とある一般生徒にとっての仙河緑



何の変哲も無い毎日だ。


なんて言ったら、まるで漫画や小説の中のちょっと気取った主人公みたいだろうか。何となく学校に行って何となく生きている毎日であることに変わりはないけれど、こんな風に生きている高校生はきっとたくさんいるはずだ。そうはわかっているのに、こういう思考をやめられない。


特別将来の夢もない。友達らしい友達もいない。趣味と呼べるものも全部浅くってとてもじゃないが胸を張って趣味です、とは言えない気がする。帰ってからの時間はもっぱらゲームかネットサーフィンだ。あと、時々映画とアニメ。これが所謂“オタク”なんだろうか。何がどうなっていたらオタクなんだろう。こんな風にどの型にも当て嵌まらないまま、窮屈とも言い切れないまま、何となくふわふわと漂っていていいのだろうか。


本当に何の変哲も無かった。ただただ毎日を消費していくだけだった。



「うわ、仙河さんと同じクラスだ。」


二年生に上がる直前、最後の登校日に張り出されたクラス替えの表の前で誰かが言っていたのが聞こえる。自分にとって数少ない日常のイレギュラー的存在────仙河緑の名前だ。うちの高校は基本的には性別に沿ってそれぞれスカート、ズボンと制服を選択する制度なのだが入学当初に“同級生の中に男女どちらもの制服を着ている奴がいる”、と話題になった。別にどっちだっていい、好きな方を着ればいい。思うのは簡単だが、それを受け入れる柔らかいアタマが足りない人たちばっかりだ。何を隠そう、そう思えていると思っているけれど自分だって「どちらの格好も選ぶ仙河緑」をイレギュラーだと思ってしまっているのだから結局同じ穴の貉だ。人として情けないとは思うものの、それでも物珍しい目線を向けることをやめられない。先生たちは本人の意思を尊重するということで許しているそうだ。


彼女、いや、彼だろうか。顔立ちも体つきもどっちともつかない。人としての型が完璧であると言っても過言ではないというか。どこかでモデルをやっていますと言われても信じるくらい顔が整っていて、スタイルも抜群だ。正直あの人を性別で縛るのは勿体ないな、と全く知らないなりに思う。容姿も目立つ上に制服の件もあり、仙河緑はある意味有名人だった。


だが1学年300人近く居るので関わりもなく、一年生の時は見かけることもほぼ無かった。だからあの人のことは容姿と制服の件以外、何も知らない。きっとこれからも時折噂が耳に入るくらいの感じなのだろう。自分の名前を探すべく名簿に目を通す。これから始まる何の変哲も無い一年のために。



ふと、目が止まる。仙河緑の文字。それと同じ列にある、自分の名前。
ほんの少し、世界が歪んだ。



同じクラスになってからというもののついつい目で追うことを辞められずにいた。本人にはバレていないと思うがきっと好奇の目に晒されるのに慣れているのだろう。時折目が合ったような気がしても咎められることは無かった。
仙河緑は前述した箇所を除けば至って目立たない生徒だった。時々遅刻してくること、授業中は眼鏡をかけること、体育は必ず保健室で休んでいること、そして常に一人であること。これが同じクラスになって初めて知った数少ない普段の仙河緑だった。声を聞くのは授業中の音読が回ってきたときと、あとは遅刻してきたときくらいだ。小さな声で、出し慣れていないかのように辿々しく謝罪を述べそそくさと窓際の席へと向かう。



何も知らないに等しいはずなのに表向きのことだけを知れば知るほどいつか消えてしまうんじゃ無いかと危ぶむくらい、仙河緑は何かが全て曖昧だった。



学年が上がり、桜が散って木々が青々となっても自分の生活は何一つ変わらなかった。ただただ毎日を消費する。ときどき、思い出したように仙河緑を観察する。今日もあの人は授業中につまらなさそうな顔をしている。なぜだか近寄りがたく、好んで一人で居るのかもしれないが誰かと世間話をしているところすら見たことは無かった。


ほんの少しだけ変わったところといえば、自分の趣味とも呼べない浅い毎日のルーティンに、他人が投稿した動画を鑑賞することが加わった。世界には一生掛かっても見きれないくらいの動画が溢れている。ゲーム実況、歌ってみた、ナントカやってみた。中には毎日生放送をする人たちもいる。たまたまネットサーフィン中に見つけたコンテンツだが、ぼんやり見ていていると時間が溶ける。特に中身を覚えていないが視聴しているものも多くある。まさに時間を溶かしている感覚だった。毎日このくらい稀薄なほうが、性に合っている。


今日は何を見ようか、適当に過去の動画に付随するおすすめ動画の一覧をスクロールしていく。ふと、あるサムネイルに目が止まった。何人か並んだ中に、緑の髪の毛に白い肌、チャイナ服を着て大きいパンダを抱えた、よく見たことのある人物。………仙河緑?!流石に見間違えだろうかと、目を瞑ってサムネイルを見直す。普段目立たないように生きているみたいに見える人が、まさか全世界に向けて何かを投稿しているとも思えない。だがしかし、見た目は何度も目で追ったあの人にしか見えない。怖いもの見たさか、震える指で動画を再生してしまった。


声も、何度も聞いたことのある声に似ているように思える。ただ、画面の中の人物は自分の知っている人とは打って変わってよく喋る。おちゃらけるし、歌も歌うし、楽しそうにコロコロと表情を変える。大口を開けて笑っている。こんな人、知らないはずなのに。


頭がついていかない。自分が学校で見ている人物像とは全く違うのにも関わらず、「緑仙」は、どこからどう見ても同級生の仙河緑だった。




その動画を見つけた日は眠れなかった。リューシェンがどのような活動をしてきたのか、公式的なものから信ぴょう性のない噂まで端から端まで虱潰しに見た。公式プロフィールに「高校デビューに失敗」と記されて、本人が面白おかしくそのことについて語っていたりするものを見つけて途方もなくなった。こんなの、嘘にしか見えない。本当は学校でも画面の中のように大人数に囲まれて人気者なんだろうなと思ってしまう。文字そのまま、全部本当と言っても過言ではないくらい仙河緑は一人なのに。自分には、ずっと一人に見えたのに。学校を一歩出ればこんなにたくさんの人に囲まれてるだなんて、思いもしなかった。


耳で揺れる大きな飾りのついたピアスがやけに目に焼き付く。衣装として着ているチャイナ服から覗く細い腕が、ひどく不健康に見えた。




それからというもの、学校で直接目線を向けられなくなった。自分がもし騒ぎ立てたら、あっという間に仙河緑は配信者であることがバレるだろう。登録者数が20万人を超えているのに騒がれていない方が珍しいのだろうけど、それほどに学校での存在が稀薄だ。自分だけが知っているかもしれないという事実にただ教室の中ですれ違うだけでひどく喉が乾く。焦っているのは自分だけで、仙河緑はいつもと何も変わらない。時々眠そうで、どこかつまらなさそうで。

あんな時間を知っていたら学校なんて酷くつまらないものなのかもしれない。

自分には、全部全部わからないけれど。



ある日、仙河緑は久しぶりに遅刻してきた。遅れてすみません、いつものセリフ付きだ。教室中が注目する。妙な緊張が走る。これも、いつもの空気感だ。
仙河緑は席に着くなり大きな欠伸をする。
つられてあくびが出そうになる。自分も眠たい。何故なら、昨日遅くまで仙河緑が配信していたのを見ていたから。おおよそ、向こうの遅刻の理由も寝坊だろう。よくあんな時間まで喋っておいて起きてられるな。


ほぼ毎日行われる配信にコメントもせずこっそり見ているクラスメイトがいるなんて、つゆほども思っていないだろう。自分だって、バラすつもりも本人に言うつもりもない。人生で生きてきた中で一番の秘密を抱えているような状態に興奮している自分がいることをわかっている。趣味が悪いのも知っているけれど、今までにないスリルを味わった人間は、途中でそれを断つことなどできなかったのだ。


授業が終わり、すぐに次の体育のために着替えを準備した。更衣室は馬鹿みたいに混むから、すぐに行ってすぐに着替えるのが一番いい。人の密集した狭い空間に閉じ込められるのも苦手だ。誰よりも早く廊下へ飛び出し階段へ向かう自分の足に、何か硬いものを踏んづけた感触が広がる。ゴミでも踏んだかな、と上履きを履いた足を持ち上げる。


────ピアスだ。いつも緑仙が配信の時につけている、大ぶりの赤いふさふさのついたピアス。

おおよそさっきの時間、遅刻してきた時に落としてしまったのだろう。

この学校で仙河緑が緑仙だと知っていて、このピアスがいつも配信でつけているものだとわかる人は一体何人いるのだろう。下手をすると自分だけかもしれない。校則で禁止されているので、先生に見つかれば一発没収だろう。


……あとでそっと返せばいい。周りを見渡し、誰にも見られていないことを確認してからポケットにしまう。返したのが自分だとバレないように、こっそりと机の上にでも置いておけばいい。ポケットの上からそっとピアスを握りしめ、生唾を呑んだ。


次の時間の体育は集中できなかった。蹴り飛ばしたボールが変な方向へ飛んでいく。お調子者なクラスメイトが思いっきりボールを踏んづけてずっこけた。何やってんだよー、なんて笑われている。……みんな、体育なんて楽しめてすごいな。いつだって自分は遠くから傍観するだけで終わってしまうからわからないのだろうか。



放課後、誰もいなくなった教室にこっそり入る。……仙河緑が校内で何かを探す素振りを見せていたことを確認済みだ。ポケットからそっと、拾ったピアスを出す。…結構重たいように感じるけど、耳につけて痛くないのだろうか。つまんで軽く揺らすと、配信中に耳元で揺れていた映像が鮮明に脳裏に蘇る。



こいつも一人で、つまらない毎日を過ごしているものだと思っていたのに。このピアスを写真に撮って、学校の名前と隠し撮りした写真と一緒に載せれば一気に広がるんだろうな。くだらないことばっかり思いつく自分の頭の単純さにも驚くが、恨みもないはずの人物にそんなことをしようとしていることそのものが恐ろしい。…完全に八つ当たりに近い、気がする。



「………お前のこと、見てるからな。」



ぼそりと呟いて、ピアスを机の上に置く。鞄はまだ机の脇に引っ掛かったままだ。そのうち、図書室から帰ってくるであろう"仙河緑"とかち合わないよう、自分は足早に靴箱へと向かう。


向こうとこちらの境界が歪んではならないのだ。決して、緑仙に気付かれたことを悟られてはならない。乱暴に閉めた靴箱の蓋の音が、大きく響いた。