水曜日だけ会える話・中

原題:水曜日にだけ会える七海建人の話


『七海、建人です』

 驚いたような戸惑ったような表情でそう名乗った彼を、部屋で一人思い返す。
 その名前を聞いて、件の事件でまだ頭も心も混乱しきっていたわたしが真っ先に思い浮かべたことといえば、「案外普通の日本人らしい名前だな」なんていう失礼極まりない先入観だらけの感想だった。てっきりもっと横文字の──そうでなくともミドルネームだとかが入った名前なのかな、なんて勝手に思っていた。

「……七海、さん」

 その名前を口に出してみると、なぜだか妙に胸がそわそわと落ち着かない。至近距離で、自分のしてしまったことに驚きを隠せないといった様子をみせた彼の、吸い込まれてしまいそうな翡翠の瞳が思い出される。
 あのとき、わたしがお詫びの代わりに名前を教えてくれだなんて半ば衝動的に頼み込んだとき。七海さんはまず、「私の行動については咎めないんですか」と尋ねた。

 咎めていない、わけではなかった。
 だけど、その反省とも後悔ともとれるような色に揺れる彼の目を、くっきりと隈の刻まれた疲れ切った表情を見ていたら、なんだかこの人と過ごす水曜日の一時間が無くなってしまうことの方がよっぽど問題だとさえ思えてしまったのだ。
 七海さんはあの時間を気に入っていると言ったが、わたしだって負けず劣らずあの一瞬に元気も勇気も小さな幸せももらっていた。それこそ、今まで憂鬱だった火曜日の晩がちょっとわくわくする時間へと早変わりしてしまうくらいには。

 恐らく七海さんは疲れていたのだろう。だから眼前で無防備に目を伏せた女の顔に、何か人間の本能的なものが誤作動を起こして、つい吸い寄せられるように口付けてしまったに違いない。そしてそれは相手がわたしだったからではなくて、たまたまそこにいたのがわたしだったというだけだ。

 七海さんの唇は、冷え切った空気の中で唯一温度を持っていて、暖かかった。凍えるほど寒い冬の朝に外で一時間を過ごすなんて、正直いつものわたしなら勘弁願いたいの一言に尽きる。それでもそれを続けている理由は、鍵開け当番なんて本当はもうとっくに関係なくて、やっぱりどう転んだってそこに彼がいるからだった。
 それじゃあ、七海さんは? あの時間を気に入っているという、ただそれだけの理由で、こんなにも冷え込む朝にわざわざ手袋やマフラーをしてまで毎週来ているのだろうか。それとも。もしかして、そこでしか会えないわたしの存在を、少しでも気にかけてくれているのだろうか。頭の片隅にでも、わたしの存在はあるだろうか。

 そんなことを考えているうちにまた今日のキスを思い出して、思わず熱くなった顔を枕に埋める。ずっと続いていた倦怠感が体からすっかり消え去ったおかげで、今日はぐっすり眠れるような気がする。
 七海さん、やっぱり不思議な人だな。目を閉じろと言ったとき、一体何をしたんだろう。彼は今、何を考えているんだろう。そんなことに思考を巡らせるうち、気がつけばわたしの意識は深い眠りの底へ沈んでいった。



 そうして日々を繰り返してようやく迎えた水曜日は、希望と共に始まる──はずだった。
 無情にも窓にざあざあと打ちつけられる大粒の雨は、数日前からテレビのキャスターが報せていた通りだ。普段なかなか当たりやしないのに、外れればいいなと願ったときに限ってぴたりと的中するそれが憎い。期待と懇願を込めて開いたカーテンの隙間から曇天の日特有のぼんやりとした明かりが差し込み、部屋を淡く照らす。

「……さすがにこの雨じゃ無理か……」

 聞いている人なんて自分以外にはいないけれど、一人気持ちを納得させるように呟く。時刻は朝六時。もしそこへ赴くのであれば、もう準備を始めなければならない時間だ。だけどこんな雨の中、まさか七海さんが現れるわけがない。

 よくよく考えてみれば、水曜日に雨が重なったのはこれが初めてだった。祝日が重なったことはあったが、仕事が休みだったので当然公園には行かなかったし、そもそもそのときには彼はどうするだろうなんて考えは一瞬たりとも出てはこなかった。多分、少し前のわたしならこの雨を見た瞬間に二度寝を決め込んでいたに違いない。

 ──ああ、そうか。わたし今、七海さんに会いたいんだ。
 なんとなく気づかないふりをしていたような気がする気持ちをはっきりと自覚してしまって、大きな溜息が出た。

 わたしたちは、もしどちらか片方が気まぐれで「行くのをやめよう」と思ったとしたら、その瞬間に終わる関係だ。たとえ何か理由があって行けないのだとしてもそれを伝える術を持ってはいないし、そもそも別に約束しているわけではないのだから伝える義務もない。あの時間はそういう、あまりにも脆くて儚い泡沫の時間だった。

「……よし」

 我ながら本当にどうかしていると思う。だけど本当に万が一──いや億が一かもしれないが、彼が今日も公園に行っているようなことがあったら、わたしは後悔してしまうかもとなんとなく思ったのだった。


◇


「いつもありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」

 行きつけのパン屋で昼食用のカスクートとコロッケパン、それからカスタードデニッシュをトレーに乗せる。ついでに業務中でも手軽に小腹を満たせるポンデケージョの袋詰めを手にしてレジに足を向ければ、いつも対応をしてくれる店員が、いつもと変わらぬ笑顔で世間話を始めた。

「昨日の雨、凄かったですね。あなたもいらっしゃらなかったので、もう朝はお客さんからっきしで」
「ええ、そうですね。……というかここ、もう少し集客に力を入れた方が良いのでは。そもそも認知度が低いでしょう」
「ですかねぇ? あ。でも一人だけ、いつもあなたが来てくださるくらいの時間にいらっしゃった女の人がいたんですよ。あんな朝一に来てくれるの、あなた以外初めてだったんでびっくりしちゃいました」

 その言葉に、財布を開きかけていた手がふと止まる。
 まさか、と思いながらも脳裏にちらついてしまったのは、週に一度だけ会うことができる彼女の姿。いや、しかしあの大雨の中わざわざ屋根もない吹きさらしの公園に来るはずがない。いくら遅刻したくないからと言っても、さすがに早く来るのはやめるか、もしくは近場のカフェにでも入るのが賢明だ。

「……どんな人でしたか」
「え?」
「その、昨日の朝に来た女性です」
「あぁ。別に普通のOLさんって感じでしたよ。なんか人からうちのこと聞いて来てくれたんですって」
「他には、何か言ってませんでしたか」
「ええ? あ、でもそういえば、��今日はその人に会えなかったからやけ食いします!�≠ネんて笑ってましたけど」

 確信ではないにしろ、ほぼそれに近い。昨日、彼女があの雨の中ここへ? 「八五〇円です」という店員の言葉に千円札を取り出して、渡す。引き換えに釣り銭を受け取り、ありがとうございましたという声を背中に浴びながら店を後にしてもずっと、頭の中から彼女の姿が消えることはなかった。



「七海、お前今日残れるか? この前の案件、思った通り燃えたらしい」
「……だから私は口八丁であんなクズ株買わせるのはやめろと言ったんです。こうなることは目に見えてた」
「そう言うなよ。あいつも上から成績上げろって圧かけられて必死だったんだろ」
「どうであれ私に皺寄せがきてるのは事実です。他人の尻拭いのためにする残業が一番クソだ」

 会社に到着するなり決定していた残業に、朝からとんでもなく胸中が殺伐とする。目先の利益ばかりを追求して後先を考えられない人間というのは一定数存在するもので、同じく巻き込まれた側である目の前の男に躊躇うことなく愚痴ってしまう程度には、私は本気で今の状況をクソだと思っていた。

 物事を達観することは大切だ。その場の感情だけでリスクを顧みずに動くなど賢い人間のすることではない。
 自分のデスクに荷物を置いて、ジャケットを脱ぎながら止まらない溜息と共にそんなことを考える。そのまま腰掛けようとしたところで一瞬、公園のベンチに座る彼女の姿が頭を掠めた。直後、よくもまあそんなことが言えたものだ、と自嘲した。その場の感情だけで、リスクを顧みずに動く。まさに先週、自分が彼女に対してしたことだった。

 自分ですらなにをしたのか一瞬理解が追いつかずに戸惑ったのだから、それは本当に不本意だった。ただ、彼女の華奢な肩に齧り付いていた蠅頭を祓ったあとにまだ律儀に目を閉じているその顔を見ていたら、どうしようもなく彼女の純粋さが眩しく思えてしまって、瞬間的に自分のものにしたいと考えてしまった。無意識下で、その目が自分を映すことを望んでしまった。

 毎週水曜日の朝七時半から八時半。なんてことはない、ただ面倒なミーティングと、それに遅れればたとえ電車の遅延が理由であってもさらに面倒なことを言う上の人間に辟易して、普段より一時間も早く家を出たのが始まりだった。初めは近場のカフェにでも入ろうかと思っていたが、その日に限って【コーヒーマシンの故障により、本日はAM10:00開店といたします。申し訳ございません。】という張り紙がしてあった。仕方がないのでコンビニでサンドイッチとミネラルウォーターを買って、当てもなくてきとうに歩いていたところで見つけたのがあの公園だ。

 彼女はたしか、驚いたような顔で私を見ていたと思う。今ならその理由も分かるが、三ヶ月前はそんなことは意にも介さなかった。たまたま見つけた公園に女性が一人いて先に朝食を摂っていた、というただそれだけのことで、それ以上でもそれ以下でもなかった。その中で普通でなかったことを強いて挙げるのであれば、釘付けになったように私の姿を追っていた彼女の視線だけだ。

 翌週は通常通りカフェが営業していたので、そこでモーニングセットでも注文して時間を過ごすつもりでいた。しかし、結局レジで注文したのはホットコーヒーひとつだけ。なんとなく、先週成り行きで立ち寄っただけの公園で過ごした静かな時間が忘れられなかったからだ。このときはまだ外気温もそこまで低くはなかったし、何かと条件が揃っていて丁度良かった。本来昼用として購入したパンとコーヒーのカップを片手に記憶通りの道を辿ると、そこに人の姿はなかった。

 自分でも意外だったのは、今日はいないのか、と一瞬考えたことだった。一人の方が何かと都合が良いし、おそらくこれが最初だったなら無人であることをむしろ幸運とさえ思ったに違いない。
ともあれ、先週と同じようにベンチに腰をかけて、熱いコーヒーをひとくち飲む。遠くから車のクラクションが聞こえたような気がしたが、ここはどこか切り取られた空間のように、都会の喧騒の一切を忘れさせてくれる気がした。

「……あ」

 ふと、そんな空間に美しいほどに馴染む凛とした音が耳に届く。それが驚いたような表情でそこに立っていた彼女の声だと気づき、形式的に会釈する。同じように彼女がそれを返して、先週と同じ場所でおにぎりを食べ始めた。パリ、という海苔が裂ける音が心地良い。そこに人の存在を感じることが、何故だか落ち着いた。しかし多分それが誰でも良いわけではないのだろうということは、漠然と理解できた。

 そこからは、毎週ほとんど同じことの繰り返しだった。彼女は水曜日の朝、いつも決まってそこにいた。毎日ここに訪れているのか、特定の日だけなのかは分からない。私たちは当たり前のようにその一時間を共にするし、出会い拍子と別れ際には互いに頭を下げもするが、言葉を交わしたことは無いに等しかったからだ。
 それでも彼女と過ごすその時間は次第に私の中で存在感を増していき、やがて仕事や人間関係で悪化した精神状態をリセットさせるための時間と言っていいほどになった。だから彼女の背後に蠅頭を発見した時には、呪術師を辞めてなお呪いを目にするということへの不満よりも、この時間を脅かされることへの不快感が上をいった。あとは先述の通りだ。

「七海、悪いけど今日は先に上がるな、お疲れ様」
「……ええ、お疲れ様でした」

 定時の鐘はとうに鳴り、今自分がこうして炎上した案件の対応に追われている間にも、オフィスからは一人また一人と社員が姿を消していく。それは上の人間ほど早いのだから、全く責任感だのやりがいだのと声を大にして言う前に、まずはその酒焼けした声をなんとかしろと言いたくなる。
 デスクトップの液晶に表示された時間に目をやると、二十時をまわったところだった。次いで、作業進捗を確認する。とてもじゃないが今日は帰れそうにない。この炎上の発端となる社員は朝から出払い各方面へひたすらに謝罪行脚をしているのだから、社内処理は残された手頃な人間が片付けるしかない。だからといって、普通に考えれば一人に任せるような作業量ではないのだが。

「……プレゼン資料の差し替えにグラフの修正、株式情報の更新、今回の件で手を切られた顧客をリストに反映、重客への連絡用雛形の作成……」

 一人ぶつぶつと残タスクを読み上げる。出だしさえ形にしてやれば明日事務課に投げられるような業務もそれなりにある。彼らには悪いが、元はと言えば自分の責任ではないのだから協力してもらおう。そんなことを考えていると、ふとデスクの上の卓上カレンダーが目に留まった。

「……木曜日」

 今週は彼女に会えていない。昨日、悪天候といえど公園に行くか否かを悩まなかったわけではなかった。いや、それどころか実際には準備も全て終えて、あとは家を出るだけだった。
 しかし、バケツをひっくり返したかのようなその雨を見て一般的な社会人がまず気にすることと言えば、当然電車の運行状況だ。自分も例に漏れずそれを確認して、いつも使用している路線が赤一色に染まっているのを知ると深く溜息をついた。すぐに家を出るも、「列車の間隔調整のために停車します」というアナウンスを二桁回は聞いて、疲労とストレスにうんざりしながらようやく会社の最寄り駅に着いた頃には、始業まであと十五分というところだった。

 先週の非を詫びようと思っていた。
 彼女は私を咎めはしなかったが、あまりにも身勝手な行為に嫌悪感を抱いたのはむしろ自分自身だった。彼女に恋人と呼ぶに値する人間がいるかどうかは分からないが、いたのであればなお悪い。自分がしたことももちろんそうであるし、ついでに言うならその事実そのものにもなんだか無性に腹が立つ。

 一度考え出したらついて離れなくなった彼女に会いたいという感情に、頭を冷やそうと席を立つ。別に会ってどうにかしたいというわけではなく、ただいつも通りに同じ空間を共有できればそれでいい。
ふう、と大きく息を吐き出して、ガコンと音を立てて落下した缶コーヒーを自販機から取り出す。通りすがりの帰宅途中であろう二人組が、明日は花金だから帰りに飲みに行こう、と声高に話しているのが聞こえた。

 ──金曜日。かちり、とプルタブを持ち上げる。

『水曜日と金曜日だけ、職場の鍵開けがあるので遅刻しないようにここで朝ごはん食べてます』

 彼女の言葉が思い出される。

「……金曜日」

 明日、彼女は公園に来る。


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