チョコレートドリンクと揺れる屍



 揺れている。
 ゆらゆらと、屍が揺れている。正確には、その身体が纏う霊圧が不安定に揺れている。
 長い前髪の隙間から覗く濁った瞳が、まるで責め立てるかのように私を見つめていた。

「……なあに」

 少し微笑んでそう問えば、冷えた指先がゆるりと私の顎を持ち上げる。次いでかさついた唇が私のものに重ねられると、啄むようにして何度かその感触を確かめられた。
 温もりを持たない舌は、まるで氷菓を食べた後のようだと思う。小さく吸われる音がして、屍の体温が名残惜しげに離れる。彼の眉間にはそれとは裏腹に不愉快そうな皺が刻まれていたが、その理由は訊くまでもなく本人の口から告げられた。

「……甘い」
「これ飲んでるの、見てたでしょ」

 彼が嫌うその人工的な甘味は、最近現世で見つけて購入した��チョコレートドリンク�≠ノよるものだった。湯を注ぐだけの粉末タイプで、脳を活性化させたい時に便利だ。飴のように口の中で転がし続ける必要もなければ、噛み砕く手間もない。砂糖菓子のように手が汚れる煩わしさだってない。ただ喉に流し込むだけというその手軽さと、体に悪そうな行き過ぎた甘さが癖になる。
 しかしながら、目の前の男はどうにもこれが気に入らないらしい。今更糖分など取り入れる必要のない身体になったせいか、或いは単にこの味を好まないだけか。
 飲む? とわざとらしく尋ねれば、返事の代わりに再び触れるだけの口付けが落とされた。

「……どうしたの?」
「別に、何も」
「何もないにしては不機嫌そう」
「……今日みたいに冷える日は、身体のあちこちに不調が出るので」

 ぎし、というおよそ��普通の者�≠ゥらは聞かないような音を鳴らしながら、吉良が右腕の付け根を動かす。本来であれば彼の一部ではない付け足されたそれを、本来であればもう屍であるはずの男が憮然とした表情で睨みつけていた。
 その接合部に手を伸ばして指先で撫でると、乾いた皮膚の感触とごつごつした樹脂のような感触が交互に伝わってきた。
 この部屋は今、暖房が効かない。だから、そのどちらもの感触が、吉良イヅルという男が死者である事実を無機質な温度によって証明する。

「――ほんと、寒いね」
「言ったじゃないですか。今日は僕の部屋じゃない方が良いって」
「うん。でも、寒ければ吉良とくっつけるかなって」
「……。分け合える体温も無いのに」

 そうは言いながらも、吉良は布団に包まる私にそっと身を寄せて、まるで壊れ物を扱うかのように優しく抱き締めてくれる。薄い胸板に体重を預けてみても、その鼓動が聞こえる事はない。それどころか、少し頭の位置を変えてしまうだけで彼の胸に空いた大孔に落っこちてしまいそうだった。

 吉良の部屋の空調が壊れてしまったのは、一週間ほど前の事だ。護廷十三隊の副隊長を務める男の私室ともなれば、本来その修理は迅速に手配されるべきものである。けれど、もう一年も前になる大戦が今もこの地に酷く深い爪痕を残しており、修繕の必要な箇所とそれを担う人手の数はまるで釣り合わないままだ。
 そういう背景から、急務でない(・・・・・)三番隊副官室の空調設備の修理には少々の時間を要するのだという。この部屋がいつもより余計に静かであるのは、つまりそれも理由のひとつだった。

「次に会うときは、先輩の家に行っても良いですか」
「良いけど、詰所まで遠いから朝早く起きなきゃだよ」
「……僕は先輩と違って元からそんなに早起き苦手じゃないです」
「……うーん、耳が痛い」

 思わず笑ってそう言うと、吉良の腕の力が少しだけ強くなる。��元から�≠ニいうのはつまり、今はそれ以上に早起きが苦手ではないという事だ。現在の彼にとって睡眠がどれほどの意味を成すのかを、私はよく知らない。
 ぼうっとそんな事を考えながら、何処に焦点を合わせる訳でもなく薄暗い部屋をただ見つめる。ふと指先が絡め取られると、いつもより数度冷えていそうなそこに柔らかく口付けられた。
 いつの間にか随分と穏やかになっている吉良の顔を覗き込んでみれば、それでいて相変わらず生気のない目と視線が交差した。

「こんなに冷たいと僕の方が心配になります」
「ん。ごめんね」
「……あれも、寒いから飲んでたんですか?」

 目線で示された先を見遣ると、そこにはまだ半分ほど残っているチョコレートドリンクがある。猫舌では飛び上がってしまうほどの温度で淹れたのだから、まだ少しは温かいだろう。

「それもあるけど。単純に気に入ってるから」
「……物好きですね」

 何処か含みのあるような言い方に「そう?」と返事をしてみれば、吉良は静か「そうですよ。本当に」と答えた。
 机の上に灯る蝋燭の火は、無風に感じられる部屋でも僅かに揺れる。ゆらゆらとあらゆる物に影を作りながら、夜闇を照らし出す。
 再びちらりと吉良を見上げると、何か考え事でもしているのかその瞼は閉じられていた。そうしていると、本当にもう二度と動かないのではないかと錯覚してしまいそうだった。

 吉良、と名前を呼んでみる。当たり前のように持ち上がった薄い膜の向こうに、小さな灯りに照らされる私が映った。
 揺れたのは、吉良の瞳か、私の瞳か。
 恐らく後者だったのだろうと気が付いたのは、吉良が小さく目を見開いたのち、戸惑うように私の頬を撫でたからだった。多分意識なんてしていないだろうけれど、それが彼自身のものである左手であった事に酷く安堵した。

「……好き」
「――どうしたんですか、急に」
「……何も。ただ、本当に好きだなって。吉良のこと」

 判っている。彼が屍である事も、私と同じ言葉を返すのを躊躇うだろうという事も。それでも、どうしてか伝えずにはいられなかった。
 そういうところが物好きなのだと言いたげに、吉良が困ったように眉尻を下げる。駄目押しと言わんばかりにもう一度その二文字を重ねると、やがて観念したかのようにゆっくりとその口が開かれた。

「……僕もです」

 望んだままの言葉は、やはり返ってこなかった。けれど、直後代わりというには十分すぎるほどの熱を孕んだ口付けが降ってくる。
 それが熱いと感じたのも、行き過ぎた人工的な甘味より余程甘く感じたのも、多分私の気のせいだった。
 それでも、繰り返されるその行為に感じた愛だけは確かに本物で、決して気のせいなどではないような気がした。

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