なんでもない話
「……また痩せたんじゃないですか?」
背後からの声と共に、背骨の辺りを指先でなぞられる感覚があった。
「……それ、吉良が言う?」
「先輩、僕よりずっと細いですよ。忙しいのは知ってますけど、ちゃんと食べないと」
「食べてる」
「檜佐木さんから聞きました。最近は食べるより酒を飲んでばかりだって」
素肌に掛け布団だけでは、夜はまだ少し冷える。
何やら不満そうにぼやきやがらも、私には「やはり人のことを言えないだろう」と思えてならない細い手がゆっくりと前方へ移動する。それは最終的に、私を後ろから抱擁する形になったところでようやく落ち着いたらしかった。
一方の私はといえば、かつての学び舎で同期であった男からの悪意なき告げ口に小さな溜息を吐く。故意ではないと知っているけれど、また随分と余計な事を言ってくれたものだ。おかげで背後の後輩がすっかり恋人面をしている。
「お酒、苦手だったんじゃないんですか」
「……まあ」
「今日も飲んでますよね」
「…………まあ」
返事をすると同時に、抱かれる腕に一層の力が籠る。心配、不服、独占欲――多分、その他諸々。総合して簡潔に表すのなら、きっとただ拗ねているだけだ。
ひたりと密着した肌は心地良くて、どこか安堵感を覚える。誰でも良いわけではない。相手が吉良だからこそ、こんな風に思う。その事実に違いはないのだけれど、彼にはどうもそれが信じられないらしい。
「そんなに頼りないですか」
「なにそれ」
「だって、僕には何も話してくれないじゃないですか」
「吉良と仕事の話したくないだけだよ」
本心をそのまま笑って言う。それが吉良の中の何かに触れたのか、体温を感じていた背中はあっという間に敷き布団に張り付けられ、視界にはなんとも言い難い複雑な表情をした吉良と、それから木目の天井が映り込んだ。
「じゃあ、それを解消するためのお酒だって僕との関係に持ち込まないでください」
「……怒ってる?」
「……心配してると言いたいところですけど、正直面白くはないですよ」
そうは言っても、吉良の樺茶色の瞳にはやっぱり私への気遣いが有り有りと滲み出ている。長い前髪がさらりと落ちて顔に影を作り、眉間に寄った皺はいつも通りかそれ以上に深く見える。「ごめんね」と一言謝るとそれが一層深くなってしまって、このままではもう二度と取れなくなってしまうかもしれないというおかしな自責の念に駆られた。
吉良にとって謝罪は欲しかった言葉ではないのだろうと考えて、体を起こそうと試みる。けれど、男かつ副官である吉良の手に縫い付けられた手首はびくともしない。瞳で訴えてみても、吉良はただただ私を見下ろすばかりだった。
「……��虚しい�=Aが近いです。自分の大切な人が日に日に痩せていくのに、やっと会えたと思ったらこういう事をするだけで」
「嫌なら断ってくれたらいいのに」
「……因みにですけど、前の先輩なら本気を出せば簡単に振り払えてますよ」
「今が本気じゃないだけかも」
「自分の顔見てから言ってください」
珍しく手厳しいなと考えていると、大きめの溜息を吐いた吉良がそっと私の上から退いたのち手を引いた。
いとも簡単に持ち上がった自らの上半身を見て、なるほど、彼の言いたい事も分かると自嘲する。確かに、最近体力が落ちている事には気が付いていた。自身の健康管理もままならないなんて情けないと思うけれど、半月程前に長年の恩師を喪くしてからどうにも食事に味を感じない。多忙なんていうのは単なる逃げ口上で、きっとそんなの、吉良には疾うにばれている。
改めて、自分の腕や体を見る。それらが以前より随分と細く見窄らしくなっている事を知って、よくもまあこんな女を抱けたものだと吉良への同情の気持ちさえ湧いて出た。
この部屋へ訪れた際吉良が纏っていた浴衣を羽織らされると、それは思ったよりもずっと大きい。私は再び「ごめん」と小さく言葉を漏らした。
「……僕、料理とかあんまり得意じゃないですけど、うどんとか簡単なものはたまに作るんですよ。なんていうか、僕も結構二日酔いするから」
「……うん」
「だから……食べられそうなら作ります。確か、分けてもらった梅干しもまだ残ってるし」
「……うん、食べたい」
俯いて呟いた言葉はしっかりと吉良へ届いたようで、今度はほっとしたような溜息が聞こえる。そちらを見遣れば、吉良の眉間からはくっきりと刻まれていたはずの皺が消えていた。代わりに、ずっとそんな顔をさせていたのは自分だったのだという気付きと共に、私の罪悪感は少しだけ深くなった。
自らも簡単な寝巻きを纏ったのち台所で湯を沸かす吉良を、少し遠目で見つめる。言葉通り然程慣れない手付きで出汁の分量と睨めっこするその姿が、どうしようもなく愛おしく感じられた。
「ありがと、吉良」
やっと言えたその言葉に、吉良がこちらを振り返り目を丸くした。直後、「いや、でもただの冷凍麺だし、茹でるだけですよ。具だって碌なものがなくて」と少し恥ずかしそうに言う吉良に、私はまた身勝手に告げる。
「好き」
「それに出汁も市販の安いやつで……――え?」
「吉良が恋人だったら良いのに」
「なん……っ、え!? い、いや、それは僕もずっとそう思ってましたけど、な、なんで今なんですか!?」
「……うーん。なんでだろう?」
ごめんね、という三度目の謝罪と共に、鍋から溢れ出た沸騰した湯が「じゅう」という音を立てた。