嫉妬する話
原題:呪専七海が灰原に嫉妬する話
��目を疑う�≠ニはこういう状態のことを言うのだろうと、信じがたい光景を目の前にどこか冷静に考えた。任務帰りに立ち寄った自身が日常的に授業を受けている教室で、その人物に覆い被さるような形で床に両手と両膝をついている同級生。そして随分と見知ったその顔の下で困惑したように、それでいて少し緊張したように顔を強張らせているのは、自分が入学当初から想いを寄せている先輩だった。
「……何してるんですか」
まさか扉の向こうにこのような光景が広がっているだなんて夢にも思っていなかったのだから、当然いつもと変わらない力加減で引き戸を引いた。そうして、がらりと音を立てたその木の板の方向──つまり私を、眼前の二人はすぐに振り向いて捉えた。
先に血の気が引いたような表情になったのは同級生である灰原の方で、その下にいる彼女は先述の表情にさらに��戸惑い�≠�足したような、なんとも形容しがたい面持ちになった。
まるで凍りついたような雰囲気のその教室の時間は、ようやく発せられた私の言葉によって堰を切ったように動き出した。
「いや、待っ……勘違いしないで、七海!」
「……勘違いというのは」
複雑な感情ばかりが前に出て意図せず低く冷たくなってしまった声を、まだ冷静さを保っている頭で瞬時に反省する──というより、反省するべきだと判断する。それは、目の前の灰原から本当にこの状況が不本意であり、弁明をしたいといった雰囲気が滲み出ていたからだった。未だ一年ほどしか時間を共にしてはいないが、学生生活はもちろん、呪術師という職における任務まで一緒にこなしているのだからある程度の思考や言葉の真意などは察することができる。
「じ、事故! 事故なんだよ‼」
「……それならとりあえず彼女の上から退いたらどうです」
「あっ、本当そうだよね⁉ すみません、先輩!」
そそくさと身を引いてその隣で正座をする灰原を横目に、解放された体の上半身を起き上がらせた先輩を見る。まだ少し緊張しているのか、「だ、大丈夫」とだけ呟いたのち口元をきゅっと結ぶその姿に、腹立たしいほどの独占欲で心がいっぱいになるのを感じた。
別に自分は彼女の恋人ではないのだから、この状況に嫉妬する権利など持ってはいないのかもしれない。しかしながら、自分に対してはまだ一度も向けられたことのないその何とも言えない空気感が、募らせた片想いをじりじりと炙るように息苦しさを感じさせた。
「それで、何があったんですか」
「ええっと……」
「わたし、が、明日の任務の資料渡しに来たんだけど……。灰原寝てたからこっそり置いて帰ろうと思ったら躓いて思いっきり突っ込んじゃったの」
「それで、僕も寝てたから上手く受け身取れなくてさ。よく分からないまま咄嗟に先輩の頭庇ったらさっきの状態に……っていう感じ、かな」
成程、よりにもよって偶然そのタイミングに出会してしまった、という流れらしい。間の悪い自分を恨みたくもなるが、同時にそんな漫画のような出来事が実際起こるのか、などというどうでも良い考えも頭の隅で浮かんで、やがて消えた。どちらにせよ、その瞬間だけは彼女の思考も視界も灰原が独占していて、逆もそうだったことに変わりはないのだろう。
もや、とまた心が翳るのを感じて、それを誤魔化すように本来の目的であったプリントを回収して踵を返す。どこか気まずいままの��二人の空間�≠ノ立っているのはなんとも居た堪れない気分で、私は扉の前で一度だけ足を止めて「二人とも怪我がなかったようで何よりです」と口にしたのち、早々に教室を後にした。
十代半ばの学生なんていうものは、些細なことで過剰なまでに特定の人物を意識してしまうことがある。嫌でも脳裏に灼きついたままの光景を思い出しながら、溜息をついて自室のベッドに腰掛ける。別に、灰原と彼女があのような状況に陥ったことそのものに対して不満を抱いているわけではない。焦燥に似た何かを感じたのは、二人が至近距離で見つめ合っていた一瞬の空間が、今後互いを意識するのには十分すぎるほどの熱を孕んでいたように感じたからだ。側から見れば数秒のそれは、おそらく彼らの中では何十倍にも感じられたに違いない。
「……」
ふう、と先ほどより深く、二度目の溜息をついた。そのまま上半身を倒して体重をベッドへ預け、天井の木目をぼんやりと見つめる。
灰原がこれまで彼女を特別視したことがなかったのは知っている。それどころか灰原は私の気持ちに気がついているし、だからこそあの場で咄嗟に��勘違いするな�≠ネどという言葉を発したのだと思う。
かといって、今後灰原が彼女に異性としての好意を抱かないとは言い切れない。むしろ彼女の方が灰原を目で追うようになる可能性だってゼロではないだろう。先ほどの出来事はつまり、��些細なこと�≠ニ呼ぶには少々印象が強すぎた。
「あぁ、クソ……」
思わず呟くと同時に、寝返りを打って瞼を伏せる。親友と呼んで差し支えない男に、自分はこうまで嫉妬するのか。灰原の垢抜けた性格や物事に対する真っ直ぐな考え方、人と打ち解ける能力──そういった自分の持ち合わせない長所にはいつも感心するばかりだ。しかし今、これほどまでにそれらを羨ましいと感じてしまうのは、自らの中にある彼女を求める気持ちが醜いほどに露呈した結果だった。
◇
「七海、おはよう」
「……おはよう、ございます」
一緒に食べていい? と次いで掛けられた声に、どうぞと短く返す。��おはよう�≠ニいう挨拶を使うにはだいぶ遅い時間ではあるが、今日は顔を合わせるのが初めてだったこともありその言葉は自然と口から滑り落ちた。
向かいに腰掛けた彼女をちらりと盗み見て、胸のあたりがきゅっと締まるような感覚に陥る。実際のところはその姿が食堂に現れたときから、とっくに心臓は普段の二割増しくらいの速度で脈打っていた。彼女が自分の元へ向けて一歩一歩その足を進めるたび、どんな顔をするべきかを思案した。眉間にこもった力を可能な限り抜いて装った��いつも通り�≠ノ、彼女が気が付いたかどうかは分からない。
「……良い天気だね」
「ええ、そうですね」
こんな、話題に困った時のテンプレートのような会話を彼女が持ち出すのは初めてのことだ。それでもなおわざわざ向かいに座っているあたり、多分彼女も何かしらを意識していることに間違いはないのだろう。
しばらくの間無言で昼食を口に運んで、ちらりと腕時計に目をやる。あと十五分もすれば自分は授業に戻らなければばならないし、彼女は彼女で灰原との任務があるはずだ。釣られるように時計を見た彼女が小さく息を吸って、意を決したように口を開いた。
「あのね、七海。昨日のことなんだけど」
「……なんですか」
昨日から嫌というほど考えている予想通りの話題に、またも声色が少し低くなったのを感じる。無意識とはいえまるで八つ当たりのようなそれに、自分の余裕のなさを恥じた。
「本当に何もなかったからね」
「別に疑ってませんよ。そもそも何かあったとして、それを私がとやかく言う筋合いもないでしょう」
「そう、かもしれないけど」
「……灰原は良い奴ですよ」
彼女がそれをわざわざ伝える意味を、つい自分にとって都合の良い方向に捉えてしまいそうになる。もしかすると私が何かのタイミングでそれを口外して、面白おかしく──主に五条さんに──囃し立てられることを嫌がっているだけなのかもしれないが。
「そりゃ灰原以上に良い奴なんて呪術師にはいないでしょ」
「呪術師以外でもそういない」
「たしかに」
「……だから別に、仮に昨日のが事故でなかったとしても驚きません」
そう言って紙パックの牛乳の残りを飲み干した私に、彼女が少しだけ不機嫌そうに口を結ぶ。あくまで仮定の話であって二人を信じていないわけではない、という旨を言葉通りに伝えれば、小さく寄っていたその眉間のシワはすぐに元に戻った。
間もなく鳴るであろう予鈴に合わせて、どちらからともなく立ち上がる。彼女はランチのトレーを、私は食べ終えたパンのフィルムをそれぞれ手に持って、食器の返却口とゴミ箱がある方へ並んで歩く。
「でも、それじゃあ七海はわたしと灰原が付き合うことになっても良いと思ってるんだ」
目的地に着くなり呟くように発された言葉に、一瞬手が止まった。そちらに目をやるも、少し下に落とされた視線によってその表情を窺い見ることは叶わない。ただ、それが何を意図しての発言であったとしても、その表情を確認できていたとしても、それらが私の返答に関与することはなかった。
「まさか。嫌に決まってるでしょう」
「え……」
「では。任務、気をつけて行ってきてください」
呆気に取られたようにぽかんと口を開けている彼女を残して、足早にそこを去る。時間がないというのは勿論だが、そのまま彼女の隣にいれば自分の気持ちを勢いだけでぶつけてしまいかねないと思ったからだ。本当は自分以外に気を許して欲しくないということも、あんな余裕のない顔で他の男を見つめて欲しくないということも、彼女の全てを独り占めしたいと思っていることも、全て。
◇
短く震えた携帯電話を見て、ふと報告書を記載する手を止める。ここ数日は呪霊が頻出して、任務も立て込んだ。それに伴って厚みを増した手元の片付けるべき書類の数々に自然と溜息が漏れた。チカチカと規則的に光る二つ折りのそれを開いて、【受信メール:1件】の文字を選択する。フォルダ分けなど一切していない受信ボックスに表示された彼女の名前に、小さく胸が疼いた。
彼女が灰原──というより自分以外の男と交際することに関して��嫌に決まっている�≠ニ伝えたからといって、今のところ自分たちの関係が変化したということはない。そもそもあの日から今日まで互いに忙しくしており、顔さえも碌に合わせてはいない。
浮かれそうになる気持ちを抑えつつメールを開いて、その文面に思わず喉をゴクリと鳴らした。
【今電話しても大丈夫?】
それは願ってもない申し出で、突如訪れた緊張から口の中の水分が急速に失われていくのを感じる。これは自分に限ったことではないと思うが、好意を抱いている相手からの連絡で一番嬉しいのはこの手の内容だ。てっきり事務連絡の類かと予測していただけに、良い意味で裏切られたそれに思わず変に顔が歪んだ。
【大丈夫です】
返信が早すぎるとまるで連絡を待っていたかのように捉えられるだろうか、などと考えるが、内容が内容だけに早めの反応が求められるだろうと構わず送信ボタンを押下する。たとえば灰原からのメールはいつも色々な絵文字がついていて文面が華やかに感じるが、彼女はわりと簡素で最低限といったものが多く、私たちのやりとりの画面はいつもほとんどが白黒で構成されていた。
ひとまず冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出して、ひとくち喉に流し込む。続けて二、三度呷ったところで、先ほどよりも長めの着信音が耳と心臓を同時に貫いた。
「……はい、七海です」
『こんばんは。遅くにごめんね、忙しかった?』
「いえ。そろそろ息抜きしたいと思っていたので丁度良かったです」
『あ、報告書? 七海最近忙しそうだったもんね、お疲れ様』
先輩もお疲れ様です、と返すと、少し参ったような笑い声が心地良く鼓膜を震わせる。高すぎず低すぎずといった彼女の柔らかい声色が根詰まっていた体と脳にじわりと広がって、それだけで疲労が大分マシになるような気さえした。とはいえ、彼女がそれを知った上で通話を提案したわけではないことは分かりきっている。用件を問えば、また悩ましげな声が漏れた。
『一昨日の任務の報告書がどうしても見つからなくて。もしかして七海のところに紛れてない?』
「……どんな内容です?」
『二級案件なんだけど……近場の廃ビルの呪霊』
廃ビルの呪霊。そういえば昨日緊急の呼び出しで残業になったことを彼女が嘆いていた、と家入さんに聞いた記憶がある。両手が空くように携帯電話を肩と耳で挟んで、未処理の書類をぱらぱらとめくる。その中に、彼女の言う通り身に覚えのない任務の報告書が紛れ込んでいた。おそらく補助監督から振り分けられた時点で手違いにより私の手元に来てしまったのだろう。
「ありました。どうします?」
『ほんとに? 良かった、ありがとう。それ明日提出予定だから今から取りに行ってもいい?』
「……今からですか?」
『明日の朝一でも良いんだけど……出来れば今日中に終わらせたくて。さすがにだめ?』
彼女の言葉に、思わず机上の時計を見る。間もなく二十三時になろうというところだ。駄目だとかそういうことではないが、こんな時間に自室に異性が──まして自分が想いを寄せる相手が来るとなれば、正直色々なことを意識してしまう。扉の前で書類を渡すのみだとしても、想定外の時間に想定外の場所で彼女と顔を合わせることに変わりはない。
しばらく黙り込んだ私に、彼女が申し訳なさそうに前言撤回しようとしたのが電話越しの微妙な空気感で伝わった。
「良い、ですよ。今からでも」
やや食い気味に、被せるように発してしまったその返答は、どうやら彼女にとっては特に違和感とならなかったらしい。ホッとしたような声で告げられた「それじゃあ、今から行くね」という台詞に、携帯電話を握る手がじっとりと汗ばむのを感じた。
コンコン、と扉がノックされるまでにそう時間は掛からなかった。木の板一枚隔てた向こう側に確かに人の気配を感じて、小さく息を吐き出す。少し古いサムターンは慎重に回しても随分と大きく解錠音が響く。今日は特にそれを顕著に感じながら、ゆっくりとドアノブを捻って内側に開いた。
「七海。ごめんね、こんな遅くに」
「……いえ、こちらこそわざわざ来てもらってすみません。私が行くべきでした」
「ううん、わたしの都合だし。……えっと、この時間に廊下であんまり話すとアレだし、入っても良い?」
「良い、ですけど」
いや、多分良くはない。良くはない、のだろうが。思考とは裏腹にあっさり肯定してしまう自分に呆れつつ、それに気付かないふりをして彼女を迎え入れる。
「片付いてるね」
「……あんまりジロジロ見ないでもらえますか」
「ごめんごめん、男子寮の部屋なんてあんまり見る機会ないからつい」
ふふ、と溢された笑みがトスンと胸に刺さる感覚がして、目を逸らす。そんな自分とは対照的に余裕を見せる彼女に、先ほどから心の片隅に存在している面倒な感情が��あんまり�≠ネどという些細な言葉をきっかけに頭をもたげた。
「──……もし、」
「ん?」
「もしこの書類が私のところではなくて灰原のところに紛れていたとしたら、灰原の部屋に行ったんですか」
「え、っと……まぁ、多分……そうなるのかな」
随分と歯切れが悪いなと思いながらも、その返答は確実に私の眉間へ深くシワを刻む。それは灰原に対しての嫉妬というよりも、自分が彼女にとって��さほど意識する対象ではない�≠ニいう風に聞こえたことに対しての歯痒さなようなものだった。それで言うなら灰原だって彼女の中では同等ということになるが、一度ささくれ立ってしまった気持ちが執拗に自らを急き立てる。
「付き合うんですか、灰原と」
「は⁉ なんでそうなったの⁉」
「先週、そんなようなことを言っていたので」
「仮に、の話でしょ。それに��私がとやかく言うことじゃない�≠チて、七海が自分で言ってた気がするんだけど」
「……まあ、それはそうですが」
発言に一貫性がないことは自分もとっくに気が付いるし、同時に反吐が出るほどに嫌気が差していた。こんな自身の胸中全てを彼女が知ったとしたら、確実に重くて煩わしい男だと認識されるのだろう。もっとも、既に綻びだらけでこれっぽっちも取り繕えてはいないのだが。
相変わらず眉根を寄せたままになっている私の面白くなさそうな顔を見るや否や、彼女は逆に面白そうな顔をした。
「七海、もしかしてちょっとヤキモチ妬いてる?」
「っ‼」
緩やかに両端が持ち上がった唇から図星としか言いようのない推察が滑り落ちて、途端に熱が顔に集まるのを感じる。反射的にしてしまった口元を手で覆うという行動が、この状況下においては肯定と同義になってしまうことくらい、考えるまでもなく分かった。先ほどまでとは打って変わって目を丸くした彼女を見るに、それは意外な反応だったのかもしれない。
「……アナタがあんな顔するからです」
まるで責任転嫁するかのような物言いに、彼女は話が読めないというように首を傾げた。その戸惑ったような表情が、教室で組み敷かれながら灰原を見上げていたときのそれと重なる。たまらず勢いのまま腕を掴んで、鼻先が触れてしまいそうなほどの至近距離まで引き寄せる。
「な、なみ」
「……また、そういう顔をする」
「そういう顔、って」
「隙だらけで、付け入ってしまいたくなるような顔です」
「っ、」
カチ、カチ、と絶えず時を刻んでいるはずの秒針の音が耳に届かない。それはつまり、今この瞬間だけは彼女の思考も視界も自分が独占していて、逆もそうだということを意味していた。大きな瞳が困惑と緊張で揺れる。あのときの光景と違うことといえば、これが事故でも勘違いでもなく、意図的に、一方的に、そして圧倒的な欲を持って引き起こされたという点だけだった。
「あの時も、灰原に同じような顔をしていた」
たとえば彼女の考えることも感じることも手にとるように理解できたなら、仮に冷静さを欠いてもこれほど主観的に物を語ることはなくなるだろうか。
「……はずれ。全然違うよ」
「……どのあたりが」
「──そのまま付け入って欲しいって、わたしが思ってるかどうか」
その答えを聞くと同時に、一瞬時間が止まったような感覚があった。直後、半ば衝動的に自身の唇を彼女のそれに押しつける。
華奢な体がぴくりと小さく震えたことを知りながら、そのまま押さえ込むようにして後頭部に手を回した。柔らかい唇を少し強引に何度か食んで、縋るように私の服を掴む彼女をそのすぐ背後にあった自身のベッドに押し倒した。そこからまたしばらく繰り返して、彼女が酸素を求めて私の肩を弱々しく押し返した頃に、ちゅ、とわざとらしく音を立てて解放する。潤んだ瞳と弾んだ息が、まるで誘うかのように熱を孕んでいた。
気持ちを伝えなければ、といまいち働かない頭で考えながら、一方では先程の彼女の言葉を反芻する。この状況はつまり、��そう�℃vわれているのは自分の方なのだと思い上がっても良いのだろうか。瑞々しい唇を奪い取るようにまた重ねれば、彼女から漏れるくぐもった声にまともな思考が溶けるように消えていく。
「は、先輩……、好き、です」
ようやくそれだけ伝えて、熱に浮かされながら彼女の表情を盗み見る。ぞくり、と欲望が全身を駆り立てたのは、今まで誰も見たことがないであろう乱れたその姿が、あまりにも扇情的に自分だけに向けられていたからだった。
◇
もうまもなく始業の鐘が鳴るという頃、まだ現れない隣の同級生の席をちらと見て欠伸を噛み殺す。睡眠時間と引き換えになんとか片付けた報告書の束は、先ほどまとめて担当の補助監督に提出した。給金が発生している以上あれは仕事と言えるのだから、寝ずにそれをこなしたとなれば学生といえど時間外労働をしているのと同じことだ。今日は任務がなくて助かった。授業が終わったらすぐにでも布団に潜り込んで眠ってしまいたい。
窓の外を見ながらぼんやりとそんなことを考えていると、慌ただしく教室の扉が開かれて、身を滑り込ませるように灰原が入ってきた。「セーフ⁉」と聞きながら席に座ると同時に鐘が鳴り、まあこれは言うまでもなくセーフだろうと頷いた。
「昨日なかなか寝付けなくて寝坊しちゃった! おはよ、七海!」
「おはようございます。灰原も報告書ですか」
お互い苦労人だな、と暑そうにノートで自身を扇ぐ横顔に共感を求めれば、灰原はこちらを向いて心外だとでも言うように目を白黒とさせる。次いで発された一言に、今なお必死に戦っていたはずの眠気が瞬時に吹き飛んだ。
「いや、七海が先輩のこと部屋に連れ込んでたからじゃん!」
「…………は?」
「僕めちゃくちゃびっくりしたんだよ、ジュース買いに行こうかなってドア開けたら先輩が七海の部屋に入っていくんだもん!」
��耳を疑う�=Bこれほどまでに慣用句を身をもって感じるのは、先週以来二度目だ。まさか灰原に目撃されていただなんて、少しも気付いていなかった。あまりに突拍子もないその話題に動揺して、言葉がしどろもどろになってしまう。
「いや、違……あれは先輩が紛れ込んでた報告書を取りに来ただけで」
「そのわりには日付変わっても全然出てくる音しなかったけどなぁ。僕そのせいで今何が起きてるんだろうってソワソワしちゃって眠れなかったんだもん」
「……」
「まさか昨日のが僕の��勘違い�≠ネんてことはないでしょ?」
いよいよ言い逃れができなくなって、にやりと年相応に笑ってみせる灰原に観念したように溜息をつく。別に初めから灰原相手に隠し通すつもりなどありはしなかったが、担任が入ってくると同時に小声で「後で詳しく聞かせてね!」と目を輝かせるその姿にはつい頭を抱えてしまう。
睡眠不足の脳を無理矢理フル回転させながら、やはり灰原には敵わないとどこか漠然と考える。この同級生に人並みに嫉妬していたここ数日の自分を思い返して、不意に小さく気が抜けたような笑みが漏れた。