窮鼠噛猫
「ねえ、告白されたって本当?」
隠していたはずのそれを突然言い当てられたのは、久しぶりに彼女と二人で当たった任務の帰り道だった。
「……はい?」
この先輩は、普段から急に話題を変えることが多い人だ。だから、いつもであればそれは「また突拍子もない話を」と思う程度に留まる出来事だった。そう、その内容さえ違うものであれば。
��何故先輩がそれを知っているのか�≠ニいう疑問よりも早く、意表を突かれたような腑抜けた声が口から漏れる。それは一見聞き返しているようでいて、実はほとんど肯定と同義の反応と言えた。特に彼女のような察しの良い人間であれば、そんなことは容易に感じ取れたに違いない。
「やっぱり本当なんだ。それじゃあ、連絡先を教えたっていうのも?」
「いえ。……ああ、いや」
彼女とは恋人同士というわけではない。まして、事あるごとに伝えてきた好きだという言葉は未だ躱されてばかりだ。だから、自分がこんな焦燥感を覚える謂れも、そのこと自体を後ろめたいと思う必要性も全くありはしなかった。それなのに口からは反射的に否定の言葉が飛び出して、さらに煮え切らないような口調で言い訳じみた返答を重ねる。
「……確かに事実ではありますけど。色々と事情があるというか」
「そっか。メールとかしてるの?」
「してません。来たとしても返すつもりがない」
「せっかくの機会なのに勿体ない」
この際、彼女がそれを知っていた理由などどうでもいい。私の気持ちを分かっていながらそんな風に言う彼女が、多分少しも自分に興味などないのだろうということも。
ガタンゴトンと体を揺らしながら、都会のそれよりかは少々遅いスピードで走る地方の列車。自分たちが腰掛けるボックスシートの向かいに人は座っていない。それどころか、近々廃線になることが決まっているこの路線はその理由にまさしくほとんど利用客がいなかった。
窓の外を眺める彼女の表情は窺い知れない。流れる景色は田畑や山と溢れる緑ばかりで長閑だというのに、私の心の内はちっとも穏やかではなかった。無理矢理にでも彼女の視線をそこから奪いたくて、自分よりかは大分細いその腕を掴む。驚いたようにこちらを見た彼女の瞳が、ほんの少しだけ揺れたような気がした。
「好きな人が、いるので」
任務でのミスも日常の情けないところも既にたくさん見られているのだから、いくら告白であろうと今更この人の前で格好付けようなどとは思っていない。それでも、彼女にはあまりにも必死に映っているであろう自分の姿を想像するとなんとも遣る瀬無い気分になった。
視線の先で、彼女が柔らかく眉を落として微笑む。
「……うん、知ってるよ」
知っている。自分もまた��彼女が私の気持ちを知っている�≠アとを知っている。その上でこんなにも勘違いされることを嫌っているのは、他を見る可能性も彼女を諦める選択肢も自分にはないのだということを念押ししたかったからだ。
「だったら、勿体ないとか言わないでもらえますか。私が欲しいのはアナタからの機会だけだってことも分かってますよね」
「ごめんごめん。七海が女の子に連絡先を教えるっていうのがそもそも意外だったから、好みな子だったのかなって」
「不可抗力です」
これまで告白というものをされた経験が全くなかったわけではない。とはいえ、小中学生の恋愛など半分以上がお遊びのようなものだろうと考えているのも事実だ。
これはあくまで個人的な考えではあるが、高校生頃になるとようやくそれに奥行きや立体感というものが生まれてくるような気がする。それは恐らく精神的な成熟からであって、そこに含まれるのはたとえば安心感や充足感であったり、独占欲や嫉妬、性欲や劣情であったりもする。
要するに何が言いたいかといえば、今回自分に好意を伝えてきた相手も��そう�≠セった。その告白には、確かに表面的ではない感情が内在しているように感じられた。
はっきりと断ったのは、だからこそというのもある。当然、自らにこれほどまで心を乱される想い人がいるというのが一番の理由ではあるのだが。そもそも自分のような男にそれほど拘る理由も分かりはしないが、それでも「せめて連絡先だけでも」と縋るその人に、聞き様によっては冷たいと捉えられかねない言葉で難しいことを伝えた。
「何があったの? ──って、聞いていいのかな」
「……友人らしき数名が合流し、連絡先くらい教えてやれと食い下がられまして」
「うわ、なんか漫画みたいだね」
それを聞いて初めて同情する気持ちが湧いたらしい彼女が、憐れみを込めた目で私を見る。
不可抗力などと言えば聞こえは良いが、本来であればその要求は急ぎの任務が控えていようとやはり退けるべきものだった。今こうして目の前の彼女に隠し事をする羽目になったのも、それに後ろめたさを覚えるのも、全ては自分が面倒を後回しにしたせいと言って良い。
「まあ、結局断りきれなかった私の落ち度です」
「七海は優しいからね」
「アナタ以外は眼中にもないですけど」
「……相変わらず、見かけによらず熱烈」
そう言ってふふ、と笑ってみせる彼女を少し恨めしげに見る。この状況下で��優しい�≠ネどという言葉を使うのは一番狡いだろう、と思いながらまだ掴んだままになっていた手をそっと離した。
彼女に、どれだけ重苦しい男だと思われようと構わなかった。嫌われてさえいないのであれば、そして、たとえ一ミリでも自分に可能性があるのであれば、僅かに存在しているかもしれないその勝算に賭けたいと思う。それほどまで、今の自分はこの人以外を見ることが出来ない。自分でもうんざりするほどに、彼女だけをただひたすらに欲している。
「そう思うなら、もう少し男として見てくれても良くないですか」
「見てるよ。七海は男だって、ちゃんと分かってる」
はっきりとした口調で発せられた彼女の言葉が、比較的静かな車内に小さく響く。相変わらず聞こえる列車がレールの上を走る音が、ほんの少しだけ遠のいたような気がした。彼女の後ろを変わり映えしない緑色の風景が流れていく。腕を解放すればその視線は再び車窓の外に奪われるのだろうと思っていたが、それは意外にも、依然自分を捉えていた。
なら優しいだなんて一言で片付けようとするな、という言葉が喉まで出かかったが、結局口には出さなかった。その代わりに、拒まれることを覚悟の上で少しだけ彼女との距離を詰めて、先ほどよりも近い位置で覆うようにしてその手に触れる。
「誰に何を言われようと、先輩だけです」
もしかすると勝算はあるのかもしれない、と感じたのは、それを聞いた彼女の瞳が少しだけ戸惑ったように逸らされたからだった。慌てて携帯電話を引っ張り出して、先日半ば強引に登録されたばかりの連絡先を探し出す。元々登録人数が少ないこともあり、削除という操作をするのは随分と久しぶりのことだ。思えばもっと早くに消しておくべきだったのかもしれないが、端から彼女に言うつもりなどなかったのだから、時間が出来たら受信メールとまとめてゴミ箱へ入れてしまえば良いと思っていた。
「連絡先、削除しました」
「……意外と酷いことするんだね、七海。消すなら消すで一言くらい言ってあげてからでも良かったのに」
「まあ、別に優しくはないので」
「せっかく褒めてあげたのに」
そうしてまもなく、次の駅に到着する旨のアナウンスが車内に鳴り響いた。少しして踏まれたブレーキで、彼女の体が慣性に従って前方へとバランスを崩す。咄嗟に肩を掴み、自分より大分華奢なその体を抱き留めれば、先ほどよりもさらに詰まった距離が今にも互いの鼻先を触れさせるようだった。
「──七海、」
彼女がその先に何を言おうとしたのかは、自らがそれを飲み込むように塞いでしまったために分からなかった。
最低なことをしてしまったという自己嫌悪に苛まれながら、それでも彼女が一切の抵抗を見せないことを嬉しく思ってしまう自分がいる。ただ驚きのあまり反応できなかっただけかもしれないというのに、その柔らかく甘い唇を離したときに漏れた彼女の熱い吐息が、あまりに都合の良い思い上がりを加速させた。
「──……先輩。私と付き合ってもらえませんか」
「……こんなところで不意を突いてキスするなんて、やっぱり酷いね。七海」
「それについては謝ります、本当にすみません。でも、酷いのはアナタも同じでしょう」
気の抜けるような排気音と共に列車の扉が開く。当然のようにそこも無人駅であり、降りる人間もいなければ乗り込む人間もいなかった。「そうかな」と首を傾げる彼女に、「いつまでも返事を有耶無耶にして、他にでも行かせる気ですか」と体を離しながら言えば、先輩は少し考えるような仕草を見せたのち訥々と言葉を紡ぐ。
「うーん……。七海にはもっと素敵な人がいると思ってたから、最初はそのつもりだったんだけど」
「……そのつもりだったんですか」
別にその言葉に今更ショックを受けるなどということはない。だが、彼女の言う��素敵な人�≠ェ彼女以上という意味を持つのであれば、そんな人間が存在しているわけもなかった。というかそういうのは本人が決める事であって、他人の物差しで測れるものではないだろう。そんな微妙なもやもやを残したまま、��最初は�≠ニいう言葉に若干の──いや、かなりの期待を込めて彼女から続くであろう台詞を待つ。
しばらくの間があって、もしかしてさっきので終わりだったのかと思い始めた頃、それはようやくぽつりと呟くように落とされた。
「……七海が他の子に告白されて連絡先を教えたって聞いたら、ちょっとヤキモチ妬いちゃった」
予想していたよりも遥か上をいったその言葉が、心臓をぎゅうと締め上げる。それでいながら胸を突き刺すような何とも言えない感覚に、思わず呼吸を止めた。��ヤキモチを妬いた�≠ニいうことは、つまり。
「都合良く捉えても、良いんですか」
少し俯いていた彼女が顔を上げて、躊躇いがちにこちらを見る。もうこれ以上は躱されたくないという想いから気が逸って、その視線が再び自分以外を映してしまう前に、彼女の額に自らの額をごつりと押し当てた。
「逃げないでください、先輩」
「べ、つに……逃げてないよ」
「なら、こっち見てもらえますか」
それに応えるように至近距離で目が合って、互いの体温が急激に上がっていくのを感じる。彼女の頬に添えた両手に細い指が触れて、長い睫毛は瞼と共にゆっくりと上から下へと閉じられた。その意味を理解するのに時間など少しも必要はない。それどころか、むしろそうされることを心待ちにしていた。
今度は確かに受け入れる姿勢を見せているその唇に噛み付くようにキスをして、彼女を窓際まで追い詰めるようにしながら繰り返す。時折苦しそうに漏らされる吐息さえも自分だけのものにしたくて、ボックス席に小さく響くリップ音が彼女の思考回路を麻痺させてしまえば良いと思った。
「──んぅ、! な、なみっ……」
口付けの合間に呼ばれる自らの名前が、普段の彼女からではとても聞けないような声色であることに頭が上せる。もう一度その口内を犯そうと再び舌を絡めたところで、それまでとは比べ物にならない力で思い切り体を押し返された。
途端に夢から醒めたような心地になって、しまったと慌てて解放する。目の前で必死に呼吸を整える先輩の唇が自分の唾液で濡れていて、それにどうしようもない興奮と背徳感を覚えた。
「すみません、調子に乗りすぎました」
「調子に乗るのは構わないけど……! 一日二本しかない電車で乗り過ごしたのは最悪……!」
「────は?」
「帰りは終点じゃないって言われたの忘れてた……」
彼女にそう言われて初めて車内の路線図に目をやると、どうやらこの列車は車庫の関係で往路と復路で停車する駅が少々異なるらしかった。「道はばっちり記憶してきたから任せて!」と得意気に言った彼女を信頼しているのは、先輩後輩関係としては間違いなく良いことではある。しかし、その言葉に甘えて確認を怠ったのは自分の注意不足とも言えた。よくよく考えてみれば、いつもであれば事前に降車駅や帰校までのルートを確認するというのに、今日に限ってはそれをしていない。というより、するほどの余裕がなかった。
「とりあえず次で降りましょう。一駅毎の間隔はそこまで長くないですし、歩けない距離ではない」
「そうだね……。ごめん、わたしがしっかり見てなきゃいけなかったのに」
「……いえ、それについては私のせいでもあるので」
先輩は普段あまりこういったミスをしない。それなのに現状に至ってしまったのは多分──というよりも確実に、自分が身勝手に彼女の思考を奪うような行為に耽ってしまったからだった。そう思う一方で、もしかするとそれほどまでに��私が他の人間と連絡先を交換した�≠ニいう事実が彼女の脳内の大半を占めていたのかもしれない、とも考えてしまう。彼女がそれをいつどのように知ったのかは分からないが、仮に知ってからずっと心の隅に自分の存在があったのだとしたら。そう思うと、罪悪感とは裏腹にどうしようもなく嬉しい気持ちが湧き上がった。
数分ののち再び車掌のアナウンスが車内に響き、各々荷物を持って立ち上がる。前方、後方の車両はいつの間にか無人で、今この三両編成の列車には自分たちだけが取り残されていた。最初こそ片手で数えられる程度の乗客がいた記憶があるが、恐らくこの辺りに居を構える人たちだったのだろう。ぷしゅ、という排気音がまた響いて、誰もいない駅に二人で降り立つ。まもなく背後を走り去った列車を見送って、日が傾き始めている空をぼんやりと眺めた。
「一時間はかからなさそうだけど、もしかすると乗り継ぎの最終バスが間に合わないかも」
「とりあえず、道の確認をしてきます。先輩はその間に高専へ連絡してもらえますか」
「うん、分かった。ありがとう」
申し訳程度に設置された駅舎に先輩を残し、以前は整備されていたことがかろうじて窺える道を歩く。行くべき方角は分かっているが、生い茂る緑が行く手を阻んでいて線路に沿うようにして歩くのは難しそうだった。そのまま数分間辺りを散策すると、少し大回りとはなるものの一応問題なく進めそうな経路は開拓することが出来た。足早に先輩の元へ戻ると、既に報告を終えていたらしい彼女は何やら難しそうに眉を顰めている。
「何かありましたか」
「あ、おかえり。ううん、大したことじゃない」
多分それが言葉通りではないのだろうということは、この人をずっと見てきた自分だからこそ分かることなのかもしれなかった。とはいえ時間が限られているのは事実なため、ひとまずは歩きながら話を聞こうと彼女の手を引く。しばらくして手首を掴んでいたそれをさりげなく指に絡めれば、柔らかい力でたどたどしく握り返された。いわゆる恋人繋ぎとかいうそれをしたのは初めてのことで、じんわりと滲む手汗が彼女に不快感を与えてはいないかなどという情けない考えばかりが頭を過る。
「……さっきの返事」
「え?」
「付き合って、くれるんですか」
握られた手に一瞬力が籠って、彼女が少し困ったように眉尻を下げる。それを見ると同時に、途端に内心気が気ではなくなった。まさかここまで来て、こんな風に手まで繋いでおいて、ましてあんなキスまで許しておきながら断られる可能性があるとでもいうのか。思わず立ち止まると、自分より少し後ろを歩いていた彼女が驚いたように慌てて足を止めた。
「まさか、また有耶無耶にする気ですか」
「あ、いや。そうじゃなくて……。実はさっき高専に電話したら五条が出たんだけど、七海と二人って話したら��七海、最近彼女出来たらしいから詳しく聞いておいて�≠チて言われて……」
「…………はぁ……」
あまりにも頭が痛くなるような状況に深く溜息を吐く。あの人は何故いつも、こうもタイミング悪く余計なことばかりしてくれるのか。
「七海、告白は断ったんだよね?」
「当たり前でしょう。断りました。��彼女がいる�≠ニ」
「えーっと?」
「……何が何でもアナタを彼女にしてやろうと思っていたので」
告白を断った状況や台詞までもをその理由である当人に説明している状況が無性に恥ずかしくなり、つい眉間に思い切りシワを寄せて視線を泳がせる。そもそも、五条さんがそう言って断ったことを知っていること自体が奇怪だ。まああの人のことだ、あらゆる方面からそういった情報が入ってくるのかもしれないが。
そんなことを考えていると、不意に彼女が気の抜けたような笑みを漏らした。その表情があまりにも隙だらけで、瞬時にまた付け入りたいと考えてしまった脳に我ながら呆れた。
「あのね、七海。実はもう一個言わなきゃならないことがあって」
「なんですか」
「今日、祝日だから休日ダイヤでもうバスないんだって」
「……それ、なんで先に言わないんですか」
信じられないといった風に再び彼女の顔を見ると、今度は彼女の方が頬を紅潮させて気まずそうに視線を泳がせる。説明を求めるようにそのまま見つめていると、やがてその唇が小さく開かれ、そこから全ての思考を停止させるような一言が飛び出した。
「元々降車予定だった駅に小さな民宿があって、そこを一部屋押さえたって」
「待ってください。今、一部屋って言いました?」
「……急なことだから一部屋しか取れなかったって、五条が」
徐々に小さくなる彼女の声を聞きながら、再び悶々とした感情で支配された自身に頭を抱える。それと同時に、だからこの人はこれほどまでに返事を渋っていたのか、と理解した。今ここで恋人同士になれば、この後共に過ごすことになる一夜が��そう�≠ネる可能性が確実に高まるからだ。
「そんなに身構えなくても、準備がないので何もしません。というか、出来ません」
まさか自分のような童貞が、常にこんな状況を想定して動いているはずがない。正直そうしたい気持ちは山々であるし、このタイミングを逃すことに酷く惜しい気持ちもある。しかしながら、いくら度胸も知識もなかろうが最低限の常識くらいは兼ね備えているつもりだった。
「……まあ、わたしは持ってるけど」
「…………は? まさか持ち歩いてるんですか?」
「ち、違う。今日の任務の前に、なんか知らないけど五条に渡されたの」
ここまでくると、いよいよ点在していた数々の要素が一本の線で繋がるような気がしてくる。妙に嫌な予感がして、先日告白してきた相手のことを思い返す。思えば、随分と執拗に連絡先を強請られたものだ。自らの断り方を五条さんが知っていて、果たして誰から聞いたのか、隠し通していたはずのそれを彼女が知っていた。そうして宿を一部屋だけ予約したのも、理由もなく彼女に避妊具を持たせたのも、全てはあの白髪の特級呪術師の仕業でしかない。
「……クソ……」
暗くなり始めた空を仰いで、本日一番の深い溜息を吐いた。
窮鼠噛猫【きゅうそ‐ごうびょう】
……弱者でも追い詰められて必死になれば、予期していない力をだして、強者を倒すことがあるということのたとえ。
猫に追い詰められて、逃げることが出来なくなった鼠は猫に噛みつくという意味から。「窮鼠猫を噛む」とも読む。(四字熟語辞典onlineより)