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最悪だ。帰り際、嫌いな教授に捕まった。なんの意味も中身もない話をしばらく聞かされて、学校から出る本数はそう多くないバスを逃した。おかげさまで私は駅までの20分の道のりを歩く羽目になっている。あんまり歩かないしな、と思って新しい靴を履いてきたから靴擦れで小指がじんじんする。めちゃくちゃ、イライラする。



最近何もかも上手くいかなくて、ちょっと気になっていた先輩には彼女がいて、きわめつけは今日、大量に小さな不幸まで重なって。バカみたいにむしゃくしゃする。何か普段したくないことをして、日常から飛び出してしまいたい。思考がイマイチ働いていないのか、バカみたいなことばっかり考えてしまう。


そんな風に自暴自棄になった私の目に飛び込んできたのは、道端に置いてあった立て看板だった。


「TODAY’S LIVE」と一番上に消えないようなペンで書かれている、その下には見たこともない英字、と、ちょっと洒落た日本語、など。これは…?イライラに任せて、どんどんと歩を進めていたからあまり見慣れないところへ辿り着いてしまった。この看板はなんの看板だろう。思わず立ち止まりまじまじと見つめていると、背後から急に声をかけられた。


「ご興味が?」


「へあ、……は?」


そもそも、この看板はなんだろう。トゥデイズライブ、ということはライブ、音楽のライブ?つまりここは、────


「今日、何かお目当てのバンドでもいるのかと思ったのですが。」


ライブハウス…………。完全に未知の世界だ。むしゃくしゃした先にたどり着いたところがそんなところだとは思わなかった。看板を見る限り、私が知っているようなバンドは出ないらしい。多分、あんまり大きくないような。インディーズ…というくくりになるのだろうか。声をかけてくれたこの人はお客さんだろうか。どうせなら、よくわからないままここに飛び込んでしまいたい。知らない世界に溺れたほうが気が紛れると思う。それくらい、今の私は疲れているのだ。


「あの、……全然ほんとに何も知らないんですけど、私もライブ、見れますか?」


どうせなら。どうせなら、何か新しいものに出会いたい。そう思って声をかけてくれたお兄さんに問いかけた。柔らかそうな猫っ毛気味の茶髪に、黒縁のメガネ。すごくスタイリッシュで顔のいい、爽やかなお兄さんだ。物腰が柔らかくて優しげなのに、よく見れば耳にはかなりバッチリとピアスが開けられている。……ライブハウスにいそうな人っぽい。



「勿論見れますよ、大歓迎です。あ、俺今日出演者なので、俺のバンドをお目当てにしてくれませんか?」



そう言われて、導かれるがまま私は中に入ってしまった。……ちょっと暗い。分厚い扉の向こうからは、ちょっぴり大きめのBGMが聞こえてきた。どうすればいいのか、キョロキョロしていると先ほどのお兄さんが受付の人の前で私を手招きしている。そうか、入場料。
「この方、俺のバンド見にきてくださったみたいで。取り置きの方で出しておいて頂けると嬉しいのですが。」とにこやかにお兄さんは受付の人へと説明してくれたが、私には全く理解できない。取り置き…?なんのことだろう。


「もーちょっと加賀美くん、取り置きのリストさっき出してたのに。記入漏れ?」


受付のお姉さんはバインダーにをめくりながら、えーと、Α…とぶつぶつ呟く。


「申し訳ない!でも一人増えても問題ないですよね!?今日そんなに詰まってもないですし…!」


よくわからないけど、交渉しているみたいだ。物腰の柔らかいお兄さんは手を顔の前で合わせ、懇願している。さっき出会った何も知らない私のために、そこまでするのか〜と思ったけれど。よく考えたらお客さんは必要不可欠だものな。どうやら交渉はうまく行ったらしく、お兄さんはこちらに向き直った。


「前売りの料金で入れるみたいです!今日はドリンク代込みで2500円みたいですね。お持ちですか?」


こて、と首を傾げてくるお兄さんに、私も首を傾げ返した。にせん、ごひゃくえん?私の知っているライブは5000円とか高ければ1万以上とかのイメージだったけど、こういうところはそういう値段で見られるんだ。早速新しい学びである。おとなしく財布から3000円出すと、お釣りと一緒にチケットの半券とラミネートされたチケットと、あとはチラシの束?を渡された。ラミネートされたチケットはよく見るとDRINK TICKETと書かれている。書いてその通り、これで飲み物をもらうのか。しげしげとそれを眺めていると、ちょっと可笑しそうにお兄さんは言った。


「本当にライブハウス初めてなんですね。たまたまとはいえ、あそこでお声がけして本当に良かったです。お気に召すかはわかりませんが、是非楽しんで行ってくださいね。」


たまたまライブハウスの前で発見した、ちょっと疲れた女子大生に突然声をかけてここまで引き込んでくれた。私のむしゃくしゃした気持ちなんて、全然知らないはずなのに。私一人なら、こんなところに入る勇気なんてなかった。


「あの。全然知らない私にお声がけ、ありがとうございました。あの、今日ライブされるんですよね?楽しみにしてますね」


とりあえず、当たり障りのない挨拶をしておこう。ライブが終わって、あんまりだなあと思えばすぐに出て行けばいい。多分。さっきからみんな結構出入りしているみたいだし、ライブが始まるまではかなり自由なのだろう。チケットの半券があれば再入場はできるみたいだ。お兄さんはノースリーブの人に呼ばれ、私に会釈をしておそらく楽屋であろうところへと消えていった。


さて、こうなれば私は一人だ。そっと分厚い扉を押し開け、中に入る。思っているよりも暗い、し、ちょっとタバコの匂いがする。フロアには人がだいたい15人程度といったところだろうか。思っていた以上に人数は少なかったし、あと、想像以上に狭い。街中にあるライブハウスはこんなサイズなんだ…。ドームだの、ホールだの、そんなところしか知らなかったから新鮮だ。照明も単色のものがいくつかと、かなり簡素に見える。


ぼんやりとあたりを見渡しながら時間が過ぎるのを待っているとBGMが一瞬大きくなってフェードアウトし、そこから別のものが爆音で流れ出した。え、音、でか。どうやら爆音の音楽は入場曲みたいなものだったらしい。先ほどのお兄さんと、ノースリーブのお兄さんと、あとは…爽やかそうなお兄さん。もう一人はドラムにすぐ座ってしまったため、暗くてよく見えない。声をかけてくれたお兄さん、は、加賀美さん。と呼ばれていたような。ボーカルなんだな…。


ドラムが大きくフロアタムを叩き、勢いよくシンバルと一緒にバスドラを踏む。よくある導入だ。吹奏楽のドラムでもたまにああいうのはあった。なるほど、それに合わせてお客さんは拍手し、フー!と囃し立てる。ノリが、結構軽い気が…。



「来てくれてありがとう!宜しくお願いします!!!」


そこからのことは、まるで形容し難かった。あんなに爽やかだった加賀美さんの喉から出て来たのはデスボイス、シャウト、それなのに耳に残る高音。え、さっきまでの人がこんな歌を…?ノースリーブのお兄さんもギターを弾きながら時々コーラスをする。多分、曲調的には結構ラウド系、と呼ばれるものなんじゃないだろうか。普段全然聞かないジャンルなのに、こんななれない環境で聞くからだろうか。妙に体が高ぶって、勝手に体が揺れた。私より前で見ているフロアの観客たちは楽しそうに体を揺らし、手を挙げ、時折手に持ったカップからビールをこぼして笑っている。


お酒は一ミリも飲んでない。でも私の心は飲酒後みたいにドキドキしていた。
────今、ここには、私のことを知る人は誰もいない。
そう思ったら、自然と体が音楽に合わせて踊り出す。すごい。楽しい。加賀美さんところのバンド、曲もいい。声もいい。めちゃくちゃ楽しい。自分がこんなジャンルを好きだなんて知らなかった。


30分間、圧倒されていた時間もあったとはいえ私はじっくり楽しんでしまった。前の方にいるいつもいるであろう人たちのはっちゃけぶりに当てられたのか、私まで楽しんでしまった。なんだ。爆音に囲まれて、音楽で体を揺らすことがこんなに楽しいなんて。先ほどもらったドリンクチケットは、メニューの中にあったピーチリキュールへと変わった。明日も普通に大学だけど、知らない。楽しかった日に飲まなくて、いつ飲むんだろうか。


カウンターの近くでチビチビと飲んでいると、ライブ終わりの汗だくの加賀美さんがやって来た。私の持つ瓶に目をやり、ぱちくりと目を瞬かせる。


「こんなところへ誘っておいてなんですが、成人されていたんですね。……お楽しみいただけましたか?」


私へと問いかけながら、カウンターに向かって「ビールで」と注文する。


「あの、私、一応もうすぐ21なんですけど。」


「それは失礼いたしました。かなりお若く見えたので、高校生かもしくは19歳くらいかと。」


暗に童顔だと言われているとは思うが、まあよくある話だ。ぐい、と瓶を煽って私は加賀美さんのことをじーっと見た。



「なんか意外でした。あんな激しい系の曲を歌われるんですね。初めてだったけど、すごく楽しかったです。」



「はは、よく言われます。多分私、…あ、俺、は、見た目的にはあまりバンドもやってそうにないみたいなので。」



確かに。どちらかというと優等生な感じに見えるし、今の一人称の間違えもあいまって普通にサラリーマンをやっていそうだ。しばらくなんでもないような話で盛り上がってしまったが、私と加賀美さんは初対面だ。何もお互いのことを知らない。


「あの、お礼いうの忘れてました。私、葉加瀬冬雪って言います。今日は私を引きずり込んでくれて、ありがとうございました。……その、ちょっと嫌なことがあって。普段しないようなことをしたかったんです。」



そうお礼を告げると加賀美さんは口元に優しい笑みを浮かべて、「いいえ、こちらこそ。ご覧になってくれてありがとうございました。私たちにとってライブとライブハウスは日常ですが、あなたにとっては非日常でしょうし。いいリフレッシュになっていたら幸いです。」と伝えて来た。



これが私と加賀美ハヤトさんの出会い。私とライブハウスの出会い。ここから私の人生が新しい世界、感情、情景ばっかりになっていくなんて、思ってもみなかった。



めくるめくミラーボールと一緒に、私の日常が周り出す。