春雷
窓にぽつぽつと打ち付け始めた雨を眺めながら、書類を揃えるべく手の力を緩めた。トン、という軽快な音が執務室に響くと、次いでぽつぽつという雨音が再び室内を支配する。ああ、これは荒れた天気になりそうだと思ったのは、僅か数十秒の内にそれらの間隔が随分と短くなっている事に気が付いたからだった。
本日の書類業務は残すところ後少しで、このまま順当に進めば定時をそう大きく超える事無く自室へ戻る事は叶うだろう。揃えた紙の束を��処理済�≠フ箱へと纏め、今度は��未処理�≠フ箱から承認待ちの書類を取り出す。繁忙期と呼ぶには些か時間に猶予がある今でさえひたすらこれの繰り返しなのだから、「こんなものは死神の仕事では無い」と文句を垂れる者が居るのも理解は出来る。とはいえ、此処にはこういった書類仕事の上に成り立っている制度が幾つもあるし、外で駆け回るばかりが死神の仕事では無いというのもまた事実だった。まあ、大抵の承認は隊長格もしくは相応の判断力を持つ席官などが行うのだから、実力が上がるのと比例して執務室での業務が増えるというのは、確かに何処か皮肉めいたものを感じざるを得ない。
コンコン、という音は、そんな余計な思考が僕の脳内を満たし始めた頃、入口の扉側から鳴り響いた。それを合図に意識が外界へと戻れば、既に大分激しさを増した雨の音が煩わしい程に良く聞こえた。
「どうぞ」
ざあざあという音に掻き消されないよう、いつもより少しばかり張った声で扉の向こうの人物を招き入れる。「失礼します」という言葉と共に姿を現したのは、霊術院時代からずっと馴染みのある先輩――そして、この頃妙に僕の心を独占してやまない人だった。
思わず座っていた腰を上げて、不自然でない程度に頭を下げる。彼女は所謂一般隊士ではあるが、僕にとって先輩である事には変わりない。肩書きや実力は今でこそ僕の方が上かもしれないが、この人相手に役人風を吹かすなど到底考えられない話だ。
「お疲れ様です。……あれ、吉良副隊長おひとりですか?」
「はい。鳳橋隊長は今日別の業務があるので」
「そうなんですか。執務室に戻られる予定は?」
「直帰すると聞いてますけど……隊長に用事ですか?」
うーん、と口元に手を当てて思案する彼女の姿に、胸がぎゅうと疼く。幾度となく見てきたはずの何でもない様な仕草に、ここ最近はどうにも目を奪わてしまう。すらりと伸びた指も、ほんのり朱く色付いた瑞々しい唇も、軽く伏せられた長い睫毛も。そのひとつひとつが僕の胸の辺りを酷く掻き乱して、堪らなくなる。そのざわつきの正体に心当たりが無い程鈍くはないが、僕の中で彼女が未だ��先輩�≠ネのと同じ様に、彼女の中でも僕はいつまでも��後輩�≠フままなのだろうという事くらい、容易に想像がついた。
「一度鳳橋隊長に確認をとの話だったんですが、吉良副隊長が代理で承認頂けるのであればそれでも大丈夫かとは思います」
「ああ、そういう事でしたら僕が見ますよ」
「……ですが、その……」
口籠る彼女を不思議に思いつつ受け取った書類は、手に取ると想像以上にずしりと重い。どうやら、添付された膨大な資料に目を通した上で承認・非承認の判断をしなければならない類のものらしい。これは二、三日に分けて作業する必要がありそうだと考えていると、ふと目に入った彼女が気まずそうに視線を泳がせている事に気付く。それと同時に、ほぼ確信に近い厭な予感が頭を過った。
「……これ、もしかして急ぎですか?」
「…………出来れば明日の朝迄に、と」
「明日の朝!?」
「す、すみません! 実はうちの副隊長の不在時に机に置かれたものが他と紛れて、気付かれないまま数日間眠っていたみたいで……」
心底申し訳無さそうな顔をする彼女が、おずおずと僕を見上げる。頭を抱えたくなる案件な事に変わりはないが、彼女を責めるのは御門違いだということも判っていた。そもそも話を聞く限り、特定の人物が悪かったというよりも隊の中での連携が上手くいかなかった事に拠る不手際という印象を受ける。結果的に他の隊に皺寄せがきているのは問題視すべき事項だが、こういったものを突っぱねる事が出来ない点については僕の問題とも言えた。
はあ、と大きな溜息を吐く。これを了承するという事は、当然の如く徹夜を覚悟しなければならないという事だ。とはいえ、考え様によっては何かと多忙な隊長の手を煩わせずに済んで良かったのかもしれない。僕は今比較的手持ちの業務が少ない時期であるし、少しくらいの無理は効く。脱力しながらも「分かりました」と告げると、目の前の彼女は眉尻を下げ、やはり申し訳無さそうに口を開く。
「――一緒に残っても良い?」
「……え?」
業務時にはしっかりと切り替えられるその口調が砕けたのは、僕に残業を強いてしまう事に対する罪悪感が咄嗟の言葉に表れたからなのだろう。思いもよらぬ提案と、��一緒に�≠ネんて言葉に思考が一瞬停止する。直後、熱が集まった顔をつい大袈裟に彼女から逸らした。
「い、いや。それは……」
「機密性の高いものじゃないから資料の読み込みくらいなら私にも手伝えるし……何より、こんな天気だから早く終わらせるに越した事は無いでしょ?」
戸惑いつつも、彼女の言葉を受けて窓の外を見遣る。��こんな天気�≠ニ称するに相応しく、時間を追うごとに強まる雨風は最早嵐の一歩手前と呼んで差し支えない程だった。あと一時間もすれば、帰宅する事は愚か外に出る事すら憚られそうな勢いだ。今仕事を切り上げないのであれば、天気が落ち着くまで隊舎に籠っている方が余程賢明な判断と言えるだろう。
「こんな天気だからこそ、先輩は早く帰った方が良いと思います。僕は副官室までそう遠くないですけど、先輩は家まで大分距離があるし」
「私は明日休みだから、外が落ち着くまで自分の隊の仮眠室でも借りるよ。それより明日も出勤な吉良を徹夜させる方がよっぽど心苦しい」
「……でも」
「吉良が迷惑じゃなければ、お願い」
彼女を付き合わせる事に対する申し訳無さと彼女が僕を気遣ってくれる事に対する嬉しさが、自らの胸の内でごちゃごちゃと入り混じる。その中にほんの少しだけ、この人ともう暫く二人きりで居られるかもしれないという浅ましい期待が見え隠れしていた。
返事を待つ彼女が、こちらの様子を窺う様に僕の顔を覗き込んでいる。結局僕はあっさりとその下心とも言える期待に押し負けてしまって、少しの間を置いたのち控えめに彼女の提案を首肯した。ほっと安堵した様な表情に、急にこれからの事が現実味を帯びてくる。僕は何かとんでもない事をしてしまった様な気になって、途端に心臓がどくどくと早鐘を打ち始めた。
ほんの少し前まで静かだったはずの執務室が、今はやけに騒々しく感じられる。多分それが雨のせいだけでは無い事など、僕自身が一番良く理解していた。
◇
電灯が瞬く様な感覚に、資料に落としていた視線を持ち上げる。長椅子で作業をしていた彼女にも同様の感覚があったらしく、二人して軽く天井のそれを眺めたのち、自然と顔を見合わせた。
僕の期待とは裏腹に作業は黙々と進み、気付けば互いの手元にはもう少しの資料しか残されていない。間もなく日付が変わるといった時刻だが、休憩を挟みながらの作業である事を考えれば十分すぎる成果と言えるだろう。
とにもかくにも、電灯が瞬いたのはそんな折、そろそろ今一度休憩でもと考えていた矢先の出来事だった。付け加えると、遠くから雷鳴が聞こえ始めたのも丁度この頃で、先輩がそわそわと落ち着かない様子を見せ始めたのもやはりこの頃からだった。
「……どうかしました?」
「え? な、何が?」
「いえ。なんだか落ち着かない風に見えたので」
「……別に。もし停電になったら作業が出来ないから困るなって思っただけ」
こんな時間にこの執務室を訪れる人物など居ない事を知っているからか、或いはもう気が抜けきっているのか。どちらかは判らないが、彼女の敬語はすっかりと外れ、いつも通りの話し方と声色が心地良い。しかしながら、そんな彼女の言葉の端々には相変わらず緊張感の様なものが滲んでいる気がした。
そして、それが起こったのは僕がやはり休憩でもと席を立つのとほぼ同時だった。
一際大きい雷光と雷鳴が、殆ど重なる形で僕達を襲った。さすがの僕も驚いて、思わず「うわっ」という声を漏らす。一拍遅れて、先程から危うさを見せていた電灯が遂にその役目を放棄した。否、放棄せざるを得なかったという表現の方が正しいが、今はそんな事はどうでも良い。問題なのは、その一拍の間に視認出来た彼女が今まで見た事のないくらい不安げな表情をしていた事だ。
「先輩? 大丈夫ですか?」
「だ、だいじょうぶ……」
先ほどまで彼女が居た通りの場所から、とてもそうとは思えないか細い声が聞こえた。なるべく驚かせない様にしながら、僕は暗闇の中手探りで彼女へ近付こうと試みる。時折室内を一瞬だけ照らす光が、元より華奢な体を更に縮こまらせている彼女の姿を映し出した。
ようやくそこへ辿り着く頃には随分と目も慣れて、ぼんやりとではあるものの物体の輪郭を判別する事が叶う。彼女の隣に腰を下ろし、その名前を呼んだ。一度目は反応が無い。もう一度呼び掛けると、二度目で彼女は僅かに顔を上げ、目線だけをこちらに寄越した。
「苦手なんですか。雷」
「…………ごめん」
「何で謝るんですか」
「雷が苦手なんて子供みたいで情けないし、残るって言ったのは私なのに」
ぎゅう、という息苦しくなる感覚。この胸の疼きを感じる度、僕は自らがどうしようもなく彼女に惚れ込んでいるのだという事を知る。今日、この人と一緒に居るのが他の男でなくて本当に良かった。別に自分だけが知る一面でない事くらい理解しているが、それでも彼女が弱さを見せてくれた事で、こんな僕でも少しは頼りにしてもらえている様な気になる。
「……僕は嬉しいですよ」
「え?」
「先輩がそういう姿を見せるのは、なんというか――心を許した相手にだけだと思っていたから」
室内は、相も変わらず闇に包まれている。僕の言葉を聞いた彼女がどんな表情をしているのかを知る事は叶わないが、同時に僕が今余裕の無い顔をしている事も彼女に勘付かれる事は無いだろう。
外の湿った空気が流れ込んできているのか、じっとりと暑い。纏わり付く様なそれと先程から駆け続ける鼓動で酸欠になってしまいそうだ。またも走った稲妻に、彼女が身を強ばらせたのが気配で伝わった。そして、僕の思考回路はまるで感電してしまったかの様に麻痺していた。
だからつまり、その手を握ってしまったのは、こんな雷雨に見舞われ正常な判断が出来ていないせいに違いなかった。
「……吉良」
「あの、僕、そばに居ますから」
こんな歯の浮く様な台詞も、普段の僕ならきっと口には出来ない。彼女から一人の男として意識してもらう為に、もっと積極的になる必要があるのだろうとずっと思っていた。それでも、そうした結果この人からはっきりと��只の後輩�≠セと告げられてしまう事が恐ろしくて、臆病な僕はいつまでも一歩踏み出す事が出来ないままだった。
ふと、握った手が僕のものからするりと逃げ出した。拒絶とも取れるその行動に、頭が急速に冷える感覚がする。調子に乗りすぎてしまった、と慌てて謝罪しようとしたのも束の間、まるでそれを握り直すかの様に細い指が僕の指に絡められた。そのままきゅっと緩く握られて、また体温が上がる感覚に視界がぐらりと歪んだ。
「……さっきの、そうなのかもしれない」
「は、い?」
「本当はね、今日雷になるかもしれない事くらい判ってたの。でも、吉良にならこんな格好悪いところも見せても良いかなって――寧ろ、知ってもらいたいって思ってたのかも」
心臓が忙しなく脈打って、どくどくという音が煩い。それでも彼女の声だけははっきりと耳に届いて、握られた手にじんわりと汗が滲んだ。
こんな夜中に、灯りもない暗い室内で、二人きりで、手を握って。挙句そんな事を言われて、それでも何も思わない��出来た男�≠ネど、この世界の何処に居ると言うのだろうか。少なくとも僕は、とてもそうはなれない。
「……僕、そんな言い方されて期待しない男じゃないですよ」
これ程の雨音がしているのだから、僕が生唾を呑み込んだ事などきっと彼女は気が付いていない。それでも、今この瞬間だけはこの人を独り占め出来ている様な気分だった。探りながら距離を詰めて彼女を見つめれば、その瞳が僅かに揺れる。
――そんな表情をされると、勘違いしてしまいそうになる。こんな僕でもこの人の後輩以上の存在になれるのかもしれない、などという身勝手な期待が頭を支配してしまう。
恐る恐る彼女の頬に手を添えると、やがて彼女の唇がゆっくりと開いて「知ってるよ」と一言、確かに呟いた。吸い寄せられる様に近付いたのは殆ど無意識下での行動で、僕の中に口付けようという明確な意志は無かった。それでも、この時の僕と彼女は多分、本能的に惹かれ合っていた。
「好きです、先輩」
触れ合う直前にそう告げて、返答は聞く前に塞いでしまった。初めて触れた唇は想像していたよりもずっと柔らかくて、軽く食んだだけでも蕩けてしまいそうだと思う。彼女の吐息と鼻から抜ける様な声が脳内で反響して、それが僕のせいなのだと思うと酷く気持ちが高揚した。こんな拙い口付けでも良いのだろうか、と心の何処かでは考えながら、それでも暫くは求めるままに繰り返した。
激しい雷雨の中、互いの荒い息遣いが、互いにだけ聞こえていた。
◇
「イヅル、ここ最近何かしたかい?」
「……はい?」
二日後の昼過ぎ、隊首会を終えて執務室へ戻った鳳橋隊長が突然僕に問い掛けた。あまりに抽象的な質問に思わず眉根を寄せて聞き返せば、隊長の口から耳を疑う様な発言が飛び出してくる。聞けば聞くほどに耳を塞ぎたくなる様な話が、寝不足の頭にガンガンと響き渡った。
要約すれば、鳳橋隊長の話は二点だった。山本総隊長が、昨日提出した書類に記された三番隊の意見が大変素晴らしいと褒めて下さったという事。それから、それにより僕の先日の行いは不問とする、と仰ったという事。鳳橋隊長が何の事かを聞いても、総隊長は「吉良本人に伝えれば判る事」とだけ告げて、それ以上は何も語らなかったのだと言う。
「心当たり、ある?」
「……ええ、まあ……はい」
「えっ? 何それ、ボクにも教えてよ」
「すみません、こればかりは勘弁してください。ちょっと僕、外の空気吸ってきます」
「ええっ!? ちょっと待ってよ、イヅル! イヅルってば!!」
背後からの声を振り切る様にして、足早に執務室を後にする。こんがらがる頭を整理しながら暫くひたすらに足を動かして、辿り着いた休息所でようやく一息吐いた。何故山本総隊長がご存知なのかは全くもって謎のままだが、��先日の行い�≠ニ言われ真っ先に思い浮かぶものといえば、あの日執務室で及んでしまった不届きな行為だけだった。
一昨日、あの後に特段何かが起きたという事実は無い。夢中で口付けている最中に突如電気が復旧し、瞬間的に冷静さを取り戻した僕たちは何とも言えないふわふわとした空気感の中、互いに黙々と残りの作業を終えた。そして、午前二時頃にはまるで何事も無かったかの様に解散した。とはいえ、組織の管理下にある場を私物化した事に変わりはないのだから、それは十分糾弾されるに値するのだろう。
あの日以来、といってもまだたった二日ではあるが、彼女とは顔を合わせていない。昨日は非番だと言っていたのだから、当然と言えば当然の事だ。しかし肝心な告白の返事さえも聞けてはいなくて、僕は「あー」と呟いたのちひとりで頭を抱えた。ここ二日はずっとこんな調子を繰り返しているが、新たな悩みの種が増えた今、考えるべき事の多さに頭が追い付かなくなりそうだ。
「まあ、確かに場所は弁えないと駄目かもしれないけどねぇ」
「うわぁっ!? きょ、京楽隊長!?」
いつの間にやら隣に腰掛けていた京楽隊長から声を掛けられ、思わず飛び上がる。何故隊長というのはいつもこう静かに現れるのか。否、もしかすると今回に限っては僕が自らの考えに没頭しすぎていただけかもしれないが、とにかくあまりに突然の出来事に只々驚いて、思考が暫し停止する。少し遅れて、何故京楽隊長まで知っているのだろうという疑問が湧いて出たが、最早僕にそれを訊く程の体力は残されていなかった。
「でも山じいが言いたかったのは多分さ、ちゃんと男を見せろっていう事だと思うよ」
「えぇ……絶対違うと思いますけど」
「……そうかい? ま、そんなのはどっちでも良いじゃない。とにかく、思ってる事は伝えられる時に伝えとくもんだよ。��好機逸すべからず�≠チてね」
にこりと微笑む京楽隊長に、もやもやとしていた心が少しだけ晴れるのを感じる。そして、恐らくこの人の言う通りなのだろうとも思った。いつまでも此処で頭を抱えていたって、先輩との関係性が変化する訳でも無ければ、あの日の行動が無かった事になる訳でもない。本当はあの日彼女の気持ちをしっかりと確かめるべきではあったが、それは多分今からでも遅くはないはずだ。
もうこの際、この話を誰が知っているのかだとか、どうして知っているのかだとか、そういう事を考えるのは止そう。今の僕に出来る事といえば、今後は自覚ある行動を心掛けるという事だけだ。
よし、と気合を入れて立ち上がり、相変わらず見ている方までおおらかになりそうな雰囲気を醸し出している京楽隊長に頭を下げる。
「有難うございます。京楽隊長」
「ん?」
「彼女にもう一度、ちゃんと伝えてみます」
「……そうかい。頑張んなさいよ」
踏み出した一歩の足取りは、何かが吹っ切れたかの様に軽い。春の嵐と呼ぶには少し遅すぎる気持ちが、僕の心の中で何処か爽やかに吹き荒れていた。