生かされる話
原題:呪詛師七海に生かされた女の話
「ねぇ、七海さん。呪いって、本当にあると思いますか?」
それは、なんでもない昼下がりのことだった。新卒で入社した会社でOJTトレーナーを務めてくれている先輩に、わたしはふとそんなことを尋ねた。
突拍子もない質問に少し驚いた表情をしたのち「なんです、突然」と呆れたようにため息混じりに言う彼は、聞いたところによると祖父がデンマーク人のクォーターらしい。初対面から一月半ほど経った今もなお見慣れることのないその整った顔は、一日一回は神に感謝しつつ拝ませてもらいたいほどだ。
そんな人間を入社早々にOJTトレーナーとして紹介されれば心の中で思わずガッツポーズをしてしまうのは無理もないことだったし、同期の女の子たちからも随分と羨ましがられたのを覚えている。
七海さんはいつも第一にその美しい顔とスタイルが注目されがちだったが、決して見た目が良いだけの人間ではなかった。
彼は非常に優秀で要領も良く、いつも各方面のミーティングに引っ張りだこだった。それでもそんな合間を縫って自身の業務はもちろん、わたしの指導もきっちりとこなす。
教える時には要点をまとめてくれるし、何事もどのような目的のためにその作業をするのかということを最初にしっかりと話してくれるので、最終的に目指すべき形を、新人のわたしでもとてもイメージしやすかった。
随時「質問は」と確認してわたしと足並みを揃えてくれるのはもちろん、「ランチの時間、相談があるんですけど良いですか?」と聞けば、急ぎの業務がない限りは二つ返事で了承してくれる。まさに、��完璧�≠ニいう言葉がぴったりな人だ。
そういうわけで、彼はいつだってあちこちの部署の女性社員の話題の中心であったし、当然わたしにとっても憧れの先輩だった。
そんな七海さんを独り占めできるお昼休憩の時間は、大勢の綺麗なお姉さま方からの物言いたげな視線にさえ耐えることが出来れば、まさに至福の時間だ。最近ではすっかり相談と銘打った世間話ばかりになったわたしを咎めることもなく、今日も今日とて七海さんは静かにわたしとランチを共にしてくれる。
話は戻って、冒頭の降って湧いたようなわたしの質問。
「実は最近、ちょっと都市伝説的なものにハマってまして。あるじゃないですか、きさらぎ駅とか、スレンダーマンとか」
「……まあ、聞いたことはありますが。信じているんですか」
「うーん……その辺りは信じているかと聞かれると微妙なんですけど。ここのところ、呪いは本当にあってもおかしくないなあって思ってるんですよ」
つい先ほど運ばれてきたばかりのパスタをフォークに絡めながらわたしがそう言えば、七海さんは何も言わず、目線でその先を促す。美しい碧翠の瞳が真っ直ぐわたしを見ていて、それだけでも少しどきっとしてしまう。
「友達の職場の人の話になるんですけど。彼氏を親友に取られちゃって、それが本当に許せなくて、インターネットで黒魔術とか呪いの儀式とかを調べて毎晩やったんですって。そしたら一ヶ月後、本当にその親友が願った通りの方法で亡くなったっていうんです。それって凄くないですか?」
「……FOAF。ご存知ですか」
「え? えふ……? なんですか、それ」
「��Friend of a Friend�=B字の通り、友人の友人、という意味です。大抵の都市伝説はこのFOAFで説明がつくとされています。出どころの分からない話が、ヒトからヒトへ語り継がれるうちにどんどんと尾ひれをつけて、大袈裟な話になっていく」
七海さんは注文したランチプレートのハンバーグにナイフを入れながら、滔々と語る。それを見ながら、本当に洋食とシルバーのカトラリーがよく似合う人だなぁ、なんて考えていたら、「聞いていますか」とまた覗き込むようにして目を合わせられ、わたしは慌てて首を数度縦に振って見せる。
「つまり、都市伝説は全部、根も葉もない噂話ってことですか?」
「全てが完全に作り話とは言いませんが。おそらく最初は、それこそ世間話程度だったものがほとんどでしょうね」
「そっかぁ。じゃあ、七海さんは呪いとかあんまり信じないタイプなんですね」
ちぇ、とわたしが少しつまらなそうに口を尖らせてみせると、七海さんは静かに動きを止めて、何やら考え込むような表情を見せる。首を傾げながらそんな彼を今度はわたしが覗き込めば、すぐに何事もなかったかのように一口大にカットされた肉をその口へ運んだ。
なぞらえるようにして、わたしも目の前のパスタを冷めてしまう前に口へ運ぶ。七海さんは、食事の仕方まで品があって美しい。まるでどこかの貴族や資産家のように振る舞うものだから、その容姿と相まって、とても同じ人間とは思えないほどだ。この人に欠点なんてあるのだろうか。
「……あまり、そういったことには首を突っ込まない方がいい」
「へ?」
「呪いだとか祟りだとかいうものは、人間の負の感情からきています。妬みや嫉み、怨嗟に憎悪。人の恨みは、アナタが思っている以上に厄介ですよ」
ふと発せられた七海さんの言葉に、思わずごくりと息を呑む。軽く流されて終わりだろうと思っていた彼の口からそのような話が出たことに驚いたというのもあるが、そのあまりに真剣な語り口に、背筋がぞわりと粟立ってしまったからだ。
依然感情の読み取れない表情で静かに食事を続ける七海さんを見て、何故かほんの少しだけ気まずいような、居心地の悪いような気分になる。もっと深く聞きたいけれど、彼の纏う空気がこれ以上は聞くなと言っているようにも見えて結局口をつぐんだ。
そのあとすぐに「それから、昨日提出してもらった日報の件ですが」とトレーナーらしく仕事の話を持ち出した七海さんに、わたしもいつも通り、後輩たる諾々とした返答をしてみせる。
思えば、七海さんに何か陰のようなものを感じたのは本当にこの一瞬だけで、このときのわたしはそれをさほど深く気に留めることもなかった。
◇
『インターンシップに来る就活生に向けて、一年目のフレッシュな意見を聞いてもらう時間を設けることになりました! 説明会参加の可否と、参加できる方は日程の回答もあわせてお願いいたします。』
そんな社内文書が回ってきたのは、七海さんと週に数回ランチに行くのも最早恒例となり始めた頃だった。
宛先はもちろん、わたしを含む新入社員の同期たち。それから、どうやら各新人のOJTトレーナーにも一括送信されているようだった。既に参加の可否や日程の候補を挙げる数名の回答をぼんやりと眺めていると、早々にきっちりと��確認済�≠フボタンを押している【七海建人】の文字が目に入る。その相変わらずの仕事の早さに思わずくすりと笑みをこぼしつつ、今日のランチの話題はこれだろうなと考えたわたしは、昼までに予定の確認をしっかりと済ませておくことにした。
訪れた穴場の喫茶店──利用客がそれほど多くなく、ランチも安くて美味しい。もちろん七海さんが見つけた──で、彼は注文をし終えるなり案の定「今日来ていた回覧の件ですが」と切り出した。
「はい、参加しようと思ってあらかじめ日程の確認しておきました」
「社会人としての自覚が出てきたようで何よりです。学生への質疑応答にもしっかりと対応できるように準備しておいてください」
「はい!」
七海さんに褒めてもらえたことが嬉しくてつい顔を綻ばせながら返事をしてみせると、彼も少しだけ口角を上げて微笑んだように見えた。
どこか物憂げでありながら、色気とミステリアスさを兼ね備えたようなそのなんともいえない表情に、心臓が大きくどきりと跳ねて、同時に驚く。七海さんが笑うところなんて滅多に……いや、わたしの記憶が正しければ一度も見たことがなかったような気がする。なんだか変に調子を乱されてしまって、いつもなら特に何も考えずにするりと口に出来てしまう言葉ひとつを言うのにも、つい躊躇してしまう。
「……あの」
「?」
「もし七海さんがお忙しくなければ、説明会に向けて準備したものを事前にチェックしていただきたいんですが」
「良いですよ。ただ来週の説明会まで定時内は時間が取れそうにないので、ランチミーティングという形をとるか、もしくは二人揃って残業することになりますが」
その言葉に、何故だかじんわりと顔が熱くなるのを感じる。
いやいや、おかしい。別に七海さんと一緒に仕事をするのなんて、もうすっかり慣れっこなはずだ。これまでだって今だってこうして二人でお昼休憩をとっているし、七海さんにパワーポイントの資料やお客様先に出すメールの文面をチェックしてもらったことだって何度もある。
それなのに、何ら特別でもない��二人揃って�≠ネんて台詞にこんなにも緊張してしまうとは、今日のわたしはどうかしている。七海さんの笑顔なんて稀有なものを見てしまったせいだ。
「……あ、えー、っと! それってやっぱり七海さんお忙しいってことですよね? だったら全然他の先輩にお願いしますから、忘れてください!」
「アナタの教育を任されているのは私ですので、定時外が嫌ということでなければ、時間は作りますが。というか私以外に頼れる人間がいたんですか」
「し、失礼な! いますよ、頼れる先輩の一人や二人。こう見えてもわたし、花金は毎週財務部やらシステム部やらのひとたちからお声がかかるんですからね!」
「……ああ、そうですか。それで、先ほどの話は来週の火曜日ということで良いですか。問題なければそれまでに予測される質問と、それに対するアナタなりの回答をまとめておくようにお願いします」
淡々とした口調でそう指示する七海さんは、この均衡のとれた上下関係がずっと変わらず続くことに疑問など抱いたことはなく、ましてわたしを後輩というポジション以外に位置付けることなんて、可能性すら考えたこともないのだろう。もちろん当たり前に、それは普通の反応だった。
だから、たとえ少しだけ張ってみた見栄を興味なさげに流されようと、そこに対して一切何も深堀りされなかろうと、一々胸をちくちく痛ませる必要などない。だって、二十三歳にもなってそんなことを気にするなんて、まるで一度も恋をしたことがない乙女のようではないか。
そんな自分が恥ずかしくなって思わず余計な思考を振り払うように顔を左右に振れば、七海さんは眉を顰めて怪訝そうな顔をしていた。
「来週の火曜日ですね、わかりました」
「……ええ。ついでに今月のOJT面談もそこで済ませましょう。食べたいものを考えておいてください」
「え、いいんですか?」
「面談の日時や場所はトレーナーに一任されていますので。たまには社外でも良いでしょう」
七海さんにそんなつもりが一切ないことは分かっているが、なんだか思い切り落とされて一気に上げられたような気分だ。
予想外に取り付けられた初めての定時後かつ社外での約束にニヤニヤとしていると、七海さんに鋭い目線で「あくまで業務だということをお忘れなく」とぴしゃりと言い放たれた。
それでもわたしが嬉しそうにしていることに気付いているのだろう、七海さんはこちらをしばらくじっと見つめると、やがて少し迷うようにして口を開く。
「………、」
『失礼いたします〜。こちらお先にランチセットのA、お持ちいたしました』
「え? あ、ありがとうございます! ……すみません七海さん、今なんて仰いました?」
「……いえ、何も。お先にどうぞ」
わたしの聞き取れた限りが間違っていなければ、��先週の金曜日�=Bそう、七海さんは言ったように思う。
それはたしか、しつこく繰り返される誘いにわたしが初めて折れて、財務部の先輩数人と飲み会に出掛けた日だ。「七海ィ〜。お前の可愛い後輩ちゃん、今日だけ借りるな?」なんてわざわざ七海さんまで巻き込んで話しかけるものだから、わたしは行く前から物凄く不快になってしまって、アルコールを一杯だけ胃に流し込むなり体調不良を理由に早々に帰宅したのだった。
週明けであった今週の月曜日、特に七海さんから何かを言われることはなかった。けれど、もしかするとそのことを心配してくれていたのだろうか。
そういえばあの人、いつもは週明けの朝礼でもしつこく絡んでくるのに、今週は姿を見なかったな。大方、いざ飲みに出掛けてみたらわたしが想像以上につまらない人間で興味を失ったというところだろうか。
それはそれでありがたいか、と思考を巡らせながら、七海さんのお言葉に甘えて先に目の前のオムライスに口を付ける。
うん、やっぱり物凄く美味しい。
いつだって、七海さんの選ぶものが間違っていることなんてないのだ。
◇
時刻は、およそ十八時半。
わたしに丁寧に頭を下げてオフィスから足早に姿を消した七海さんの背中を見送って、一人で暮らす家までの道のりを、いつもより少し小さな歩幅でとぼとぼと歩く。
今日は、七海さんにまとめた資料を見てもらう予定だった日だ。
『すみません。どうしても外せない急用が入りました。資料は明日早出してチェックしますので、私のデスクに置いておいてください。面談はまた後日必ず』
七海さんからそう言われたのは、実に終業の鐘がなる十五分前のことだった。わたしが何か言葉を返す間も、何かあったのかを聞く間もなく彼のスマートフォンが着信を告げる。七海さんはそれを少し荒っぽく耳に当てて、前述のとおりわたしに頭を下げると、忙しない様子でその場を後にした。
残されたわたしは、自分の手に握っていた資料に目をやる。先日七海さんに用意の周到さを褒められたせいか、つい張り切って色々なパターンに備えすぎてしまったそれは、しかしながら自分で自分を褒めても良いほどにはよく出来ている。
ある程度はアドリブで返せるような対応力も必要だとは分かっているが、学生の気分次第で分岐するであろう質問だって、ばっちり対策済みだ。
そんな複数枚に渡る紙を、わたしは静かに七海さんのデスクの上に置いた。「資料を表向きで置くのは、情報セキュリティの観点から褒められたことではないですね」と、以前七海さんに注意されたので、しっかりと裏面にして伏せたのち、自身のデスクへ戻って椅子へ腰を下ろす。
綺麗に整理整頓されたデスクにぽつんと置かれたそれは、遠巻きに見るとなんだか今この瞬間の自分のようで、ほんの少しだけ鼻の奥がツンとした。
仕方がないことだ。だって、七海さんは忙しい人だから。むしろあんなに仕事ができる人が、こんなにもわたしのために時間を使ってくれている時点で感謝以外の言葉は出てこないはずなのに。
わたしは、いつからこんなに貪欲になってしまったんだろう。ただの憧れだった気持ちがいつの間にか違う方へ向き始めていたのだということに、ようやく気がつく。
普段よりも少し気合を入れて巻いた髪も、先ほど化粧室で直したばかりのメイクも、意味を成さなくなってしまった。ふう、と溜息をついて荷物をまとめる。うん。こんな日は帰ってオカルト系の掲示板を読み漁るに限る。
そういう経緯で普段より幾許か遅れて家にたどり着いたわたしは、返事がないと分かりつつも「ただいま」と抜けない癖で呟いて、引っ越しのタイミングでちょっと奮発して買ったベッドに沈み込んだ。
あぁ、だめだ。ジャケットをシワにならないようにハンガーにかけて、手洗いとうがいをして、それからシャワーを浴びて着替えて、夕飯も食べなければ。そのあとは歯磨きをして……。そこまで考えて、目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、今日の別れ際に見た、普段あまり見る機会のない七海さんの焦ったような顔。
いつも冷静沈着な彼をあのようにさせる急用とは、一体何なのだろう。
思えば、彼の私生活は謎に包まれていた。
七海さんは、決して仕事人間というわけではない。物凄く優秀で成績も良いし、上の人間から頼られてもいるけれど、その優秀さゆえに仕事は基本的に定時できっちり終わらせて退社する。たまに定時後にミーティングが入ると、どこかぴりぴりとした雰囲気を纏わせることもあったから、時間外労働はだいぶ嫌っていると思って間違いなさそうだ。
周囲の人たちも想像がつかないと口を揃える彼の生活について、ある人は「実は結婚していて、愛する嫁が家で待っているのではないか」と言い、またある人は「あいつだってまだ二十七歳なんだから、色々キワどい遊びでもしてるんだろ」と言った。
そのどちらであっても、何ら不思議ではない。ただ、もしもそうなのだとしたら、七海さんに仕事よりも何よりも優先してもらえる��それ�≠ヘきっと物凄く幸せなんだろうなあとわたしは漠然と思ったものだった。
そんなことを考えていると、ふと何かの映像がフラッシュバックするように脳裏を過る。一瞬で消えてしまったそれは、今日の去り際に七海さんが見せた、焦った表情のその後。電話を手に取って、わたしとすれ違うとき。何か……何か、いつもの七海さんとは違う、違和感があったような気がした。
思い出そうとすればするほどなんだか嫌な汗が流れて、慌てて目を開ける。時計を見ると帰宅してから十分程度しか経っていないが、じっとりとまとわりつくような感覚が一分一秒をやけにゆっくりと感じさせた。
わたしはなんとも曖昧な気持ち悪さが残る体を持ち上げると、考えることを止めるように、先ほど脳内で組み立てたプロセスに沿ってひとつひとつ行動を実行していった。
◇
酷く冷たい目が、わたしの姿を映していた。
妬みや嫉み、怨嗟に憎悪……いつかの七海さんの言葉を思い出した。それは、まさに人間の負の感情を煮詰めたように重く、どす黒い色をしている。
この目を、知っているような気がする。これまで過ごしてきた人生のどこかか、はたまた夢の中か。いや、もっともっと最近だったかもしれない。
とにかく、そんな嫌な視線と共に目の前に立ち塞がってにこにこと楽しそうに笑う女性の手には、わたしがここ数日頑張って練り上げた、昨日七海さんのデスクに置いたはずの資料が握られていた。
喉の奥がきゅっと締まる。たしかこの人は、総務部の、七海さんよりひとつ上の先輩だ。顔立ちが綺麗な人だからよく覚えている。小さな用事で何かと営業部まで訪ねてきて、毎度決まって七海さんに嬉しそうに話しかけていた。
「あ、の……それ、わたしのなんです。返していただけませんか?」
「やだ、返してだなんて。まるで私が故意に盗んだみたいな言い方をするのね」
「そ、そういうわけでは……。でもそれ、今日の説明会で使う、大切なものなんです」
「知ってるわよ。朝から七海くんと二人で随分と熱心に探してたものね。でもコレね、落ちてたの。落ちてたし、私が拾ったときには悲しいことに、もうビリビリに破れていたのよ」
何を、と問いかける言葉は、目の前で音を立てて無惨に引き裂かれた紙に吸い込まれて消えた。その光景をただ呆然と見つめるしかできない私に、目の前の悪魔が相も変わらず楽しそうに笑っている。
ひらひらと舞い落ちる努力の破片が床に到着した頃、同じようにそこに膝をついた私の頭上から、紛れもない��呪い�≠ェ降り注いだ。
「アンタ、新人なのを良い事に七海くんの優しさに甘えすぎなのよ。自分は特別だとでも思ってるの? 大して可愛くもないくせに」
資料室には、ほとんど人が立ち入らない。
彼女がわたしを呼び出すのにここを選んだのも、それが理由なのだということは考えずとも分かる。
あまりのショックに脳が上手く働かないけれど、どこか客観的に、こんなドラマみたいなこと本当にあるんだ、と考えている自分もいた。
わたし以外誰もいなくなった静かな部屋に、ぽつぽつと雨が降ってきた。室内なのに不思議とそれは止まず、それどころかどんどん土砂降りになって、散らばった紙の上に鎮座していたインクをじわりと滲ませた。
悔しいのか、寂しいのか、苦しいのか、怒っているのか。こんなにも自分で自分のことが分からなくなったのは初めてだ。だけど多分、それらが全部混ざり合った感情が��これ�≠ネのだと、小さく嗚咽を上げながら理解した。
◇
「ごめんなさい、七海さん。わたし、やっぱり見てもらうはずだった資料なくしちゃったみたいです!」
居室に戻って、いつも通りの抜けた新人を装って笑う。それを見た七海さんが、見たことがないくらい顔を歪ませて、眉間に深くシワを刻んだのが分かった。
「……酷い顔をしている、何があったんです」
「あ、ばれちゃいました? いやぁ、あんなに頑張って作った資料をなくしちゃうなんて、わたしってなんてダメな奴なんだ〜‼ って思って、ちょっとひとりで反省会を……」
七海さん、慰めてくれます? なんて普段の調子で言ってみせても、七海さんの険しい顔とシワはとれないままだ。これっぽっちも信じていないという顔に、わたしって信用がないんだなあなんて自嘲しながら、貼り付けた笑顔をふっと解いた。
「……七海さん。わたし今日、早退してもいいですか? こんな顔じゃ説明会出られないし。部長と人事部のひとには、自分で報告してきます」
「それは私の方で伝えますし、早退を止める気も一切ありません。ですが、今のアナタはとても一人で無事に家まで帰れるようには見えない」
「えぇ、そんなことないですよ。わたしなら、大丈夫ですから」
七海さんは、優しい人だ。
ついさっきまでわたしの中でぐちゃぐちゃに渦巻いて濁っていた感情が、彼の言葉を受けるたびほんの少しずつ浄化されていくような気がする。
またにこりと笑顔を作って部長のデスクへ向かおうとするわたしの腕を、七海さんが力強く掴んだ。
「アナタの直属の上司は私です。私に伝えたのであればそこからは私の仕事なので、今日はもう帰ってゆっくり休んでください。ちょうどコーヒーでも買いに行こうとしていたところだ、駅まで送ります」
諭すように、ゆっくりと。柔らかくて心地良い音程と口調で七海さんが言う。後輩のわたしに対してでさえいつも丁寧な敬語を使う七海さんだけれど、こんなにも優しい声色は初めて聞いた気がする。
それに心が暖かくなりかけたのも束の間、ふと周囲を見るとわたしたちに視線が集まっていることに気が付いた。なぜ見られているのかは分からなかったけれど、その中に軽蔑するような目をした��悪魔�≠フ姿を見つけて、ぞわりと背筋が凍る。
────視線、視線、視線。ひそひそ、ひそひそ、ひそひそ。
囁かれる、無意識から成る悪意の塊。
「……何? あの二人って、そういう関係?」
「いやまさか。七海に限って公私混同するか?」
「にしても、最近の新人は根性が足りてないよな。よりによって説明会当日に早退なんてさ」
「昔はちょっとの体調不良くらい、気合いでなんとかしたもんだ」
容赦なく心臓に刃を立てる言葉の数々が鼓膜を震わせて、かたかたと手が震え出す。呼吸が次第に苦しくなって脳が回らず、貼り付けた笑顔が剥がれ落ちる。
あ、わたしのせいで七海さんの印象が悪くなってしまう。そうなれば、きっと彼に失望されてしまう。
知らなかった、こんなにも人の負の感情が醜いだなんて。人がこんなにも簡単に人を呪えてしまうだなんて。
本当に、七海さんの言う通りだ。人の恨みは、わたしが思っていたよりずっと、恐ろしくて厄介だ。
言いようのない恐怖からついに涙腺というダムが崩壊して、洪水を起こした瞳が、目の前の七海さんをぼんやりと映した。
そんなわたしを見て一瞬大きく目を見開いたように見えた彼は、続いて静かにその表情を殺し、氷のような冷たい目を周りを取り囲む野次馬に向けた。
──ああ、わたしはこの目を知っている。
これは、人が、人を呪うときの目だ。
昨晩の、じっとりとまとわりつくような感覚が思い出される。そうだ、たしかにあのすれ違い様、七海さんはこの目をしていた。
そして、同様に耳に残った気がしていた七海さんの舌打ちと、吐き捨てるように言われた「クソが」という台詞が、今度は目の前の七海さんから、たしかにはっきりと聞こえた。
ばさり、と何かが顔を覆い、ごつごつとした力強い手でその場にしゃがまされる。ふわりと漂う七海さんの香りで、それが彼のスーツのジャケットなのだと分かった。
◇
──ばき。ごちゅ。ぐちゃ。
聞いたことがないような音だけが、遮られた五感の中で唯一鮮明に感じられた。
──やめて、ころさないで、誰かたすけて。
聞き覚えがあるその声は、誰のものだったっけ。
やがて七海さんの柔らかい香りよりも錆びた鉄のようなこもった匂いの方が強くなり、鼻につくその匂いと甲高い金切声に頭がずきずきと痛みだす。
何が起きているのかなんて分からなかったけれど、そんな中で理解してしまったこともあった。
時間外労働を嫌う七海さんがどんな私生活を送っていたのか。
どうしても外せない急用とはなんだったのか。
財務部の先輩が、どうして朝礼に顔を出さなかったのか。
考えたくもない、間違っていてほしい推測が脳内をぐるぐると回り続ける。
ただひたすら目を閉じて、耳を塞いで。全てが終わるのを待つことしか、今のわたしには出来なかった。
◇
「終わりましたよ」
それは、いつも通りの七海さんの声だった。わたしを教え導くような、低くて耳触りが良い、安心感のある声だ。
小さく息を吸って、被せられたジャケットを自ら剥ぐ。
「……う……っ」
想像した通り、想像以上だ。
そのあまりにも惨い光景は、最早現実味などこれっぽっちも感じさせない。ただそこに横たわる命だったものと、もうこれから生きていく上で一生忘れられないであろう鼻についた匂いに、胃液がせり上がる。
それをなんとか堪えて、震える右手を震える左手で包んだ。この血溜まりの中で、自分だけが生かされていることが不思議でならない。
目の前の七海さんが、今何を考えているのかも、これっぽっちも分からない。
ぐちゃ、と革靴でどろりとした粘液を踏む音が近づき、やがてわたしの前で止まる。体が動かないし、頭も上がらない。ただ呼吸が荒くなって、返り血で真っ赤になったスーツの裾と高そうな革靴だけが視界に入った。
「いつだったか、私に聞きましたね」
「……え……?」
「呪いが本当にあると思うか、と。あのときは答えていませんでしたが……ええ、ありますよ」
──今、アナタの目の前にあるのがそれです。
その言葉に、なぜだろう、不思議と震えがぴたりと止まった。
目の前の七海さんが膝を折ってしゃがみ込んだのが分かった。一人で固く握り込んでいた手に、彼は自身の手を重ねるようにして包み込む。
それは、こんなに悍ましいことをやってのけた人間の手とは思えないほどに暖かい。
「ど、どうして……」
「?」
「どうして、わたしをころさないんですか。わたしなんて、役立たずで、根性がなくて、可愛くもなくて、頭も悪くて、」
そこまで言ったところで顎を掬われて、初めて��呪い�≠ニ化した七海さんの顔をしっかりと見た。思っていたよりずっと普段通りで、むしろ穏やかとすら形容できるような表情をしている。
彫りの深い顔が、くっきりと通る鼻筋が、相変わらず作り物のように美しい。光を映さない碧翠の瞳が、暗く静かに揺れている。
「……ああ。アナタもすっかり呪われてしまいましたね、あんな掃き溜めのような人間たちに」
「な、なみさん……」
「ですが、自分で自分を呪うのは感心しません」
それだけ言うと七海さんは再び立ち上がり、先ほど数十という命を刈ったばかりの鉈のようなものを、真っ直ぐわたしの顔の前に突き立てた。その鋒からぽたぽたと垂れる赤黒い液体が、すぐ目の前の床に新しく血溜まりを作っていく。
「アナタはあまり賢くはありませんが、努力家で物分かりが良い。だから、今目の前で起きていることが、��友達の友達�≠ゥら聞いた話ではなく、自分の目で確かに見ていることで、都市伝説でも噂話でもないということくらい、分かりますね」
てらてらと鈍く光る返り血に塗れた顔が、わたしを見下ろしている。滔々と語られる台詞が、耳から脳を介してするすると体内に溶け込んでいく。油を差していない錆びた金属のように動かない首をなんとか無理矢理縦に振ると、七海さんは満足そうに目元を細めた。
「では、選ぶのはアナタです。これからも私についてくるか、ここで終わりにするか。私の育てた後輩だ、賢明な判断が出来ることを祈ってます」
この人は、この期に及んでまだわたしをあくまで自分を慕う後輩だと認識しているのか。いつの間にかわたしも彼の心に随分と深く入り込めていたらしいということを、こんな形で知るなんて。
酷く恐ろしいのに、その事実はどうしようもなく甘く心に響いて、幸せだとさえ感じた。
「……七海さんと、一緒に行きます」
乾いた声で、呟く。
鉈がゆっくりと降ろされ、その薄い唇がしっかりと弧を描いたのが見えた。
憧れだった��完璧�≠ネ七海さんが、遠い思い出の中に、どぷんと音を立てて飲み込まれていく。
「──自覚が出てきたようで、何よりです」
つい先週言われて嬉しかったはずのその台詞は、記憶の中で、とうに色褪せていた。