水曜日だけ会える話・後

原題:水曜日にだけ会える七海建人の話


 朝目が覚めると、頭に鈍い痛みがあった。
 昨日から少しそれらしい気配はあったけれど、どうやら本格的に風邪を引いてしまったみたいだ。
 原因は一昨日の自分の行動を振り返ってみればあまりにも明白だったが、それを思い返すついでにちくりとした胸の痛みまでもがぶり返してきて、小さく溜息をついた。

 カレンダーに目をやらずとも、今日が金曜日であることは知っている。一日頑張れば週末がやってくるこの曜日は、わたしにとって長らく平日の中で唯一特別だった。けれど、ここ数ヶ月はその上を行く存在の出現により劣勢になりつつある。
 とにもかくにも、今日頑張れば休みであることに変わりはない。薬箱から市販の風邪薬を取り出すと、【食後なるべく三十分以内に水またはぬるま湯で服用してください。】という一文を無視して、ごくりと起き抜けで空っぽの胃にそれを流し込んだ。
 外は寒そうだし、体調もあまり優れない。今日はギリギリまで寝てしまおうか、なんて考えが一瞬頭を過るが、なぜか例日以上にスッキリと覚醒してしまった脳に従うように、もそもそと準備を始めた。

 いつもより二本遅い電車に乗ってたどり着いた公園で、思わず息を呑むほど驚いた。スマートフォンを開いて、見ずとも理解できていたはずだった今日の曜日を確認する。何度見ても、金曜日だ。けれど、わたしの目線の先で空を仰ぐようにベンチに背を預けているその人は、見間違うはずもなく、確かに水曜日にだけ相見えることのできる七海さんその人だった。
 まだこちらに気が付いていないらしい彼の目は伏せられており、心なしか身なりも普段とは少し違う。いつも手にしているビジネスバッグも持っていなければ、マフラーも手袋もしていない。会う度に飲んでいるホットコーヒーも見当たらず、本当に必要最低限の防寒だけをしてここに来たという風に見受けられた。

 あまり音を立てぬよう、そっと近づく。こんなに寒い中だというのに、眠っているのかと思わされるほど微動だにしない。もし彼が本当に夢の中なのだとすれば起こしたくはないが、別に驚かせたいわけでもないので、声を掛けるか否か迷ってしまう。散々躊躇った挙句に出た声は、結局どうするべきなのか定まらなかったことがありありと分かってしまうほどに細く辿々しいものだった。

「……七海さん?」

 ぱちり、と彼の両まぶたが持ち上がる。仰け反っていた頭がのそりとこちらを向いて、相変わらず宝石のように美しい瞳がわたしを捉えた。酷い顔をしている。何も言われずとも、いつも以上に彼が疲弊しているのだということが伝わってきた。
 もはや習慣化していた会釈はなく、自らの腰掛ける座面へ向かって働く重力に無理矢理逆らうように、ぐぐ、と七海さんが重々しく立ち上がる。そしてふう、と軽く溜め息をついたのち、霜のできた芝生の上をしゃくしゃくと音を立てながら歩いて、やがてわたしの前で立ち止まった。

 背が高い彼の顔を見上げるようにして、視線を合わせる。七海さんは、しばらく何も言わないままじっとわたしを見つめていた。その疲れ切った表情も相まって、無言の時間が妙に長く感じられる。

「七海さん……? 大丈夫ですか?」

 耐え切れず沈黙を破ったのはわたしの方だった。七海さんはそれを聞くと、まるで噛み締めるかのように浸るかのように、もう一度目を閉じた。細くて長い、色素の薄い睫毛が太陽に照らされてきらきらと光っている。大きく息を吸って、また溜息をひとつ。それが終わると、再び彼の視線がわたしとぶつかった。

「……ええ、大丈夫になりました。おはようございます」
「あ、お、おはようございます」
「……今週は、もう会えないと思っていました」

 そう言った七海さんの声はどこか弱々しくて、目にもあまり力がない。髪の毛もいつになく乱れていて、頭の中にいるスーツをきっちり着こなすモデルのような彼からは想像もつかないほどだ。しかし、憂愁を湛えたその姿すらも、一般人が手を触れてしまえば一瞬で価値を落としてしまう芸術品のように美しい。

「わたしもそう思っていたので驚きました。水曜日以外に七海さんがここにいるなんて。それに、どうしたんですか? なんだかすごく疲れているように見えます」
「仕事が立て込んでいて昨日は家に帰れていないもので」
「え⁉ じゃあひょっとして、今日は職場からそのまま……?」
「ええ、まあ」

 身だしなみまで気遣っている余裕がなかったので見苦しい姿ですみません、と丁寧に謝罪した七海さんは、続けてまだ何かを言いたげにわたしを見つめている。彼とこんなにも言葉を交わすのはまだ二回目だというのに、その小さな感情の起伏までをなんとなく肌で感じ取れてしまうのは、逆にこれまで碌に会話もせず時間だけを共有してきたからこそなのかもしれない。
 じっと見つめ返して、次の言葉を待つ。水深数百メートルの世界を閉じ込めたような瞳が、波打つように小さく揺れている。

「……先週アナタにしたことを、改めて謝罪しなければと」
「え、っと……キスのこと、ですか?」

 自分で言いながら、また思い出して顔が熱くなってしまう。正直、今でもまだ七海さんがわたしに口付けただなんて信じられていなかった。目を閉じていたこともあってか、あまりにも非現実的なそれを自分の身に実際起きたことだと認識できていないのかもしれない。けれど七海さんはそれを首肯して、またバツが悪そうな表情を見せる。

「まさか、それを謝罪するために今日ここへ? 既に謝って頂きましたし、どうしてもと言うのであれば来週で良かったのに……」
「いえ。……ああいや、もちろんそれもありますが、主な目的はアナタの顔を見ることです」
「えっ?」
「一昨日。会えはしませんでしたが、来ていたんでしょう。ここへ」

 その言葉に、心臓がどきりと跳ねる。なぜ七海さんがそのことを知っているのだろう。
 確かに彼の言う通り、一昨日��どうかしていたわたし�≠ヘあの大雨の中ここへ来た。そして、ざあざあと傘に打ちつけられる、声すらも掻き消してしまうような雨音を浴びながら七海さんの姿を探した。

 この公園に雨を遮る場所などないのだから、当然ベンチは水浸しであったし、傘だってそのうちあまり意味を成さなくなった。十分ほど待ったところでやっぱり来るわけないか、とほぼ確信に近いものを得たにも関わらず、それでも懲りずにさらに待つこと二十分。時計台の針が八時を示したのを見てようやく、今日は彼に会えないのだという事実を心ならずも受け入れた。

 体はすっかり冷え切って、特に指先は感覚を失いつつあったし、靴の中も防ぎきれなかった雨水でぐちゃぐちゃだった。想像以上にツンと痛くなった鼻に、勝手に来たのも待ったのもわたしじゃないか、と自分でツッコミを入れて、残り三十分の使い道を考える。
 ──そうだ、まだお昼ご飯を買っていないし、七海さんの言っていたパン屋さんにでも行ってみよう。そう思い立って、わたしはギュ、ギュと一歩踏み出す度に水を絞り出すような音を立てる足を駅へ向けたのだった。

「たまたま、パン屋で世間話をしていたときに大雨の中買いに来た客がいたという話を聞きました。それでおそらく、アナタではないかと」
「す、すごいですね……仰る通り、来てました。あんな大雨の中」
「……なぜ、わざわざ。遅刻しないためだけならこの公園でなくとも良かったでしょう」

 あはは、と笑うわたしに、七海さんが訝しげに尋ねる。
 それは、そうだ。別に近場のカフェでも良かった。いやむしろその方が良かった、普通に考えれば。だからこそ、七海さんに一昨日ここに来たことを知られたくはなかったのだ。だってあんな雨の中、わざわざこの公園に来た理由なんて火を見るよりも明らかだ。わたしでも容易に想像がつくのに、こんなにも──パン屋さんとの会話だけでそれがわたしだとすぐに気が付いてしまうほど聡明な七海さんに、分からないはずがない。

 質問に対して、「それは」と口籠るわたしを見た七海さんが小さく息を吐く音が聞こえる。続けて、低くて耳に馴染む美しい声。

「少しは期待してもいいですか」
「え……」
「アナタも、私に会いたかったのだと」

 七海さんの目は、真っ直ぐにわたしを捉えていた。その熱い視線に呑まれてしまったかのように、言葉が頭の中から消えていってしまう。
 なぜ、そんな風にまるでわたしのことを好いているかのような口振りをするのだろうか。彼はわたしに口付けたことを「そんなつもりではなかった」と謝罪したというのに、今は期待だとか、アナタ��も�≠セとか、言葉の端々に好意と勘違いされても仕方のないようなニュアンスを滲ませていて、その真意を汲み取ることができない。

 言われた通り、わたしは七海さんに会いたかった。
 けれど結果としてここに訪れなかった彼に、臆病なわたしは、自分だけが勝手わがままにこの関係に何かを期待してしまっていたのだと猛省した。勘違いも甚だしくて、あまりに情けない。
 だから、今この瞬間もまた自分の思い違いであることを恐れて、こんなにも重苦しい感情を抱いていることも悟られたくなくて、つい本音を隠してしまう。

「ええ、と……ただなんとなく、です。ごめんなさい」
「……そうですか。いえ、こちらこそ突然おかしなことを言いました。忘れてください」

 早くも薬が切れてきたのか頭がずくりと痛んで、ついでに胸がきゅっと締まるような、息苦しい感覚がわたしを襲う。
 それは、目の前の七海さんが見せた表情のせいだった。なぜだか彼は、酷く傷ついたような顔をしていた。けれどそれは本当に一瞬で、七海さんの纏う空気はすぐにいつも通りの隙がないようなものに戻り、先ほどまでの心許ない雰囲気など見る影もなくなる。

「業務を残してきているので、会社に戻ります」
「……はい」
「それから」

 わたしの横を通り過ぎた七海さんが、その大きな背中越しにぽつりと言葉を紡ぐ。感情は、読み取れない。

「酷い鼻声です。無理はせずしっかりと休んでください」

 え、と言う間もなく、七海さんの背中が遠ざかる。
 そんなに疲れ切った顔をしているのは自分なくせに、どうしてこの人は週に一度会うだけのわたしの変化にたったこれだけの会話で気がついて、自らのことは二の次にして心配してくれるのだろう。
 そんなのは、ずるい。わたしだって本当はもっともっと、七海さんの小さな変化に誰よりも早く気が付いて、そして誰よりも近くで気に掛けたいだなんて貪欲なことを考えてしまう。

 なりふり構っていられないとはこういうことをいうのだろうか。頭でしっかりと考えるよりも先に体が動いて、少し駆け足でその後ろ姿を追いかける。何も持たない七海さんの腕をぐっと掴むと、少しだけ驚いたような顔をした彼がこちらを振り返った。

「七海さん、待ってください。わたし、会いたかったです。本当はあんな大雨でもここへ来てしまうくらい、あなたに会いたかった」

 それを聞いた七海さんが、目を見張ったのが分かった。と思った直後、掴んでいたはずのわたしの手は逆にぐっと引かれて、バランスを崩した体が彼に引き寄せられる。
 冷たかったはずの周囲の空気がじんわりと暖かくなるのを感じて、そこでようやく今自分が七海さんに抱きしめられているのだということを知った。

 一晩中仕事をしていたと言うわりには、七海さんからは相変わらず柔らかくて暖かい、良い匂いがした。そんなことを考えていると、七海さんもわたしの首元に顔を埋めて、肺いっぱいに吸い込んで堪能するかのように大きく深呼吸した。ほぼ同時に抱きしめられる力が強くなって、少し痛い。

「七海さん、」
「確認させてください」
「は、はい……?」
「今、恋人は」
「えっ?」
「交際している相手は、いますか」

 そんなものは、残念ながら存在していない。なんなら男性からキスされた記憶だって、この前の七海さんを除けば二年ほど前で止まっている。社会人になると出会いがないという話は学生の頃から度々聞いたことがあったけれど、特にここ数年はその言葉の重みを身を以て実感しているところだった。
 いません、と多少の不甲斐なさも含みつつ控えめに告げれば、耳元で少し安堵したような「そうですか」という声が聞こえて、さらに抱きしめる腕に力が籠る。

「……キスしてもいいですか」
「はっ⁉ いや、ちょっと待ってください」
「今度はちゃんと、したいからします」
「だ、だめです。七海さん、なんかあの、ランナーズハイみたいなあれですよ多分。一旦落ち着きましょう」

 そんなわたしの言葉に対して七海さんから何か無言の圧のようなものを感じて、慌ててその体を引き剥がそうとするが、びくともしない。そのあまりの力の強さに仰天しながらも懇願するようにもう一度彼の名前を呼べば、渋々といった様子で体が解放された。

「あの、七海さん」
「はい」
「わたしたち、どう考えても二度目のキスをするような仲ではないです」
「……なら、それが許される関係になりたい」

 眉目秀麗、絶世独立。そんな言葉がぴったり似合う七海さんの口から滑り落ちたその言葉は、そこだけを切り取ればまるで映画のようで目眩がしてしまう。それを言われている相手が自分だなんて、もしこれが本当に映画だったならシンデレラストーリーも良い所だ。
 目線を泳がせながら、どこか第三者のような気持ちでそれを聞いていたわたしの顎に手が添えられ、余所見をしていたことを咎めるかのように持ち上げられる。

 無理矢理合わされた目線と至近距離にある整った顔に、おかしな声が出る。「どうなんです」と言う七海さんにまた目の前がぐるぐるして、体温が急上昇するのが分かる。これではただでさえ万全ではない体調が、さらに悪化してしまう。

「待って……待ってください、わたしたち、まだお互いのことをあまりにも知らなすぎます」
「これから知っていけば何も問題ないでしょう」
「それは、そう……なんですけど。名前を知ったのすら先週だし……ていうか七海さん、わたしのこと好きなんですか……?」

 しばしの沈黙があって、七海さんは眉間にシワを寄せながらわたしの顎にあった手を今度は自分のそれに添える。あ、考え込んでいるときの癖だ。というか、あれだけ大胆なことを言っておきながらそこは即答してくれないのか。
 数拍置いて七海さんの薄い唇が開かれて、まとまったらしい彼の答えがあまりにもシンプルに、けれど人ひとりくらいであれば容易く絶命させてしまいそうな衝撃をもって、ずどんと落とされた。

「好きです」
「えぇ⁉」

 考え込んだ挙句のそのあまりに直球な言葉に、素っ頓狂な声が漏れてしまう。
七海さんは相変わらずいつも通りの表情で、先ほどとは打って変わって余裕綽々という風にすら見える。それがなんだか悔しくて、そして普通に興味深くもあって、「どうしてそう思ったんですか」と尋ねてみる。すると七海さんは、今度は少しも悩むことなく、淀みないするするとした口調でその理由を語った。

「アナタと、時間を気にせずに会いたいからです。水曜日の朝だけでなく、終業後も休日も。何もせずとも、言葉を交わさなくとも構いません。ただ、一緒にいられればそれで良い」
「……ずるい」
「はい?」
「だって、わたしも同じこと考えてました。でも七海さん、水曜日、来なかったじゃないですか。だからその気持ちはわたしだけなのかと」

 自分勝手に責めるような口調になったことが、我ながら恨めしかった。あの雨では来ない方がむしろ普通だというのに、想像以上に凹んでいる自分があまりにも女々しくて情けない。
 七海さんは予想外だとでもいうようにぽかんとしてから、少し眉間にシワを寄せて「なるほど」と小さく呟いた。

「言い訳にしかならないので特に言う必要性を感じませんでしたが……私も一応、来ましたよ」
「えっ?」
「ただあの日は電車のダイヤが乱れていて、アナタがいる間に来ることができなかった。それに来たと言っても一瞬顔を出した程度です。アナタをあの天気の中一人で待たせたことに変わりはない」
「か、変わりますよ‼ 待ったこと自体はそうでも、それを知ってるだけでわたしの心持ちは全然違います……‼」

 そんなに重要なことですか、と問う七海さんとわたしの間には、当然ではあるが価値観や考え方に相違があるらしい。わたしのまだ知らない七海さんの一面だ。

「同じことを考えていた、というのは」
「う……」
「今度こそ期待してもいいんですか」
「……はい……。七海さんのこと、好き、みたいです」

 わたしの返事を受けて、七海さんは少し嬉しそうに目を細めた。それもまた初めて見る表情で、つくづくわたしたちはお互いのことを何も知らないのだなと思わされる。
 では、という頭上から声に反応するように顔を上げると、七海さんの大きな手が頬に添えられた。いつまで経っても見慣れることなどないであろう綺麗な顔が、わたしに近づくのが分かった。

「は、早くないですか⁉」
「したい。駄目ですか」
「い、いいんですか。わたしは思っているような人間ではないかも」
「……少なくとも、アナタとのキスが忘れられないほどに心地良いということは知っています」

 あ、だめだこれ。多分、わたしはこの人を知れば知るほど抜け出せなくなってしまう。
 そう考えながら受け入れた二度目のキスは、一度目よりもずっと温度と色気を含んでいた。食むように繰り返されるそれに「七海さん、ここ一応外です」と訴えるように柔らかく押し返してみるが、効果はない。まあでも幸せだから良いか、なんて考えながらさらに熱量を増していくキスに頭がぐらりと揺れて、そこで急に現実に引き戻された。あ、そういえばわたし今風邪引いてるんだった。ていうか、あれ? 今何時?

 思わず閉じていた目を開くと、七海さんも何か感じ取ったのか薄く目を開けてわたしを見た。ちゅ、と音を立てて唇が離れて、また一瞬で引き込まれそうになる瞳から目を逸らす。逸らした先に、時計台。示す時間は──八時五十分。

「わあああああ‼‼」
「うわ、なんですか。急に大声出さないでください」
「七海さん、七海さん‼ あと十分で九時ですよ‼」

 キスの余韻なんてあったもんじゃない。そういえば今日はただでさえ二本も遅い電車で来たことを忘れていた。わたしの言葉で七海さんも腕時計を見て、しまったという表情になった。

「わ、わたし鍵開けが‼ やばい、怒られるので先に行きます、すみません‼」
「いやちょっと待ってください、連絡先くらい」
「あ⁉ そうだ、そうですね‼ でもすみません、一旦また水曜日の朝に会いましょう、ここで‼」
「今日の定時後じゃだめなんですか」

 あまりの切羽詰まった状況に、慌てて荷物をまとめながら七海さんの納得いっていないように寄せられた眉根を見る。そして、同時に自然と視界に入ったのはその目の下にくっきりと刻まれた彼の隈。

「だめです、七海さん徹夜明けなので今日はちゃんと休んでください。それにわたしも風邪気味なので……あっ、それから七海さん、もしかしたらわたしの風邪移っちゃったかもしれないので尚更ちゃんと水曜日までに体調整えてください‼ では‼」

 早口で捲し立てて、職場に向けて何年振りかの全力疾走をする。一分一秒を争う事態だというのに、口元が緩んでしまって仕方がない。
 そういえばわたし、七海さんに会う度に「仕事頑張ろう」と思えていたんだったな、と今更ながらに考えた。


◇


 毎週水曜日の朝七時半から八時半。決まっていたその限られた時間は、人生の中のほんの数時間だけれど、わたしたち二人にとっては確かに特別だった。
 すっかり過ごしやすくなった初夏。マフラーも手袋も当たり前にいらなくなった緑溢れる公園のベンチの、左から三つ目。今日わたしが齧り付いているのは、パリッとした海苔に巻かれたおにぎりではなく、おしゃれなフランスパンのサンドイッチだった。もう随分と前に教えてもらったこのパンの名称は、カスクートというらしい。

 時計台の針は、八時を示している。
 今日は水曜日だけれど、わたしの座るベンチの二つ隣に彼はいない。今、この公園にはここに通いはじめたときのようにわたし一人だけだった。

 七海さんは、少し前に勤めていた会社を辞めた。
 あれからわたしたちはお互いのことを少しずつ知っていき、その中のいつだったか、彼は「より適性のある仕事に戻ります」と真摯な表情でわたしに告げた。何とは言われずとも、なんとなく分かった。出会ってすぐの頃から、彼にしか見えない世界があることには気がついていた。そして七海さんはわたしに、何が起こるか分からない仕事なので一緒にいない方がいいとも言った。

 カマンベールチーズとハムの塩気が舌にじんわりと広がる。七海さんの教えてくれたパン屋さんは、あのあと宣伝に宣伝を重ね、今では大盛況だ。わたしも大多数に漏れず足繁く通うようになったひとりで、逆に今ではぱったりと訪れなくなった七海さんのことを、店員さんは大層心配していた。二人でも何度か訪れたことがあったため、「あの人、お元気ですか?」とたまに尋ねられる。

 ブブ、とポケットからメッセージの受信を知らせる振動が鳴った。パンを左手に持ち替えて、右手でそれを取り出す。通知を読むのとほぼ同時に、相変わらずモデルのような抜群のスタイルでスーツを着こなす男性が姿を現した。
 それは以前のような見るからにサラリーマンといった風なスーツではなく、白基調のセットアップに青のワイシャツという、この姿で初めましてをしていたら絶対に今はなかっただろうなと思わされるような格好だ。そうは言っても相変わらず美しいその人は、「遅くなりました」と言いながらわたしの前で足を止めた。

「お疲れ様。ニンム、終わったの?」
「ええ。これからすぐ報告書提出のために戻りますが。まったく、時間外労働もいいところだ」
「でもこの時間にこの公園で会えるの久しぶりだから、ちょっと嬉しくなっちゃった」

 ふふ、と笑いながらまた次のひとくちを口に含む。七海さんは何を言ってるんだ、というような表情でわたしの隣に腰掛けて、パンひとつください、とビニール袋を取り上げた。

「あ、ちょっと」
「良いでしょう、アナタはいつでも買いに行けるんですから」
「だから頼まれればいつでも買って帰るよって言ってるでしょ。まあ、いいけど」

 二人で無言でパンをもそもそと咀嚼する。多分いま、出会った頃を思い返してるんだろうなあ、なんて考えて七海さんを見れば、思った通り同じタイミングで彼はわたしへ顔を向けた。へらりと笑ってみせれば「なんですか」と聞くので、「別に」とだけ返す。それで彼も納得したように何も聞き返しはしないのだから、わたしたちはもう随分とお互いに詳しくなっていた。

「今日、帰り遅いの?」
「いえ、定時には上がります。むしろ今朝の件があるのでアナタより早いかもしれない」
「もし早く帰れそうだったら、」
「「帰りに卵と牛乳」」

 言わずとも伝わっていた頼み事に、思わず笑ってしまう。また何時頃になるか連絡します、と言いながら早くもパンを食べ終えた七海さんが立ち上がって、わたしの頭にちゅ、と軽くキスを落とす。また後ほど、と去っていく背中は、今は見ていて寂しくなるものではなかった。

「七海さん」

 呼び止める声に振り返った彼に、わざとらしく会釈をしてみせる。
 それを見た七海さんが、「ああ」といってわたしに倣うように、美しい所作で頭を下げた。


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