこと、無理をし続けてきた。何も不思議はない。けれど。

 泣き叫ぶ子供の声。なぜだかその小さな声の主の存在が、急に愛おしく感じられた。
 縋るように身体に触れている。見えなくてもわかった。縋り付いて、泣き伏している。その子供の存在だけで、不思議と気持ちは穏やかだった。

 ――助けられなくて、ごめんなさい。

 どのみちここで終わるなら、託してみようか。
 フローレインはふとそう思いついた。そして、それがいいと穏やかな気持ちで考えた。
 私の命も、何もかも。かの幸いとなるように、祝福を授けていこう。
 最期に私をひと時だけこの世に留めた、その想いと涙のために。
 ほんの少しの未練。かつて私を作った情の名残だろうか。それならば、在るべき場所に戻るだけのこと。ただそれだけのこと。それなら。

 ひとかけらだけ置いて逝くのも悪くない。

 そしてフローレインは、声の主にそれを託したのを最期に、息を引き取った。









 ふつりと意識が覚醒した。
 ああ、朝だ――と真っ先に思った。もう起きなければいけない。今日は何の日だっただろう。いや、何の日でもいい。朝が来ているのだから、目を覚まして動き出さなくては。
 ゆるりと瞼を持ち上げる。焦点は合わない。急に差してくる光が眩しくて、長く目を開けていることもできない。開けたと思えばまた閉じて、何度も何度も瞬きをした。
 重い腕を持ち上げて眼を擦り、ようやくフローレインは天井を見上げた。
 幼いころから馴染んだ、石造りの天井ではない。白い天井には違いないが、格子状に張り巡らされた白木は、どうも見覚えがなかった。
 そして、ようやくフローレインは自分の状況を再認識した。

「ここは……」

 聖宮の一室だ。
 東の宮の、小さな個室。住居棟の三階。嵌め殺しの窓のある、寝台でその半分が埋まってしまうような小さな部屋だった。
 やけに部屋の中は明るい。鳥のさえずりが聞こえてくる。ひどく簡素な寝台の中、

「――寝坊!!」

 そう気付いた瞬間、フローレインは目を見開き、寝具を跳ね上げ飛び起きた。









 裾の長い、黒い修道服は重い。ときおり裾に足を絡ませてもつれながら、大慌てで駆け込んだ朝議の間は、すでに監督役の巫女が待ち構えていた。
 寝癖を直すのもそこそこに飛び込むと、険しい目つきで睨まれる。

「アステリア大史!」
「ひゃいっ!!」

 フローレインは自分の名を呼ばれ、そそくさと姿勢を正してその場で礼を取る。
 監督役の大祐は眦をきつく吊り上げてフローレインを睨み付けた。

「起床の時刻は五時と言っているでしょう。まだ覚えられないの? いつまで親許にいるつもりなのです。いい加減、一介の成人として、朝ぐらい起きられるようにおなりなさい、その見苦しい寝癖もなんですか!!」

 十七、八人ほどある他の巫女たちは、すっかり朝議の間で整列している。それらの視線を一身に受けながら、フローレインは真っ赤になった顔をじっと伏せ続ける。
 聖宮の巫女として入った東の宮は、神祇祐と呼ばれる官職にあるこの大祐の女性が、監督役として着任していた。彼女が礼儀作法や生活の指導、聖宮での教育を施すのだが、ここにきて以来、フローレインがこうして叱声を飛ばされるのは、これが一度や二度ではなかった。

「ご、ごめんなさい……えーと、その、夢見が悪くて……ってこんなの言い訳になりませんよね! 本当にすみませんでした……ッ」
「その話し方も! どこの田舎娘ですか、みっともない!! 神職者たるもの、振る舞いや言葉使いが美しくなければいけません。最初に言ったはずですよ。あなたはこの聖宮の巫女となったのだと、その心構えがまったくなっておりません」

 つらつらと続く叱責の言葉に、フローレインはじっと頭を下げて耐え続ける。こうなればもう延々とこの見せしめの叱咤は続く。反論も堪えてじっと我慢するしかできることはなかった。

 こうなったのも、今朝の寝坊とはまた別に理由がある。

 初日、生家に置いてきたはずのカラスのネヴィンは、聖宮についてみれば、なぜかしっかりフローレインと同行してきていた。
 驚いたが、気付くと同時にフローレインと共に宮の入り口を通り抜け、同行しようとフローレインの肩に乗ってしまえば、もはや追い返す暇もなかった。

(恨むよカイト……)

 飼っていた生き物、それもカラスなどを連れて聖宮に来た巫女など、前代未聞だった。迎えの中にいた大祐に目を剥かれ、それ以外にも呆れ、笑われ、散々な目にあった。それをきっかけに目を付けられたのだろう。聖宮に来て以来、少しの落ち度でこっぴどく怒られる毎日だった。

 くすくす、と一つのひそんだ笑声が耳に届いた。
 それをきっかけに、つられるようにして幾つも笑い声が起こる。小さな囁き声も取り交わされていた。

「また叱られていらっしゃるわ」
「よほどお好きなんでしょう。だってあの子、変わっているもの」

 囁き交わされる言葉使いは、少しの訛もない美しい発音だった。それを口にする少女たちもまた、口元を押さえる仕草は優雅なものだ。

「飼っていたカラスを連れてここに来るなんて、あの子ぐらいだわ。本当に驚いたこと」
「そもそもカラスを飼っているだなんて、気味の悪いことをなさるわね。一体どんな生活をなさってきたのかしら」
「金貸しの娘っていうのは、皆ああいう方なのではないかしら。わたくしたちが知らないだけで」
「本当に、特別扱いされて宮に来たなんて言うから、どんな方かと思えば。まあ確かにあれじゃ、特別と言えば特別かも知れませんわね」

 フローレインはばっと顔を跳ね上げた。自分の失態はともかく、家のことまで言及されて嘲られるのには我慢がならない。

「誰が特別……」

 だが、食って掛かろうとした言葉は、甲高い声にすかさず遮られる。

「いけません! あなたは今、自分がどういう状況なのかわかっていないのですか? 咎めを受けていながらその態度、反省なさっていないの!?」

 大体あなたは――と、他にあった失態を上げ連ねながら、ひたすら大祐はフローレインを詰り続ける。フローレインはぐっと歯噛みし、言葉を噤みながら、崩れかけた礼をどうにか直して沈黙するばかりだった。






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