夢の浮橋



 自分の事が嫌いになったのは、いつ頃からだっただろう。

 真央霊術院二〇六六期生・特進学級、主席合格。勉学は勿論の事、鬼道の扱いも同級生と比べてずっと得意だった。純粋な体力量や力量では他者に劣る面もあったが、基本的に人付き合いも苦手では無かったため手合わせの相手に困った経験は無い。当然全ての者と上手くやれていたという訳では無いし、主に僕が緊張してしまうという理由から、円滑な交流を図るのが難しかった人物もいる。それでもこの頃、僕は確かに自分を誇らしく思えていた。
 当時の僕は、自身の未来は明るいと信じて疑っていなかった。新米ながら、いつか護廷十三隊の隊長格まで上り詰めてやろうという野望も抱いていた。そして、自分にはそれを実現させられるだけの素質が備わっている事も知っていた。
 総合的に見て、僕の学生生活は極めて順風満帆としか言い様が無かったと思う。――あの日(・・・)を迎えるまでは。

 順風満帆とはつまり、裏を返せば逆境に慣れていないという事を意味する。大量の巨大虚と対峙したその日、僕は初めて死への恐怖を知り、それが骨の髄まで侵食する感覚を味わった。
 僕があれほどまで強く��死にたくない�≠ニ感じたのは、自らが優秀であると思い込んでいたからこそだったのかもしれない。自分はこんな志半ばで終わる様な男では無いはずだという思いが、果てしない絶望の中でも確かに存在していた。
 どれだけ優秀な者であろうとも、死んでしまえば皆同様に物言わぬ骸だ。寧ろ、結果としてその優劣が生死に依存しがちな死神にとって、死後に如何ほど優秀であったかを語られるなどまるで皮肉の様だと思う。

 今でもはっきりと覚えている。死という絶望の淵、僕らを助けに馳せ参じたその人らの背中を。そして、その刹那僕の中に深く刻み込まれた感情も。
 驚く程に頼もしく、そして嘆かわしい程に遠いそれに抱いた想念は��憧憬(しょうけい)�≠ナあり、��傾倒�≠ナあり、��陶酔�≠セった。
 思えばこれが、僕が無限に広がっていると感じていた己の可能性に自ら天井を作り上げた瞬間だったのかもしれない。
 あの人達と肩を並べられずとも良い。只、あの人達の背を任される様な死神になりたいと思った。彼らが必要とするのなら、僕は僕に出来る限りを尽くしてそれに応えようと、そう思った。


◇


「――吉良」

 柔らかい声色が極めて優しく鼓膜を揺すって、重たい瞼を持ち上げる。僕の名を呼んだその人が、見慣れぬ天井と共に僕を見ていた。
 まるで頭に靄(もや)が掛かったかの様に、思考がぼんやりと霧散している。全身は厭な汗に包まれていて、布団の中だというのに途轍も無い悪寒がする様な気がした。やけに静かなこの場所は、一体何処だっただろうか。僕を見つめるこの人は――こんな僕の事を好きだと言う、何とも稀有で特異な先輩だ。

「起こしてごめん。大分魘されてたから」
「――……僕、寝てましたか」
「うん。さっきまではちゃんと眠ってた」

 彼女の言葉を受けて、ああそうかと思い出す。そういえば、僕はもう半月もの間酷い不眠と悪夢に悩まされていたのだった。頭が寝起き宜しく働いていないのは、彼女の言葉を借りれば久しぶりに��ちゃんと�*ーれたからなのだろう。
 そして、この部屋はと言えば。僕が食事さえ碌に摂らないものだから、寝泊まりは此処でする様にと卯ノ花隊長から直々に押し込められた四番隊舎内の個室だった。

「……どのくらい、眠ってましたか」
「四時間くらいかな」
「先輩は……ずっと起きてたんですか」
「まあ。ちょっと、本の続きが気になっちゃって」

 掠れ声の僕に水を差し出しながら、彼女が優しく微笑んだ。上半身を持ち上げ、久方振りで慣れない寝台の頭部分へ背を預ける。彼女がこちらへ伸ばしているのと逆の手には、その言葉通り随分と分厚い本が握られていた。とはいえ、��それ�≠ェこの人の吐く優しい嘘である事くらい、僕にでも直ぐ判る。

 独りで悪夢に魘される夜、僕が時折重度の過呼吸を起こす事をこの人は知っている。そうでなくとも、深夜は足元や腹の底から這い上がる強烈な自己否定感と罪悪感に襲われ、幾度となく目が醒めた。そうして散々苦しんだのち、最後は決まって絶望に押し潰される。心から信頼し尊敬していた人物に利用され、そして捨てられたという変えようの無い事実が、いつも僕の脳天に真っ直ぐ突き付けられている。
 その度に体の震えが止まらなくなる事も、僕が過度な自己嫌悪から自傷行為に及びかねない事も、多分彼女は判っていた。だからこうして、こんな僕のそばに居るのだろう。心配しているのか、或いは監視しているのか。その真意は良く判らない。
 先程まで自分がどんな夢を見ていたのかは、最早思い出す事が出来なかった。それでも「もう人から嘘を吐かれるのは懲り懲りです」と僕が呟くと、彼女は困った様に、それでいて寂しそうに笑う。

「吉良に少しでも眠ってもらいたいと思ってるのは本当」
「そこまでしてもらっても、僕は何も返せませんよ」
「見返りを求めた記憶は無いけど」
「なら、尚更解りません。――……僕は、貴女の事だって裏切ったのに」

 ずるり、と喉の奥から厭な音がした。それはまるで、蛇が僕の首を内側から絞めようとしているかの様だった。
 大切な人に刀を向けた。忠実に護廷十三隊の死神であった人に、殺意を持って斬魄刀を解放した。そして、脳裏に過った目の前の彼女の事は、記憶の奥底に封印してしまおうと考えていた。
 ――否、本音を言えばほんの少しだけ、いつかもう一度会えたら良いと思った。例え敵対する関係になっていたとしても、この人から名前を呼ばれる機会があと一度でもあれば良いと思っていた。
 まあ、結局のところそんな覚悟は僕の存在ごと切り捨てられてしまった訳だけれど。

「……みんな理解はしてるよ。吉良にとって市丸隊長が絶対の存在だった事くらい」
「別に、理解して欲しいだなんて思ってませんよ。それに理解と許容はまるで違う」
「……吉良」
「先輩。僕は、貴女がどうなろうと構わなかった。最終的に雛森くんさえ護れるのなら、他の事はどうだって良かったんです」

 僕の首を絞めていた蛇は、喉を喰い破るなり器用に体を畝らせ今度は彼女の喉元に噛み付く。自らこんな虚言を吐きながら、僕はまたも��もう嘘は懲り懲りだ�≠ネどと考えていた。
 痛みを訴える様に眉根を寄せた彼女を見て、そのまま見放してもらえる事を期待した。今彼女が痛がっているのは、多分僕と同じ場所なのだろう。刃物で直接斬り付ける事は出来ないが、言葉ひとつで容易に致命傷を与えられる場所。
 頼むから、こんな僕に優しくしないで欲しいと思う。もしもそれが友愛なのだとしても、こんな僕を好きだなんて言わないで欲しい。優しさだとか同情だとか、そういう曖昧な物は酷く気味が悪い。いっそ損得勘定だけで動いてくれた方が、僕にとっては余程単純明快で気が楽だ。

「……もう寝た方が良いよ。吉良の負担になるなら、私は出て行くから」

 そう言うと、彼女はとても座り心地が良いとは思えない粗末な椅子から静かに立ち上がった。その所作が美しくて、僕は学生時代から度々この人のこういう所に目を惹かれていたなと思い出す。

 卯ノ花隊長がこの先輩を僕へと充てがったのは、単に僕達の付き合いが長いからという理由だけでは無かった。
 それは、僕が眠れなくなって数日が経過した頃――目を閉じる度に何処からともなく自らを叱責する声が降り注ぐ、そんな日々の最中だった。
 独りで居てもしきりに聞こえてくるその声は、やけに聞き馴染みのあるものばかりだった様に思う。常に責められ続けるものだから、食事も喉を通らない様な日が随分と続いた。それでもせめて仕事だけはと、僕は陽の射し込まない隊舎牢で四六時中作業机の前に座っていた。

 その時の事は、自分ではあまり覚えていない。だからこれは、あまりに根詰めた様子だったという僕を気遣って三番隊を訪れたらしい卯ノ花隊長から後で聞いた話になる。
 寂れた鉄格子の中、僕は読み物をする彼女に寄り掛かり、まるで電源が切れてしまった機械の様に眠っていたのだと言う。それでも生きている事を証明するかの如く呼吸は深く長く、卯ノ花隊長と彼女が幾つか言葉を交わす間も、静かなその場所には僕の穏やかな寝息が聞こえていたらしい。
 何故彼女だったのかは判らないし、彼女がいつ、どうして僕の元を訪ねたのかも忘れてしまった。只、あの時も眠りに落ちる寸前、今と同じ様に��この人のこういう所が昔から好きだった�≠ニ思った記憶が薄らとある。この場合の��好き�≠ニいうのは勿論、恋愛感情と同義では無い。

「――……先輩」
「ん?」
「あの人にとって、僕って何だったんですかね」

 何故そんな事を彼女に聞いたのかと、尋ねた直後に後悔した。案の定、一考ののち「それは市丸隊長にしか判らないよ」という返答があった。はっきり言わずともすぐにその人物の名を口に出されるのは、今の僕を相手にすれば当然の事なのだろう。
 かつてからずっと、憧れていた。あの人の直ぐ下で働ける事が決まった時、僕はようやく此処まで辿り着いたのだとやはり自らを誇らしく思えた。市丸ギンという人の背を任される事は、僕からすれば隊長格という肩書きより余程価値のあるものだった。それこそ、あの人に救われた命なのだから、あの人の為に使っても良いとさえ思える程に。

 実際のところ彼女の言葉は何の回答にもなっていなかったが、そもそも僕自身どんな答えを求めていたのかは定かではない。それに、下手な気休めを言われるよりかはずっと良かった。
 ふと、自嘲気味な乾いた笑いが口から漏れる。僕は、いつの間にこんなにも自分を否定する事に慣れてしまったのだろう。自分で自分を認められないのに、一体誰から認めてもらおうとしているのか。
 間もなく部屋を出て行こうとしていた彼女が引き戸の前で立ち止まる。その姿を視界に捉えずとも、去り際に彼女がこちらを振り返ったのは何となく感じ取る事が出来た。

「……吉良は吉良だよ」
「……え?」

 恐らくそれは先程の言葉の延長だったのだろうが、何処か思考を見透かされた気分になって顔を上げる。
 彼女の表情は、至って閑(しず)やかだった。僕から傷付けられる様な言葉を幾つも投げ付けられたのだから、いっそ罵倒の限りを尽くしてくれれば良いのにと思う。

「護廷十三隊の一員でもあるし、三番隊の副隊長でもあるし、市丸隊長の部下でもあったけど……。何を信じてどう行動するかは、吉良イヅルっていう一人の死神の選択で、そこに嘘は無いでしょ」
「……」
「えっと、だから……。つまり、そういう吉良の事が好きだって人、吉良の周りにはたくさん居るんじゃないかな」

 言い終えるなり少し気恥ずかしそうな顔を見せた彼女が、「じゃあおやすみ」という言葉と共に足早に闇へと消える。ぱたんという扉の閉まる音がしたところで初めて、僕は彼女に礼のひとつすら告げていない事に気が付いた。
 ――ああ、本当に厭になる。彼女といる時間がどうしたって心地良くて、僕は今、ほんの一瞬だけ見せてしまいそうになった。ありのままの僕を受け入れて欲しいなどという、傲慢で身勝手な欲の片鱗を。

 彼女の言う��吉良イヅルという一人の死神を好いてくれる人�≠フ中に、彼女自身は含まれているのだろうか。
 こんなにも浅はかで脆い僕など誰にも好いて欲しくはないのに、気付けばそんな事ばかりを考えていた。
 まるで一貫性の無い自分に、深い自己嫌悪に堕ちていく感覚がする。何時にも増して纏まらない思考が僕の脳内を繰り返し踏み荒らして、結局その後は一睡も出来ぬままに朝を迎えた。


◇


「おう、吉良。今朝は昨日と比べて二割増くらいには顔色良いんじゃねえか」
「……阿散井くん」
「眠れない時は酒に頼れって、乱菊さんが言ってたぜ」
「そうしたいのは山々だけど、今は四番隊から禁酒令が出てるんだ」

 今日も今日とて隊舎牢へ向かおうという僕を、聞き慣れた声が呼び止める。昨日も会ったばかりである同期の彼は、あんな事件の後でも以前と変わらぬ態度で接してくれる貴重な友人だ。「そりゃ残念だ」などと大して思っていなそうな表情で返す阿散井くんは、一見すると仕事で此処に訪れた風には見えない。

「……三番隊に何か用かい?」
「あー、否、使い走りだ。お前があんまり食ってねえっていうんで、好物の心太(ところてん)なら少しは食えるんじゃねえかってよ」

 そう言って差し出された僕宛らしい包みを受け取って開いてみると、そこには僕が一番好きな店の心太がある。��使い走り�≠ニいうくらいなのだから、当然これは阿散井くんからではないのだろう。では誰からか、というのも聞くだけ野暮な話だった。
 この包みにも、そこから微かに感じ取れる霊圧にも覚えはある。否、覚えがあるどころか、つい数時間前まで僕は自身の隣にその人を感じていたのだから。

「……有難う」
「礼ならあの人に言えよ」
「うん、でも、阿散井くんも。わざわざ有難う」
「……感謝される程の事じゃねえよ。まあでも、禁酒令が解除されたら一杯くらい付き合えよ」

 僕がそれを首肯したのを確認すると、阿散井くんは何処か満足気に笑った。僕の向かっていた道の先に執務室は無いのだから、その行き先が今日も牢である事は彼にも察しがついているだろう。それでも特にそこに触れようとしないところからも、��禁酒令が解除されたら�≠ニいう物言いからも、僕の心身を気遣ってくれている事は容易に想像が出来た。
 じゃあな、という言葉と共に踵を返した阿散井くんの背を見送る。揺れる緋色の髪が朝日に照らされているのを見て、相変わらず自分とはまるで対照的だと考えた。

 手元に残された心太を見て、僕はまたも昨晩の彼女の科白を思い出す。
 そういえば、阿散井くんも朽木さんを救出すべく尸魂界の意向に背いたのだと聞いた。それから、自らの隊長と一時的に対峙したとも。結果として彼らに伝えられていた四十六室の決定は全て贋物だったのだから、彼の選択と行動は正しかった。けれど仮にそれが正しくなかったとして、僕は阿散井くんを責める事が出来ただろうか。
 きっと、��六番隊副隊長�≠ナある阿散井くんを糾弾するのはそう難しい事では無い。けれど、阿散井恋次という一人の死神を嫌いになる事など、やはりとても出来そうに無かった。
 僕が今なお市丸隊長を憎みきれないのだって、多分同じ理由なのだ。
 赦されたいとは願っていない。好かれたいとも考えていない。けれど、彼女が僕に向ける感情の正体を知りたいとは思った。

「……美味しそうだな」

 随分と久しぶりに、腹の虫が鳴いた。

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