街灯点れど待ちぼうけ
ある日突然、運命の赤い糸ならぬ黄色い糸が見えた。
――そんな莫迦げた話をしたら、あの人は僕を笑うだろうか。
数日間続いていた雨が止んで、外は久し振りにからりと晴れた。ここ最近は仕事が立て込んでいるため、僕がこうして休暇を取るのは随分と久し振りの事だ。これといった用事もないが、部屋に篭っていてもする事がない。ただその程度の理由で、僕は普段から利用する日用品店や薬局、それから飲み屋街とも違う通りに赴いていた。
あまり馴染みのない路面店を幾つか覗くと、そこには価値の分からない骨董品や用途不明な雑貨が並んでいる。よくよく考えてみると、長らく飲み食い以外に金を使っていないような気がした。仕事漬けの日々を送っていると、給料は貯まるが如何せん使う時間がない。僕は元より物欲が強い方ではないけれど、せっかく来たのだから趣味の俳句に使う筆でも新調しようか。そんな事を考えながら、通りを歩いていた時だった。
「……あ」
とある一軒の店から、見知った顔が出てくるのが見えた。腕には色とりどりの花を集めた花束が抱えられていて、その人物は大層嬉しそうにそれを見つめている。つい足を止めてしまったのは、そうするには十分すぎる理由が僕の中にあったからだった。
「……あれ、吉良?」
ふと顔を上げた彼女が、視界に入ったらしい僕を見て目を丸くする。つまり互いに直ぐ視認できる程度の距離には居た訳で、その呟きは僕の耳にも届いていた。そして、その小指から伸びる黄色い糸も、僕にははっきりと見えていた。
「珍しいね、こんなところで会うなんて」
「え……。あ、あぁ……そうですね」
碌に挨拶もせず、ただ訝しげにその手元を見つめていたせいだろうか。不意に彼女が僕の顔を覗き込んで、「どうかした?」と尋ねた。どうかしたのかと問われれば、確実にどうかしている。けれど、正直それは僕の方こそ訊きたい事だった。
思わず返答に詰まりながら、彼女の左手小指に結ばれた糸の先をこっそり目で追う。それは垂れ下がって地面に着くと、どちらかといえば各隊の詰所がある方へ伸びている風に見えた。そして、少なくとも視界に捉え得る限りに終着点はない。
「……吉良? 大丈夫?」
なおも押し黙る僕に、彼女が再びそう尋ねる。心配の色を帯びる表情を見て慌てて大丈夫ですと答えるが、実際のところ脳内は未だ疑問符で埋め尽くされていた。
「……あの……
あえて言葉を濁しつつ訊いてみれば、彼女は抱えた花束を見つめながらまた嬉しそうに微笑む。
「あ、これ? これはさっき貰ったの。綺麗でしょ」
真昼間から酒を飲んだ訳でもなければ、白昼夢を見ている訳でもない。しかしながら、この糸が僕にしか見えていないというのはとりあえず事実なようだった。
目の前の先輩にその存在を告げるか否かを一瞬迷うが、何かの見間違いか、或いは幻覚という可能性も捨てきれない。というより、寧ろそう考えるのが普通だった。そもそも突然こんな話をされて、無条件にそうですかと信じる者が何処にいるというのか。少なくとも僕なら一度四番隊に掛かる事を勧めるし、自分自身に対してもそうすべきだと思っている。
「…………��貰った�=H」
二歩も三歩も遅れて彼女の言葉を反芻して、ようやく生まれた疑問を鸚鵡返しで口にする。糸に気を取られていたせいか、どうやら僕の脳の処理速度は最低効率を叩き出しているらしい。
「そう、貰ったの。……というか吉良、やっぱり何かあった?」
「い、いえ。別に……」
言われてみれば、彼女には自ら進んで花を買う人であるという印象はない。別に好まないという訳ではないのだろうが、少なくとも僕は今日の今日まで、彼女が花束を貰ってこれほど嬉しそうな顔をするなんて知らなかった。
誰から貰ったんですかという疑問は、無理矢理呑み込んだ。代わりに上辺だけの笑顔を張り付けて、「綺麗ですね」と同調する。本心からそう言えなかったのは、もしもそれを彼女に渡した相手がこの糸の先に繋がっていたらと思うと、胸の辺りが酷くざわついて仕方なかったからだった。
◇
普通に考えれば、運命の赤い糸というやつはその名の通り��運命の相手�≠ニ繋がっている。だから、彼女の黄色い糸の先にも誰かしらがいると考えるのは自然な思考の流れだった。それが示すものも��運命�≠ネのかどうかは知らないが、ただひとつ明らかな事といえば、その相手が僕ではないという事だった。何故なら、僕の指にはそれらしきものが見当たらない。それに彼女と相対した時、その糸は確かに別方向へと伸びていたからだ。
僕は元来こういった類の話を信じる
「――検査の結果ですが、特に異常は見られませんでした。とはいえお疲れのようですし、なるべく休まれた方が良いかと思います」
「……そうか、ありがとう。善処するよ」
訪れた総合救護詰所で、深く息を吐く。異常がなかった事への安堵と、依然原因が分からない事へのもどかしさ。その両方が込められた溜息だった。検査前の申告内容は��幻覚らしきものが見える�≠フみに留めていたが、ここ最近の僕の稼働具合を見れば真っ先に過労を疑われるのは当然の事だろう。
彼女の指にあの糸が見えてから、既に五日が経過していた。時期的なものと隊の特色が相俟って、僕――というより、三番隊の隊長格と上位席官――は相変わらず仕事に忙殺されている。五番隊や十番隊も似たような状態らしく、彼女の所属する隊もまた同じだった。そうすると必然的に互いの隊を行き来する用事も増えて、僕が仕事中に彼女を見かける機会も増えた。そうしてその姿を見る度、それはいつも最初に目に入った。
目に入ってしまえば、その先に繋がる相手が誰なのかという思考が脳裏を過る。結果、雑念で仕事の効率が落ちる。効率が落ちれば仕事は長引く。――まさに悪循環だった。そんな中でようやく四番隊に出向くだけの都合がついた日。それが今日だった。
「――あ。やっぱり吉良だ。お疲れ様」
「っ!?」
検査を終えて四番隊の隊舎を出た矢先、背後から突然聞き馴染みのある声がした。振り向かずとも、その先にいる人物が誰かなど直ぐに分かる。
「……せ、先輩。お疲れ様です」
気持ちばかりの心の準備をしてからその姿を視認すると、そこで初めて彼女の霊圧が体に染み渡る感覚がした。この人の霊圧に気付かないなんて、成程、確かに僕は疲れているらしい。
長らく執務室に篭りきりで書類作業に耽っていた弊害だろうか。どこか酸欠気味な気がする頭は、気の利いた話題のひとつさえ弾き出してはくれない。こんな状態では幻覚も見える訳だと納得しつつ、やはり僕同様に疲れが見える彼女へと向き直った。その腕には大量の書類の束。何かしらの仕事で此処へ訪れたのだろうという事は一目瞭然だ。
「四番隊にいるの久しぶりに見た。もしかして怪我でもした?」
「……いえ、そういう訳では」
「……それなら良かった。なんか吉良、最近ずっと様子が変だったから」
ひらり、と陽に照らされた糸が風で揺れて、細く輝く。
この一週間弱で厭というほど分かったが、僕に見える糸は彼女から
その終着点に関心がないと言えば嘘になる。しかし実際に知ってしまえば、この胸焼けのような不快感が明確なひとつの感情へ変わる事も理解していた。
「……そんなに変でした? 僕」
「うーん。というより……私のこと、避けてるのかなって」
えっ、という声が無意識に漏れ出て、それを聞いた彼女が案の定とでも言いたげに口を結んだ。次いで気まずそうに視線を逸らされると、僕はいよいよ言い逃れに窮する。
「そ、それには理由があって……」
「……私、何かしちゃったかな」
「いやっ、ち、違います! 先輩のせいではなくて、僕個人の問題というか……」
「……吉良の?」
こんな莫迦みたいな話を、それも本人にするだなんてそれこそ莫迦げていると思うけれど。こんな事を言っておきながら、それも彼女を不安にさせておきながら、今更
事実を打ち明ける事を躊躇うのは、この事象そのものが到底信じ難い話であるからというだけではない。それひとつでこんなにも気を揉んで、挙句仕事にまで身が入らなくなっていた自分の至らなさが露呈する事に、どうしようもない自己嫌悪感が付き纏うからだった。
「……今夜、説明する時間をもらえませんか」
そして、いい加減向き合わなければならない事を理解しているからだ。自身がこれほどまで焦燥に駆られ続けている、その理由と。
◇
彼女は、僕の霊術院時代からの先輩だった。多分、昔から憧れに似た感情は抱いていたと思う。それは先輩を敬うという意味での尊敬に近い憧れと、別世界の者に対する漠然とした憧れのような、そういうものだった。
情けない奴だと思われないようにだとか、失礼な言動や態度を取らないようにだとか。初めは、あの人から負の感情を持たれない事に重きを置いて行動していた気がする。けれどそれはいつからか、明確な��欲�≠ヨと変わっていった。例えば、彼女から真っ先に頼られる存在になりたいとか、隣に立てるだけの男になりたいとか、そういう欲に。
ふと自身の思考を客観視して、思春期の学生でもあるまいしと自嘲する。煮詰まったそれを切り替えるべく副官室を出ると、空にはもう月が昇っていた。恐らく街でも同様に、灯りが夜道を照らしている頃合いだろう。
先ほど伝令神機に入った連絡の文面を読み返して、僕は本日何度目かの溜息を吐く。といっても、内容は至って普通だった。��急な任務で遅くなりそう�≠ニいう、ただそれだけの文面。それなのに、今夜はやけに胸が疼く気がした。
そう、疾うに思春期の学生ではない。僕も、彼女も。だから本当は、嫌われる覚悟であの人の全てを奪ってしまえば、たかが一本の糸なんてどうとでもなってしまう。けれどそれを分かっていながら、どうしようもなかった。この感情はどうにも複雑で難解で、「目に見えるものだけが全てではない」などという綺麗事では片付けられない。それくらいに拗れて絡まった、一人では何処にも行き場のない気持ちの正体。
気付きたくはなかったが、知っていた。それが紛れもなく��嫉妬�≠ニ��独占欲�≠ナある事は、多分、もう随分と前から。しかも、それが恋愛感情由来という飛び切り厄介なものであるという事も。
「……最悪だ、本当に……」
夜闇に向けて一人項垂れて、やはり行き場のない言葉を吐き出す。自覚したそばから結末が分かりきっている恋など、この言葉以外でどう表せば良いのかが分からなかった。せめて僕に花のひとつくらい贈れるだけの気概があれば、彼女はあの嬉しそうな笑顔を僕の為だけに向けてくれただろうか。
不意に、少し冷たい風が肌を撫ぜた。依然考えは纏まらないままだが、このまま外に居続けたとて碌な思考には辿り着かない。そう思い室内へ戻ると、何やら蓄積されていたらしい疲労がどっと全身に押し寄せた。単なる疲れか、はたまた脳がこれ以上考える事を拒否しているのか。多分そのどちらもだろうと考えながら、僕は知らず知らずのうち規則的に進む秒針を見つめた。
――思考放棄、現実逃避、閉明塞聡。そういった何かから訪れる眠気に襲われて、抗う事も出来ぬままゆっくりと目を閉じる。僕の意識が深いところまで落ちていったのは、それから間もなくの事だった。
コンコン、という扉が叩かれる音に薄らと目を開ける。部屋の灯りはゆらゆらと揺らめいて、暗闇をぼんやりと照らしていた。
「……吉良副隊長。起きていらっしゃいますか?」
扉の向こうから、控えめな声量で僕を呼ぶ声がする。働かない頭をのそりと持ち上げてそちらを見遣ると、凝り固まった体がぎしりと音を立てた。――今のは、彼女の声だ。敬称をつけて僕の名を呼ぶのは、此処が三番隊の副官室であるから。そして、こんな夜更けにわざわざそのような場所を訪れた理由は……今夜時間が欲しいと、僕が頼み込んだから。
「っ、す、すみません! 今開けます」
一気に血が巡ったように思考が活性化して、慌てて扉へと駆け寄る。まだ寝起きの体は脳から突然送られた信号に対応しきれなかったようで、ほんの僅かな距離だというのに何度も足が縺れかけた。そうして、そのままの勢いで引き戸を開けば、驚いたように身構える彼女と目が合った。
「び、びっくりした……」
「……す、すみません。気が付いたら眠っていたみたいで」
「ううん、大丈夫。多分寝ちゃってるだろうなって思ってた。返信なかったし、昼間会った時も見るからに疲れてそうだったし……」
むしろごめんね、と謝る彼女に首を振る。次いで軽く周囲に目を遣ると、辺りには深夜特有の静かで澄んだ空気が漂っていた。気付けば月も随分と高い位置にあるようだ。もしかすると、もう日の変わる時間が近いのかもしれない。
視線をそっと彼女に戻すと、互いの目線がかちりとぶつかった。思わず、ごくりと息を呑む。心拍数が少しずつ上昇して、顔が熱くなる感覚がする。
「……えっと……」
本来であれば、任務完了の連絡があり次第彼女を迎えに出ようと思っていた。そして丁度良い飲み屋でも見繕って、そこで話をしようと。だから当然、こんな夜更けにこの人を私室へ招き入れようだなんて気は更々なかった。
「……上がり、ますか……?」
口から出た声は想定よりもずっと上擦っていて、僕が緊張しているという事くらい誰が聞いても分かってしまう。それが敏い彼女であれば尚更だ。この状況に対して何かしら意識しているだなんて、この人にこそ知られたくないというのに。
とにもかくにも、まさか部屋に招こうだなんて気はなかった、というのは本当だった。しかしながら、此処まで足を運んでくれた彼女に対して、こんな時間にわざわざ外で話をしようというのはそれこそ意識しすぎているような気がしてしまう。まあ結果として、僕のこの感情はいずれにせよ隠し通せるものではないらしい。
「上がってもいいなら、お邪魔しようかな」
「……どうぞ。おもてなしも何もできませんけど」
「そんなのいいよ。今日は吉良の話を聞きに来たんだし」
そう言って髪の毛を耳にかけた彼女の指に、最早見慣れた黄色い糸。陽が落ちた環境下で見ると、金糸雀色のように落ち着いた色をしている。拒まれなかった事に安堵しつつ彼女を部屋へ促して扉を閉めると、向こう側とこちら側で世界が隔てられた気分になった。たとえその扉の向こうに糸が伸びていても、今だけは。彼女の隣には、僕がいた。
「…………黄色い糸?」
眉根を寄せながら首を傾げて、心底不思議そうに彼女が僕の言葉を繰り返した。次いで自分の左手に目を遣ると、灯りに透かすように手を翳しながらじいっとそれを見つめる。
手のひらと甲を交互に繰り返し眺めているその人を見ると、自らが如何に非現実的な話をしているのかを再認識してしまう。
「……何故だか、僕にしか見えないみたいで」
「今も見えてる?」
「見えてますよ。そこに」
「……何処?」
そこです、と今一度左手の小指を示すと、目の前の先輩はまたも難しそうに唸り声を上げる。少しの間、彼女はそうして様々な角度から小指を見つめていたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。僕としても、正直なところ期待はしていない。それが自分以外に見えないという事は疾うに分かり切っていたし、普通であれば信じてもらえないであろう事も知っていた。だから、彼女がこんな話を笑わずに聞いてくれただけでも御の字だ。
「つまり吉良が私を避けてたのは、その黄色い糸が理由なの?」
ごく純粋な疑問。それも当然の反応で、僕は真っ直ぐにこちらを見つめる彼女の視線から逃れるように目を泳がせた。仮に僕がこの人へ特別な感情など何ひとつ抱いていなかったなら、初めからそこに糸があろうがあるまいが関係なかった。多少気にはなるかもしれないが、少なくともわざわざ避けるなんて事はしないだろう。
「……まあ、はい」
「吉良にとってこれは厭なものなの?」
「…………そりゃあ、厭ですよ」
「……そっか。それじゃあこれ、吉良とは繋がってないんだね」
これ、と言いながら左手を持ち上げてはいるが、それは便宜上、というやつだろう。僕が厭だと感じる理由を��自分と繋がっていないから�≠セと即座に解釈する彼女は、この気持ちの行方など疾うに察しているのかもしれない。或いは、逆に繋がっている事を理由に彼女を避けるような男ではないという、それなりの信頼と評価を得られているという事か。
「先に言っておきますけど……その先が僕じゃないということ以外、僕は何も知らないですよ」
「ふふ。気にしてないよ、そんなこと。私が知りたいのはこの先が吉良かそうじゃないかだけだから」
含みのある言い方に、胸の内がなんだか変にまごついた。前者であった方が良かったという意か、その逆か。別に今更この気持ちが露わになったところで、最初から玉砕する覚悟はできている。けれど万が一、ほんの僅かにでも可能性があるとしたら。僕はこれから先、この手の話は今度こそ信じずに済む。
「黄色って、幸運の色なんだって」
「幸運……へえ、そうなんですか」
「あとは、なんだろう。月の色と星の色と……」
彼女が藪から棒にそう言って、僕の頭には早速捻くれた考えが過る。幸運の色だとかそういうのは人が勝手にこじつけたものだし、月も星も、実際のところは本当に黄色い訳じゃない。情緒的で夢があるとは思うが、流れ星に願いを唱えたって叶いはしないし、月に兎は住んでいない。人間も死神も、迷信を作り出してそれに希望を委ねる者は一定数いる。僕からすれば、それこそ不思議な話だ。
思わず、溜息が出た。それは、非現実な事を口走りながらこんな理屈まみれの思考をする自分が、本当につまらない男であるという事を改めて実感したからだった。
「……ああ、それから、吉良の髪の毛も。すごく綺麗な色してる」
「――え、」
するり、と前髪の毛先を細く長い指で掬われて、優しく触られる。同時に、心臓の動きが分かりやすく活発になった。彼女の少し照れたような表情を見て、やはりあんな糸はただの幻覚だったのだと決めつけてしまいたくなる。そうして、この気持ちが、恋が、報われる事を期待してしまいそうになる。
「赤い方は、」
「は、はい……?」
「……赤い方の糸は、吉良と繋がってたらいいな」
「――っ!!」
恋愛に於いて、「目に見えるものだけが全てではない」などという言葉はやはり何処か綺麗事だと感じる。隠された感情を推し量るというのは容易ではないし、目に見えるものはやはり単純明快で分かりやすいからだ。けれど今、目には見えないはずの言葉がこんなにも後ろ向きな僕の思考さえ一瞬で色付かせたのは事実だった。
というより、こんな事を言われて期待を抱かない男が一体何処にいるというのだろう。揶揄われている訳でないのなら、彼女の
「…………自惚れても、良いんですか。僕」
緊張の溶け込んだ声で尋ねたそれに、直ぐに返答はなかった。その代わり、僕の隣に腰掛けていた彼女が、その左手小指をそっと僕の右手小指に絡めた。思わず生唾を呑み込んで、彼女の表情をそっと窺う。どうせ余裕綽々といった表情をしているのだろうと思っていたのに、その頬は仄暗い部屋でも分かるほどに紅潮していた。僕はそれを見るなり、また��この人がこんな顔をするなんて知らなかった�≠ニ思う。小指から薬指、薬指から中指、中指から人差し指。徐々に指を絡め返して、ゆっくりと探るように彼女へと近づく。
「……僕は、」
「…………」
「僕は、赤い糸なんてなくても――……先輩のこと、」
至近距離で見つめた彼女の瞳が揺れて、その中にいつになく真剣な顔をした自分が映り込む。勇気を振り絞って続く二文字を伝えると、触れ合った彼女の指先がぴくりと震えた。僕が耐えきれずその唇を奪ってしまうのと、彼女が「私も」と返すのは、ほぼ同時だった。
僕にだけ見える糸は、互いの指に複雑に絡み合っている。今この瞬間だけを見れば、それはまるで僕達を雁字搦めにして離れられなくするために結ばれたかのようだった。
◇
書類地獄であった繁忙期がようやく終わり、一部殺伐とした空気の漂っていた各隊に平穏が戻った。普段机に向かい続ける事を嫌う鳳橋隊長も今回ばかりは忙しそうで、その反動か、今は暇さえあれば執務室で楽器を弾くか何処かへふらっと出掛けるかのどちらかだ。どうやら本日は後者だったらしく、先ほど「自然に触れてインスピレーションを刺激してくるよ」と、僕にはよく分からない科白を残して出ていった。
一人の執務室は、少し前まで此処で徹夜をする日があったとは思えないほどに静かだ。数分前に淹れたばかりの茶を飲むと、心も体も落ち着く心地がする。コンコンと扉が鳴らされたのは、そんな折だった。
「こんにちは。……あれ、吉良くん一人?」
「! ひ、雛森くん。お疲れ様」
開け放されていた執務室の扉から姿を現した雛森くんに驚きつつ、真っ先にその手に握られた見覚えのある箱に目を奪われた。随分と毒々しい色をしているからなんとなく記憶に残っているだけかもしれないが、果たして僕は、これをいつどこで見たのだったろうか。
「鳳橋隊長なら今出てるけど……何か用かい?」
「あ、うん。実は、これについて訊きたくて」
記憶を辿りつつも用件を尋ねれば、今まさに僕の思考を占めていた箱を目の前に差し出される。原色に近い緑地に、派手な桃色の文字。黄色で引かれた強調線は蛍光色をしていて、極め付けは禍々しい字体で書かれた��幸運のロシアンクッキー�≠ニいう文字。さながら繁華街にある電光掲示板のようなそれは、まともな感性をしていれば先ず食べたいとは思わなそうなデザインだ。
「これ、この前平子隊長が現世で買ってきてくれたお土産なんだけど……。三番隊にも差し入れとして持って行ったって聞いて」
「――……あ」
��平子隊長�≠ニいう言葉を聞いて思い出す。そう、それこそ繁忙期の真っ只中だった。隊舎への泊まり込みが確定した日の晩、三番隊の執務室に現れた平子隊長が「お互いナンギやなァ」なんて言葉と共にこの焼菓子を応接机へ置いていったのだ。美味しくなさそうな見た目――外箱のみで、中身は普通だった――と思いながらも、何せ目が回るほど忙しかった。軽く糖分補給が出来るならそれに越した事はなかったし、鳳橋隊長も「せっかくだから皆で食べようか」と包みを開けたものだから、代わる代わる執務室を訪れていた席官たちも含めてそれを食べた。
事の経緯を雛森くんに説明すると、何故か元より申し訳なさそうだった表情が更にその色を増した。
「……何もなかった?」
「え?」
「五番隊でも皆で食べたんだけど、席官の子が一人変なものが見えるって言い出して」
「へ、変なもの……?」
余りにも心当たりがあるその状況に、思わず口の端が引き攣る。しかしながら、幾ら怪しげとはいえたかが焼菓子で幻覚を見るなんて、そんな事が有り得るのだろうか。
「本人は疲れてるだけって言うから、そこまで深くは訊かなかったんだけど……。ここ、見て」
渡された空き箱の裏面、雛森くんが示した箇所には、小さな文字で商品の説明と製造元の記載があった。
――��あなたに幸運をもたらす人が分かる!? 幸運のロシアンクッキー�∞�効果があるクッキーは一箱に一枚です�∞�どんな効果かは食べてみてからのお楽しみ!�∞�効果は一週間ほど持続します�∞�体に害はありません�∞�製造元:浦原商店�=B
「う、うわあ……」
「すーっごく胡散臭いでしょ!? それも浦原さんのとこのだし……」
確かに、何も知らなければ平子隊長はどうしてわざわざこんなものを選んだのだろうと思わされるほどに胡散臭い。とはいえ、僕はこの焼菓子の効果が本物である事を身をもって体験してしまっているのだから、その消費者と製造者の組み合わせには寧ろ納得がいくくらいだった。多忙な時期は殺伐としがちな隊の雰囲気を和らげるため、というのが目的なら、それは実に平子隊長らしい気がする。
「……幸運だから黄色い糸か……」
「……え? 吉良くん、何か言った?」
「――い、いや。何でもないよ。とりあえず、僕は大丈夫だから」
「それなら良いんだけど……。三番隊で変な症状が出た人がいたら教えてね! 平子隊長にはちゃんと言っておくから!」
そう言い残すと、雛森くんは「それじゃあまたね」と言って踵を返す。それを見送りながら、僕の頭の中は考えても到底分かりそうにない思考で埋め尽くされていた。
��幸運をもたらす人�≠ニいうのは、所謂運命の相手とは違うのだろうか。否、それ以前に。見えた事自体は真実だとして、あの糸は果たして意味のあるものだったのだろうか。それなら、食べたのは僕なのに、どうして彼女の指にそれが見えたのだろう。もしあの焼菓子が本当に��食した者に幸運をもたらす人物が分かる�≠ニいうだけの効果なのだとしたら、あの糸はもしかして初めから――……。
ごちゃごちゃとした考えは次々と浮かび上がるが、正しい事などやはり何ひとつ分からない。それでも頭を悩ませ続けていると、不意に扉の手前で雛森くんが振り返って、言った。
「そういえば、あたし三番隊の執務室にお花が飾ってあるのって初めて見た。なんだか雰囲気が明るくなったみたい」
その視線の先には、応接机のそばに置かれた花瓶。長らく置物と化していたそれに、今は珍しく黄色い花が挿してあった。
「……ああ、うん。僕もたまには花くらい買ってみようかなと思って……なんとなく」
お給料も使える時に使わないと勿体無いしね、と付け加えると、雛森くんは笑顔で頷いて見せたのち、今度こそ手を振って執務室を出て行った。
再び静寂が訪れた執務室で、僕も一人花瓶を見遣る。
……本当は、あの人のために花束を買いたかった。でも、今の僕にはまだそれだけの勇気がなくて。だから先ずは一輪だけ、練習のつもりで買ったのだ。鳳橋隊長は「執務室が華やかになったね」なんて喜んでいたけれど。
ふと伝令神機が震えて、僕に連絡を知らせる。確認してみると、それは彼女からだ。��良かったらお昼一緒に食べない?�≠ニいうシンプルな一文。それでも僕の口元を緩ませるには十分で、漏れ出てしまう喜びを隠すように画面から顔を上げた。すると、窓から差し込む陽が一輪の黄色い花を鮮やかに照らし出していた。
彼女曰く、幸運と月と星と、それから僕の髪の色。――成程、彼女からの誘いなんて幸運以外の言葉ではとても形容できないのだから、少しはこの色を選んだ事にも意味があったらしい。
窓へ向けて自らの手を翳す。そこには当然、何も見えはしなかった。けれど、指の隙間から漏れる光の糸が、今日はやけに眩しいような気がした。